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さよなら青春

※主な登場人物

・湊鍵太郎…三年生。部長。

・野中恵那…二年生。クラリネット担当。

「この演奏に込めるべき気持ちは、先輩への恋じゃないと思うんです」


 楽器を持つ手を動かしながら。

 野中恵那(のなかえな)は、湊鍵太郎(みなとけんたろう)にそう口にした。



###



「相変わらず黒いねえ、クラリネットの譜面て」


 部活が終わっても練習を続けていた恵那に、鍵太郎はそう声をかけた。

 もうそろそろ片づけをして、音楽室を閉めなければならない。けれども、ギリギリまで練習はしたい――そんな彼女の気持ちは分かったので、無理に止めさせるようなことはしない。

 熱心に指を動かす恵那が、すごいなと思ったのもある。

 引っ込み思案な後輩ではあるが、しかし演奏にかける思いは誰にも負けない。

 だからこそ、中学でも高校でも色々なことがありつつも、こうして楽器を持ち続けているのだから――そう思って恵那の隣に腰かけると、彼女は吹くのをいったん止めて、こちらに言ってきた。


「いいえ。このくらいはまだ、そうでもないですよ。もっと細かい音符の譜面はたくさんあります」

「そうなんだ……」


 はにかんで言ってくる後輩の楽譜を、もう一度見る。

 恵那の吹くクラリネットの譜面は、鍵太郎の吹くチューバと違って各所に音符が数多く並んでいた。

 細かくて小さな動きが集まっているので、楽譜自体がおたまじゃくしだらけで真っ黒に見える。

 けれども後輩にとっては、これでもまだまだ足りないらしい。楽器が変わるとこうも基準も変わるのか。

 しかしなんにせよ、ここまで細かい動きができるのはすごい。よく吹けるよなあと鍵太郎が感心していると、恵那は言ってくる。


「はい。指を動かし続けるので、たまに楽譜をどこでめくるんだろう、みたいな曲もあったりします」

「本当にどうするの、それ?」


 ピアノではたまに、楽譜をめくるだけの係みたいな人も存在するが、吹奏楽の演奏会では見たことがない。

 吹きすぎて楽譜をめくれない、その先がどうなっているのか見えないままで、どうやって演奏するのだろうか。

 純粋に興味があって訊くと、後輩は首を傾げながら答えてきた。


「ええと。紐をくっつけて、吹きながらめくったり。楽譜を切り貼りして、見るタイミングをずらしたり。まあ、どうにかしてどうにかします」

「そこまでやる執念がすごいよ、ホント……」


 こちらとは演奏上の役割が違うとはいえ、そこまでいくと想像を絶する。

 一発一発が大きくパワーは必要だが、音符の数自体は少ないチューバからすると、恵那のやっていることはほとんど曲芸の域である。

 好きでないとできないだろう。そういえば、この後輩はいつだったか、こういう細かい音の連なりが好きだと言っていた。

 小さいものをつなぎ合わせていくと、流れで曲の色が変わっていくのだと――そこで見える景色が好きなのだと言っていたが記憶ある。


 だとしたら、今そこに込められている気持ちは、なんなのだろうか。

 そこまでして吹く、そうまでさせる執念の源というのは、なんなのだろうか――集中して練習するこの後輩の姿を見ると、そんなことを考えもした。

 好きな気持ち。

 それは、『どちらから』出てくるものなのだろうか。


 しかしそれをかつて告白され、断った身からすると恵那本人に直接訊くのは気が引ける。彼女自身からのラブコールはまだ続いているため、突っ込んでいってしまっても答えてくれそうではあったが。

 だとしても、音楽と自分、どっちが好きなの? みたいな無粋な質問、口が裂けても言えなかった。顧問の先生曰く『ウンコみたいな女』じゃあるまいし。


 鍵太郎自身だって、あの人への気持ちと演奏に対する気持ちを分けて説明しろ、と言われたら難しい。ただ、あの指揮者の先生には『音楽が好きな気持ち』を忘れないでと言われたので、気にはなる。

