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もしもピアノが弾けるなら

※主な登場人物

・湊鍵太郎…三年生。部長。チューバ担当。

・浅沼涼子…三年生。トロンボーン担当。

 浅沼涼子(あさぬまりょうこ)がピアノの前に座ったのを見て、湊鍵太郎(みなとけんたろう)は面食らった。


「え、おまえ、ピアノの弾けるの……?」


 ドン引きしたと言ってもいい。

 それほどまでにこの同い年とグランドピアノという組み合わせは、異色のものだったのだ。



###



 その、少し前。


「分かるかこんなものーッ!!」


 画面に表示された文字列を見て、鍵太郎は三階の音楽室から携帯を投げ捨てそうになった。

 外部講師の先生に言われて、音楽のルール――いわゆる楽典を勉強しようとしたのだが。

 ネットで調べても教科書を読んでいるようで、全く頭に入ってこずイライラしてきてしまったのだ。やれ和声的短音階だの旋律的短音階だの言われても、ピンとこないまま説明されていくのでどうにも納得がいかない。

 必要だからということで無理やり読んでいたが、とうとうそのフラストレーションが頂点に達した。

 携帯を握りしめて呼吸を荒げていると、近くにいた同い年が話しかけてくる。


「どうしたの湊。またなんか、難しいこと考えてたの」


 トロンボーンの浅沼涼子だ。

 言動は完全にアホの子だが、実はこの吹奏楽部の中でも一番といっていいくらい、才能に恵まれた人物でもある。

 それを生かして、彼女は音大の受験を考えているくらいで――こいつなら、ひょっとしたらと思いつつ。

 鍵太郎は涼子に言う。


「いや、あのさ。音階とかそういうのを調べてたんだけど、正直よく分かんなくって。おまえ分かるか? そういうナントカ的ナンタラ音階ってやつ」


 その天才肌がゆえ、人に教えるのが苦手という彼女ではあるが――それでも進路がそちらな以上、自分などよりはるかに知識は多いはずだ。

 あの指揮者の先生からも色々習っているというし、話を聞いているだけでも得るものはあるかもしれない。

 ひとりでウンウン(うな)りながら画面とにらめっこしているより、その方がはるかにいいだろう。

 まあ、このアホの子のことである。そうそう期待はしていなかったのだが――

 涼子は目をぱちくりさせて、首を傾げて答えてくる。


「うん。まあ、なんとなく」

「そうか、なんとなくか。やっぱりおまえに訊いた俺が馬鹿だった」

「んー。どうしよっかな。口で説明するのがすごく難しい」

「……浅沼?」


 最初の反応は予測できたが、続いた言葉がこれまでの彼女にはないものだったので、それが鍵太郎は少し不思議に思えた。

 これまでの涼子だったら、「わかんない! でもこんな感じ!」などと言ってこちらに、その手に持った楽器で実演をしてきたことだろう。

 けれども、今のこの同い年はもう少し、違うようだった。

 それが、どうしてなのか――やはり音大を受験するということで、その筋の人らしくなっているということなのだろうか。

 彼女は彼女で、成長しているということなのだろうか。だとしたら、それはそれで寂しいことだな――と思いつつ、鍵太郎は涼子を見ていた。この同い年のある意味変わらない天真爛漫さに、幾度となく自分は救われた気になっていたからだ。

 まあ、同じくらいの天衣無縫さには、散々振り回されたのだが。それがなくなるというのは、ほっとすると同時に妙に悲しくもある。そんな風に思いつつ、涼子を眺めていると。

 彼女は傾げていた首を戻し、ぱっと目を見開く。


「よし、分かった! じゃあこうしよう!」


 何が分かったんだ――と、問う暇もなく。

 同い年は()()()()()()()()()()()()()

 そして驚くこちらの手を握り、どんどんと歩いていく。涼子といえばトロンボーン、トロンボーンといえば涼子と思っていただけに、鍵太郎はそんな同い年の後ろ姿を絶句して見た。

