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彼女は神でも悪魔でもなく

※主な登場人物

・湊鍵太郎…三年生。部長。

・宝木咲耶…三年生。バスクラリネット担当。

(みなと)くんはさ、全部なかったことにして、やり直したいと思う?」


 まるで、神のように、悪魔のように。

 宝木咲耶(たからぎさくや)は、湊鍵太郎(みなとけんたろう)に向かってそう口にした。



###



「うわー。部活行きたくないって久しぶりだなあ……」


 音楽室に行く途中の、階段の踊り場で。

 鍵太郎は上に登っていく段差を見上げながら、そうつぶやいていた。

 放課後になったらいつも足が向いていた、三階の音楽室。

 そこに行きたくないと思うのは、部活が荒れていた去年以来だ。当時は、先輩が怖いとか部活の雰囲気が悪かったとか、そういう事情があったから気が進まなかったのだが。

 今回はもっと根本的に、『楽器を吹くのがしんどくなってきた』という理由なので、よりきついものがある。


 これまでは自分は部長なのだから、と自身に言い聞かせてなんとかやってきたのだが、ついにそういった誤魔化しも利かなくなってきたらしい。

 なんとなく嫌だから、学校に行きたくない。

 そんな小学生のような心情である。高校生にもなってとも思うけれども、行きたくないものは行きたくないのだから仕方がない。

 まあその理由も、色々ひも解いていけばいいのだろうけど――そうすれば、こんな状態も改善するのだろうけど。


 今は、そんな気分にもなれなかった。三階に続く階段を見上げて、ため息をつく。東関東大会は徐々に迫ってきている。数日後には外部講師の先生もやってくる予定だ。

 なのにこれほど心が重いのは、どういうことだろう。

 結局その場から踏み出せずにいると――そんな鍵太郎に、横から声がかけられた。


「……湊くん?」


 首を傾げてそこにいたのは、同い年のバスクラリネット吹き。

 宝木咲耶だった。



###



「そっか。部活に行きたくない、かあ」


 彼女なら大丈夫、と思って事情を話すと。

 咲耶はやはり怒るでも悲しむでもなく、ただ単に事実を受け止めたといった風にそう言った。

 同い年たちの中でも、彼女の態度は非常にフラットだ。

 ガツガツしているわけでもなく、しかしだからといって、楽しければいいやといった感じでもない。

 精神的に安定している人間と話すと、こっちまで落ち着いてくる。この同い年になら、もう少し突っ込んだところまで打ち明けても大丈夫――そう思って、鍵太郎は咲耶に言う。


「……先生に言われた通りに、曲を仕組みの面から考えたり、分析したりしてみたんだ。そしたらなんか、吹いててつまらなくなってきちゃって」


 もっと上の大会に進むにあたって、楽典といった音楽の知識や、それに基づいた解析などをしてみた。

 それはそれで有益で、県大会のときよりも演奏は、格段によくなっている。だが――それに喜んだのも束の間、次の瞬間には妙な虚無感に襲われるのだ。

『なんだ、こんなものだったのか』――というか。

 これまでワクワクして見ていた手品の種を、明かされてしまった子どものように。


 どうにも格好のいい例えではない。鍵太郎が言っている内容の気まずさと、自分の感情の動きに恥ずかしくなって額を押さえていると。

 咲耶はそんな部長の問題発言にも動じず、ひとつうなずき、言ってくる。


「なるほど。もっと演奏の質を高めるために勉強してたら、これまでのことが大したことなく思えてきちゃって困ってる、と」

「それに加えて、そうならないよう他のいろんなことも取り入れてたら、むしろ逆にどんどんその状態が悪化してきてつらい、って感じになっちゃってさ……。学べば学ぶほどキリがないっていうか、いつまでこんな気分でいなきゃいけないんだ? っていう先の見えなさっていうか……」