 この後輩は、どんな風に演奏と、自分の気持ちを扱っているのか――

 参考までに聞いてみたいけれども、どんな風に切り出せばいいのか。迷っていると、恵那はそんなこちらの思惑など知らずに言う。


「コンクールの本番も近くなってきましたし、やれるところまでやりたいなあと思ってます。だから、もうちょっとだけ……今日は、練習しててもいいですか」

「あ、うん……いいよ」

「大丈夫ですよ」


 何が――と訊く前に。

 後輩は、少し暗くなってきた外の景色をバックに、薄く微笑んで告げてきた。


「大丈夫です――いっぱい練習したふりをして、それで先輩の気を引こうなんて思ってませんから」

「……」


 彼女の長い前髪から(のぞ)く、瞳の奥に宿るのはなんなのだろうか。

 かつて『媚びている』とも言われたという、恵那はこちらのためらいに、何を見たのか。

 ただただ、背筋を震わせる凄味と共に、言ってくる。


「他にも、本番でわざと手を抜いて演奏して、東日本大会に行かせずに先輩を早く部長から降ろして、告白しよう――とかそういうのも、ですかね。コンクールの会場で、わたしのせいですって泣けば先輩は許してくれるとか、そういうことを考えたりはしません」

「……そう言えるっていう時点で、一瞬でも考えたんでしょう、それ」


 恵那の虚無に近い闇に呑まれそうになりながら、それでも鍵太郎はそう指摘した。

 ダウト、だ。

 考えたりはしない、と言っておきながら、やけに具体的なプランが出てくる。

 部長をやっている間は誰とも付き合わないよと言ったせいか、彼女はこちらがその瞬間を迎えることを、待ち望んでいるように思えた。


 けれども、それはこちらの望みとは相反するものなのだ。

 それは、この後輩も理解している。だから――あえてこんなことを言っている。

 前もって疑いを晴らすため、彼女のやりそうなことを口にしているのだ。

 それが『奏者としての野中恵那』の。

 こちらに対する誠意だった。


「そうですね。考えなかったといえば嘘になります。先輩は優しいから、こうすれば受け入れてくれるとか、つい思っちゃうんですよね。甘えたくなっちゃいます」

「……怖い考え方だね」

「はい、女の子は怖いんですよ?」


 誰かに仕返しをするんだったら、周り全部を裏切ってもいいとも思うし。

 好きな人のためなら、自分さえ偽るのが女の子です――と微笑みながら言う恵那は。

 どちらなのだろう。楽器の上手い後輩か。それとも先輩に恋する女の子か。

 確実なのは、その()()()()が彼女の中にいるということだった。

 場面場面で、使い分けているだけだ。楽器を手にしていないとき――恵那はただの、高校二年生である。

 好きな人を思う。

 ただそれだけの女の子でもある――どこにでもいる普通の、と付けられなかったのは、彼女が背負う黒さのせいだ。


 今だって、こちらを見つめるその瞳には、先を見通せないほどの暗さが漂っている。

 どんなことを考えているのか、分からなくなるくらいに。

 元からそういう素養はあったのかもしれない。ただこの後輩がそうなったのは、中学の時にあったという出来事が少なからず影響していているだろう。

 かつて部活であったという、悲劇。

 その最中で負った傷は――今でも恵那に、暗い影を落としている。

 けれど。


「でもね、()()()()()()、って思ったんです」


 それでも彼女は、呑まれないで立っていた。

 汚濁(おだく)の上であろうとも、それ以外のものも持っていた。


「それをやったら、先輩はわたしのことを許してはくれるけど、本当に愛してはくれないんだろうなって思って。いくら練習して、どんなに悲劇のヒロインぶっても――そんな『かわいそうなわたし』を、先輩は軽蔑こそすれ、好きになってはくれないでしょう?」