 彼女の長い、ポニーテールが揺れる。

 そして、たどり着いたのは――音楽室のグランドピアノの前だった。

 さらにそこにある椅子に涼子が腰かけるのを見て、今度こそ鍵太郎は面食らう。


「え、おまえ、ピアノの弾けるの……?」


 ドン引きしたと言ってもいい。

 それほどまでにこの同い年とグランドピアノという組み合わせは、異色のものだったのだ。

 だって、想像してみてほしい。ジャングルを駆け回る女ターザンが、精緻(せいち)に並べられた白と黒の鍵盤の前に座る様を。

 だいぶ失礼な例えだとは思うが、鍵太郎にとってはそのくらい、涼子とピアノというのは縁遠いものだったのだ。

 しかしその当の本人は、実にあっさりとした調子で言ってくる。


「弾けるよー」

「マジかよ……。え、何、それも受験のために覚えたのか?」

「うん。城山(しろやま)先生が言ってたんだ。『ピアノが弾けると、音楽がもっと楽しくなるよ』って!」

「うええ……」


 涼子は特になんでもないように言っているが、こちらとしてはそれどころではない。

 改めて彼女が本物の天才なのだと思い知っていると、涼子はピアノの蓋を開け。

 そして、ぽん――と、白い(けん)を叩いた。


「こうしてこうして、こうするとー、これがハ長調、ってやつだね!」


 言いながら、涼子は次々と指を動かしていく。さすがに、流れるようにとまではまだいっていないようだが――その少しぎこちない指使いもまた、練習していくうちに洗練されていくことだろう。