 がんばればがんばるほど、世界の謎がバンバン解き明かされて微妙な気持ちになる。

 謎は謎のままがよかった。手品の種なんて知らない方がよかったのに。

 音楽というものに感じていたロマンというか、不思議だからこそ魅力的だった部分がなくなっていく。

 そして、それでもまだ分からないことがあり、研究しなければならない分野があることに虚しさを覚えるのだ。

 やってもやっても終わらない。

 そのことに疲れてしまったのかもしれない。かつてその足を動かす原動力であった未知のロマンが消え去って、自分はここに(たたず)んでいる。


 もう、今日は部活を休んで帰ってしまってもいいのではないか。踊り場で、三階ではなく一階に向かう階段を見て、そんな風に思ったりもした。

 そのまましばらく、休みたい。いったんこの道を進むことはあきらめて、これ以上のことを考えるのは止めてしまっていいのではないか、とすら考える。

 全部なかったことにして。

 素知らぬ顔をして過ごしていけることができたら、どれほど楽だろう――

 そんな風に、淀んだ思考で下の階を眺めていると。

 咲耶が言う。


「『ファウスト』だね」

「『ファウスト』?」


 どこかで聞いたことのある単語に、意識が反応する。

 鍵太郎が顔を向けると、同い年は変わらぬ調子で、穏やかに言ってきた。


「うん。ゲーテだよ。戯曲『ファウスト』。オペラとかミュージカルで上演されてることも多いね。この世のあらゆる学問を究めた学者さんが、でも知っても知っても何も変わらないってことに悩んでるっていう」

「……宝木さんも宝木さんで、だいぶ難しいことを勉強してるねえ」


 彼女が将来の夢のため、様々な文化圏の神話や伝説、風習などを収集していることは知っていたが。

 戯曲とは、またなかなか大変なものを持ち出してきたものだ。タイトルだけは聞いたことのある――確か、悪魔が出てくるのだっけか。

 よくは分からないが、そんな風なストーリーだったことはぼんやり覚えている。

『ファウスト』。

 主人公の名前が冠されたその物語は、一体どんなものだったか。

 難しい、と言われたのを気にしたのだろう。咲耶は少し考えてから、「――むかし、むかし」と言葉を選びつつ、そのストーリーを語り始めた。


「あるところに、この世界のたくさんのことを知ろうとした、ファウストという人がいました」


 彼は物知りで、一生懸命勉強をしていたので、周りの人から尊敬されていました。

 博士と呼ばれていました。けれども彼は悩んでいたのです。どれだけ知っても、何も変わらないということに。

 これだけがんばったのに、結局なんにも分からないということに。


「悲しさと寂しさから死んでしまおうと思った彼は、けれども呼び止められます。『人生をもう一度、やり直してみないか』――そう言ってきたのは、悪魔のメフィストフェレスでした」


 とても苦しんでいたファウストは、メフィストフェレスと契約を交わしました。

 気の済むまで、満足いくまでやってみるといい。けれどもその代わり、もうこれ以上ないというほど幸せな気持ちになったら、その魂をもらう。

 もう何もいらない、これでいいんだと思えたら、それで終わりにしよう、と。


「『時よ止まれ、(なんじ)は美しい』――この瞬間が一番いいんだと思えたら、それでおしまい。そう言ってしまったら、約束は果たされたことになる。ファウスト博士はメフィストフェレスの力を借りて、若返って色々なことをやってみることにしました――その先もあるけど、最初はおおむねこんな感じ」

「……なるほどね」


 同い年の言うことには、大体納得がいった。

 つまり咲耶は、自分がそのファウスト博士のように見えたのだろう。

 学んでも学んでも全部を理解しきれず、その先の道に迷う存在に。

 難しい、とは言いつつも、聞いてみればそれは誰しも思うことだった。『人生を、もう一度やり直してみないか』――そう囁かれたら、うなずいてしまう人間も多いだろう。


 今の自分のように。

 上に行くか、下に行くか。階段の踊り場で悩むのだ。

 その戯曲とやらがどんな結末を迎えるのか、同い年は語らなかったが――どうなるのか、興味はある。

 この世の全てを知ろうとして、魔法の力を手にした男の最後。

 それが、どんなものなのか。博士、なんて呼ばれる(ガラ)じゃないけれど、こちらもそれなりにやればやるほど虚しいことに悩んでいるのだ。親近感だって覚える。

 今度、調べてみよう――そう、思っていると。


「湊くんはさ、全部なかったことにして、やり直したいと思う?」


 まるで、神のように、悪魔のように。

 咲耶は、鍵太郎に向かってそう口にした。

 それは、(ことわり)の外から。

 自分に向かって呼びかけてくる、静かな声だった。


「もし、一年生の頃に戻れたら、二年生の頃に戻れたら。もしくは、吹奏楽部に入る前からやり直せたら――そう思う? できるかできないかは、さて置いて。何も知らなかった頃に戻れたら、って――そう思う?」