「……同情こそすれ、好きにはならないかもしれない」

「ですよね」


 こちらの返答に、恵那はよりいっそう嬉しそうに、微笑む。

 その顔は予想が当たったという無邪気な喜びと、こちらに対する好意であふれていた。

 いっそ抱きしめたくなるくらいに。

 背負った暗さからは考えられないくらいの、(はかな)い明るさだった。


「だから、わたしは本当にできる子だってことを示して、胸を張って先輩の彼女になれるようにがんばろうと思ったんです。全部が終わったとき――わたしのことを、選んでもらえるように」

「……そうなる保証がなくとも?」

「なくても、です」


 そう言って、後輩は再び楽器を構えた。

 そして、一息に長いフレーズを吹き切り――ふう、と息をつく。

 彼女の吹いたその箇所は、小さな音符が多く連なる黒々としたところだ。


「この演奏に込めるべき気持ちは、先輩への恋じゃないと思うんです」


 楽器を持つ手を動かしながら。

 恵那は、鍵太郎にそう口にした。

 その器用な指先でもって、しかし紡ぐのは不器用な結論でもある。


「そこはいったん封じます。好きになってほしいから、好きになってほしい気持ちを捨てます。大好きだからこそ――そんなわたしとはさようなら、します」

「……野中さん」

「これを先輩本人に言うこと自体、本当は卑怯なことなんでしょうね」


 わたしはこんなに努力をしてるんだ、だから――なんて、暗に言っているようなものですし、と。

 小さな肩を少し落として、後輩は言った。


「けれども、そうでもしないと先輩には分かってもらえそうになかったので。疑われてしまいそう、だったので。そこはあらかじめ言っておかないとな、と思って。そういうわけで先輩――わたしはもうちょっと練習していきます。時間までには片づけますので、もう少しだけ待っていてくださいね」

「あ、ああ……」


 また元の大人しい後輩に戻った恵那を見て、鍵太郎はうなずいた。うなずくしかなかった。

 こうまでして自分に好意を向けてくる相手のことを、誰が否定できるだろう。

 汚れていようが歪んでいようが、それでもその気持ちは本物だ。

 その証拠に、恵那の演奏は数段キレが増している。以前から上手い後輩だと思っていたが、ここ最近になってさらに磨きがかかった。

 彼女をこうさせたのは、誰かのことを好きな気持ちだし。

 元々音楽が好きだったからこそ、こうして楽器を吹き続けている。


「……鶏が先か卵が先か、みたいなもんか」


 どっちがあるから上手くなる、なんて考えることも無意味なのだろう。

 仮に分かったからといって、現状がどうなるわけでもない。むしろ両方持っているからこそ、車輪のようにして望む方向に動いていく。

 そういうことなのかもしれない。『好きな気持ち』は地続きでつながっていて、分けようとしても分けられるものではないのだ。


 人に傷ついた彼女は音楽を持っていたからこそ、好きな人と出会ってその旋律を強くさせた。

 この後輩を見ていると、そんな風に思う。まあ、その好意はちょっと怖いくらいで、執念というか怨念というか、そういうものが混じっているように感じられるけど。

 受け入れられるかどうかは別として、恵那のそういった姿勢はありだと思うのだ。


 その気持ちを演奏から排しておきながら、後輩を支えているのはただの恋心。

 そして、そうさせているのは(まぎ)れもない自分であって――改めてそう考えると照れるというか申し訳ないというか、色々と複雑になる鍵太郎ではあったが。


「……本当にさ。野中さん、なんで俺なんかを好きになっちゃったんだよ」


 その永久機関の中に自分が組み込まれているのが、まったくもって納得がいかない。

 あの場面で恵那のことを助けたから、なのだったら、それはやはり恩義と愛情をはき違えている。それは以前にも、説明したつもりだったのだけれども――

 その辺の認識に関しては、お互いにすれ違ったままだ。首を傾げていると、後輩はおかしそうに笑って言ってきた。


「それを言い始めたらですね、朝までかかってしまいますから――わたしが先輩の彼女になれたときに、またゆっくり、お話しますね」


 小さく細かい、好きになるまでにあった出来事を。

 それこそたくさん連ねて、語ってあげます――と。

 そう言って恵那は、大好きな旋律を大好きな人に向かって、流れるように吹き上げた。

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