「ここで黒い方を叩くと、ハ短調! すごいよね、ちょっと場所をズラすだけで明るくなったり、暗くなったりするの。えーと、確かこれが、和声的短音階ってやつで――」

「……おまえ、マジですげえな」


 わりとスラスラ出てくる専門用語に、もはや感心するしかない。

 長調とか短調とか、教科書で聞いてなんとなく理解しているくらいである。確か、長調が明るくて、短調が暗く聞こえるとか、なんとか――そのくらいのイメージしかない。

 しかしそんな自分と比べて、彼女はだいぶ先に行ってしまっていた。

 同じ初心者で入部して、三年も一緒にやってきたはずなのに、こんなにも違いが出てしまったのはどういうわけなのだろう。


「本当に……おまえは、なんでもできるのな」


 自分がつまづいているところなんて、なかったかのように飛び越えて。

 この同い年は楽しそうにしている。

 それをズルいとは思わない。

 ただ、やはり先ほどと同じように少し、寂しかった。

 彼女と自分は違う。それは分かっていたし、才能の差だと言われてしまえば仕方のないことだ。

 けれども、それでも涼子がどんどん遠いところにいってしまうことに、何も感じないといえば嘘になる。


「どうしたの湊。またなにか、難しいこと考えてるの」

「うん……まあ。最近さ。楽器やっててもなんか味気ないっていうかさ。色味がないように思えちゃって。それでちょっと落ち込んでるっていうのは、あるな」

「そっかあ」


 これから東関東大会に向けて、こういった音楽的なルールを――楽典的なことを強化していこうということにはなっていた。

 より鮮明な色を。

 よりはっきりとした形を――そう思ってやってみたはいいが、今のところ演奏はともかく、自分の心の中はまるで逆方向を行っている。

 ルールを課したことで、それまでの自由は制限された。

 これまで感じてきたものが、全部色あせていくような感覚は、つらい。

 それをどうにかなくそうと、こうやって様々なことを学ぼうとしているわけだが――今のところ、その状態から脱することはできていなかった。

 そして、訊かなくても分かる。このアホの子はそういった感覚にすらなっていない。

 そんなものすら追い越して、彼女はここまで行ってしまった。そのことに、かえって安堵(あんど)すら覚える。

 この同い年にはそんな小さなことで悩まず、こうしてずっと、こちらの言葉に能天気に返してくるぐらいでいてほしかった。

 涼子の周りに色がなくなるなんて、そんなこと――


「じゃあ、もっと音を鳴らそう。このあいだ、先生に教えてもらったんだー」


 けれども、そんなこちらのモノトーンの心など無視して。

 彼女は白と黒の鍵盤に向かい、もう一度指を差し出した。


琉球(りゅうきゅう)音階ー」


 途端、涼子の出す音から、潮の香りがした。

 南国の太陽と、白い砂浜、そしてエメラルドグリーンの海。

 それらの景色が、ぶわっと目の前に広がる。それに、鍵太郎が絶句していると――彼女は快活に笑って、そのまま言ってくる。


「えへへ。びっくりした? これ、沖縄の民謡とかでよく使われてる音階なんだって。レとラがないんだよ!? すごくない!?」

「すごいっていうか、どっちかっていうと、これ――」


 その音階だけでここまで表現できる、涼子の方がすごいのではないか。

 しかしそんなこちらの発言などみなまで聞かず、同い年はさらに続ける。


「オリエンタル・スケールー!」


 今度は砂漠の乾いた風が、辺りに満ちるような気がした。

 黒々とした影がひるがえり、その中からキラキラとした黄金が垣間見える。

 まるで、ランプの精でも出てきそうな――そんな、妖しい中東の気配を残して、その音は消え去っていった。


「こっちも、アラブ? アラビア? そういうところの音階なんだって。すごいよね、ピアノの鍵盤って白と黒しかないのに、こんなにいろんなことができるんだもん!」

「せ、世界旅行か、これは……?」


 涼子に引っ張られて、これまでも色々な景色を見せられてきたが、まさか今度は地球規模とは。

 振り回され加減が、もはやワールドワイドになっている。彼女は、成長ではなく進化したのだ――在り方は変わらず。

 ただのピアノひとつで、どこにでも人を連れていけるくらい。

 自分の悩みなんて、本当にちっぽけに思えるくらいに――そう考えると、馬鹿馬鹿しすぎてなんだかもう、笑えてきてしまった。

 この同い年は、いつだって自分の手を引いて、思いがけない景色を見せてくれるのだ。

 どんなに吹いていて味を感じなくなろうが、色が見えなくなろうが、それはまぎれもない事実だ。

 寂しくなんかない。

 彼女の才能は、いつだって誰かを祝福するためにある。


「あー、ようやく湊が笑ってくれた。ねー、先生の言ったとおり! ピアノが弾けると、音楽はもっと楽しくなるんだよ!」

「ああ、そうだな――ま、俺にゃ、弾けねえが」


 いつも通り、無邪気に笑ってくるアホの子に、こちらも苦笑いで返す。

 音楽室で弾くのは恥ずかしいし、家にピアノなんてない。

 大体、自分にはこの同い年のように、約束されたものなんてないのだ。器用に動く指先だって、確たるものに基づいた知識だって持ち合わせていない。

 白と黒の鍵盤を、どう叩けばいいのかも結局よく分かっていない。長調にも短調にもなり切れず、明るくも暗くもない――そんな、ひどく中途半端な存在。

 けれども、そんなこちらに涼子は、首を傾げて言ってくる。


「大丈夫だよ。湊も練習すれば弾けるよ」

「えー。マジかよ」

「うん。それ貸して」


 そう言って、同い年はこちらの携帯を手に取った。

 先ほどムカついてキレそうになり、音楽室の窓から投げ捨てそうになったもの。

 それをなにやら、操作して――涼子は、画面をこちらに向けて返してきた。


「はい! ピアノのアプリ、インストールしといたよ!」


 その目の前に差し出された、『ピアノ』という白と黒のアイコンに。

 今度こそ鍵太郎は、諸手を挙げて降参した。

 もし、この鍵盤に色を感じるくらいにの腕になれたなら――そのときは。

 自分も彼女と一緒に、どこか遠くにまで行けるようになるかもしれない。

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