「それは……」


 思わない、と言えば嘘になる。

 というか、さっき思ったばかりだ。全部なかったことにして、素知らぬ顔をして過ごしていけることができたら、どれほど楽だろう。そんな願望は、どうしたって存在する。

 できるかできないかは、さて置いて。

 心の中にそういった思いがあるのは、事実だった。

 休みたい、眠りたい、もう勘弁してくれ。そう言いくなる自分は、いる。

 けれども、同時に。


「……思うけどね、思わないんだ」


 この同い年の問いかけに、心のどこかがぎくりと震えたのも確かなのだ。


「そりゃあ、やり直せたらいいなあとは思うよ。けど、なんだかさあ――やっぱり捨てられないんだよね。今持ってるものが」


 全部なかったことにする、というのは。

 この手にあるものも、いっしょくたに投げ出してしまうということでもある。

 悲しみも虚しさも、どこかで逃げたいなあと思っている不誠実さも、なくしてしまうということでもある。喜びも――と言いたいところだったけれど、あいにくと今のところそれは見当たらないので、残念ながら付け加えられなかった。

 だけど、そういったマイナスの要素のものばかりですら、誰かに預けるわけにはいかないのだ。


「だってこれ、俺のものだもの。他の人になんか渡せないよ」


 なぜなら、自分はそんなものですら手放したくないと思っているほど、強欲なのだから。

 その自意識は悪魔より強くて、何にも負けないくらいのはっきりとしたものだ。

 たぶんメフィストフェレスもドン引きする。こいつはヤベえ、とその魂を見れば思うだろう。

 音楽をやっている人間なんて、大体そんなものだ。

 繊細に見えて、心はまるで火の玉のよう。

 改めてそう自覚して、鍵太郎がそんな己の態度に苦笑していると、咲耶はくすくすと笑った。


「そうだよね。湊くんならそう言うと思ってた」

「あー……。なんかごめんね、宝木さん。愚痴っちゃって」

「いいのいいの。今は大変な時期だものね。言いたくもなるよ」


 そう言う同い年は、先ほどの超越的な雰囲気などどこにもない、普通の女の子の顔をしていた。神様でも悪魔でもなく、ずっと一緒にいると約束してくれた、そんな彼女の顔。

 そう言ってくれたのは、去年の選抜バンドのときだったか。そういった思い出もやっぱり、捨てることはできない。もしやり直すとしても、この地点は必ず通ることになるだろう。


 やりたい、やりたくない、ではなく。

 行きたい、行きたくない、ではなく。

『そういうもの』なのだ。


 自分は楽器を吹くし、音楽室には行くし、この同い年はその傍にいる。そういうものだ。

 単なる事実確認に、えらい時間を食った。もう行かなくてはならない。

 咲耶に「ありがとう」と言って、鍵太郎は三階へと続く階段を上がった。後ろから「別にそんな、お礼を言われるようなことじゃないよ」という声が聞こえて、同い年がついてくる気配がする。


「東関東大会に行くのだって、初めてなんだし。湊くんは部長なんだからさ。プレッシャーがかかるのは当たり前だよ。むしろ、どんどん言っていった方がいい」

「うーん、なんて優しい言葉……他のやつらに宝木さんの爪の垢を煎じて飲ませてやりたい……」

「いや、さすがにそれはどうかと思うけど」


 そんな他愛ないやり取りをしながら、音楽室に向かう。

 先ほどはつらいとか言ってしまったが、こういった時間はやはり楽しい。なんだかんだ、気の強い魂ではあるが、誰かと一緒にいるのはやはり好ましいのだ。

 咲耶などは、特にそうだ。

 自分は部活のみなを守ろうとしているが、彼女はときたま、こうして逆にこちらを守ってくれるかのような行動を取る。

 だから、今度はまた、何かあったらこっちが相談に乗ろう――困ったときはお互い様。

 そんな思いがあるからこそ、自分はこうして集団の中でやっていけているのだ。音楽室の扉をくぐって、気の早い連中が音出しをしているのが聞こえて。

 それに、少しだけ固まっていた心が動くのを感じながら、鍵太郎はそんな風に考えていた。

 耳に入る響きに集中して、分析して。

 だから、後ろで咲耶が小さくつぶやくのは、気づけなかったのだ。


「……ファウスト博士が、『時よ止まれ、汝は美しい』って言う瞬間はさ――周りの人の力になれた、そう実感できたときなんだよね」


 神でも、悪魔でもなく。

 ただ、『事実』という怪物に踏み潰されないよう――彼女は彼のことを、傍でずっと見守っていた。

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