冷えない関係
※主な登場人物
・湊鍵太郎…三年生。部長。
・千渡光莉…三年生。副部長。
・本町瑞枝…吹奏楽部顧問。
・城山匠…外部講師。
『祝! 吹奏楽部 東関東大会出場!』と書かれた垂れ幕が校舎にぶら下がっているのを、湊鍵太郎は呆然と見上げた。
夏休みが終わって、二学期が始まり。
登校したら、そんな文言がでかでかと掲げられていたのである。
その吹奏楽部の部長ではあるが、何も聞かされていなかったので非常にびっくりした。
いや、確かに創部初の支部大会出場だけどさあ――と鍵太郎が複雑な気持ちでその垂れ幕を眺めていると、ちょうど登校してきたのだろう。
副部長の千渡光莉が、同じく唖然とそれを見上げながら言う。
「あのさ、正直なところ、よ」
「なんだ?」
「これを作るお金があるんだったら、音楽室に冷房を設置してほしいと思うのよ」
「激しく同意」
まあ、こんなこと外部の人間には言えないのだけれども。
祝ってくれているということは嬉しいのだけれども、ちょっとその方向性じゃないんだよな――と思いつつ、鍵太郎は校門をくぐった。
夏休みは終わったけれど、自分たちの夏はまだ終わらない。
コンクールという舞台は、まだ続いている――さらに言うなら冷房が恋しい、残暑の厳しい季節である。
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「しょうがねえだろ、あれは校長が作れって言ってきかなかったんだよ!」
部活の時間になって、顧問の本町瑞枝に垂れ幕のことを尋ねてみたら、先生は半ばキレ気味にそう返してきた。
どうも、部活動の報告で県大会を抜けたと話したら、校長先生が乗り気になってしまったらしい。
冷房の設置については、建物に関わることのため急には手配できず、また今度――と、言われてしまったとか、なんとか。
先生という仕事もサラリーマンというか、なかなか上には逆らえないところがあるのだろう。「アタシだって……アタシだって、冷房ほしかったよ……」とぐったりと自分のデスクに突っ伏す本町の声は、悲哀にまみれている。
「ああ……でも、心配すんな。あれは、部費から作ったもんじゃねえから。東関東大会の予算には一切関係ないから、おまえらはこれまで通りに部活をやってればいいのさ」
「そのことなんですけど、本町先生」
顧問の先生の言葉に手を上げたのは、部長の鍵太郎――ではなく、学校にやって来ていた城山匠だった。
外部講師であり、今回のコンクールの指揮者でもある城山は、本町に言う。
「本番の会場、見てきたんですよね? それで、お話を聞いて思ったんですけど――湊くんの言う通り、前日に近場に泊まるっていうのは、アリだと思うんです」
「テメエ匠、なに言い出しやがるんだ、この金食い虫! 帰れ!」
「先輩が大会のことで相談したいから来いって言ったんでしょう!?」
音大の先輩後輩同士でもある二人が、素で言い争い始めるのを鍵太郎は横で聞いていた。
あくまで仕事として話すことの方が圧倒的に多い城山と本町だが、こうしてごくまれに、普段の付き合いが出ることがある。
名前で呼んでいる今などが、まさにそうだ。度重なる金策のせいで、顧問の先生もストレスが溜まっているらしい。
経済的なことについては、非常に敏感になっている。まあ、それを後輩にぶつけないでいただきたいものだが――と鍵太郎が大人二人を見守っていると、城山は続ける。
「本番の当日のことです。遅刻についてはまあ……なんとかなりますが、車酔いに関してはどうにもならない。野中くんのあの様子からしても、できれば近場に泊まって前日に調整したいというのはあります」
二年生の後輩が、以前バスでの遠出で乗り物酔いを起こし、体調が悪いまま本番に乗るということがあった。
あのときはフォローしてくれる人がいたのでどうにかなったが、今回はそうもいかない。
十分に気を付けて――といっても、なってしまうものはなってしまう。演奏に臨むにあたって、リスクはなるたけ減らしておきたいというこの外部講師の先生の主張は、鍵太郎にとっても歓迎すべきものだった。
というか、会場の隣のホテルを見たときにそれは、こちらも言った意見だった。
あのとき先生は、なんと言っただろうか。それを思い出す前に、本町は渋い顔で言ってくる。
「まあスッゲエ、言いたいことは分かるんだけどよ……真面目に話をすると、だ。東関東大会の演奏順が出たわけだが、うちの学校はなんと驚き、大トリだ。閉会式の直前。本番は夕方になる。時間に余裕がある以上、当日出発の日帰りで日程は組みたい」
「そこをなんとか」
「いや、普通あり得ねえからな? 県外とはいえ、同じ関東圏の学校が夕方の本番のために前乗りするなんて話……」
全国大会とかだったら、それなりにある話だろうが――と、自分でも言いながら困っているのだろう。顧問の先生は気まずそうに頬をかく。
生徒には十全のパフォーマンスを発揮してもらいたい。けれども、懐事情がそれを許さない。
頭の痛い問題だ。ギリギリのラインを綱渡りしているのを知っているだけに、先生たちの会話に口をはさめずにいると、城山が言う。
「会場の隣のホテルでなくても構わないんです。……実は、アテがないわけでもありません。前の学校にお世話になっていたときに、使っていたところが」
「……安くて広くて楽器の練習もできる宿泊施設、ってヤツか。あー、おまえもとうとう、そこまでのカード切れるくらいになってきたか……」
この指揮者の先生が、かつて指導していた学校というのは。
おそらく、山梨県にあるのではないか、と鍵太郎も予測していた。東関東大会の行われる神奈川県と山梨県は、実は隣の県同士でもある。
まあ、それでも横浜はかなり千葉県側、東京湾沿いにあるので遠いことには変わりないのだけれども。
それでももし、その宿泊施設というのが大会の会場に近いなら、前日はそこに泊まるという手もある。あとは、経済的な問題だけか――と本町と城山の話を聞いていると。
そんな鍵太郎に、顧問の先生は言う。
「じゃあ――まあ、検討はしてみよう。計算もしてみて……ああ、湊。おまえはいったん、下がってていいぞ。今日の練習をやっててくれ」
「あ――はい」
ここから先は、自分抜きで話すべきことらしい。
それが細かい予算の話で、こちらがその場にいても意味のないことだったのか、それともこの指揮者の先生の過去を聞かせたくなかったのか――
たぶん両方だなと思いつつ、鍵太郎は席を立った。
大会に向けてはもちろん練習もしなければならないし、部員たちは音楽室で音出しを始めている。部長としては、そちらの方に向かうのが今後のためになるだろう。
けれど、けれど、だ。
もう少し、こちらの言うことを聞いてくれてもいいのではないか。
蚊帳の外に置かないで、演奏している当の本人たちの言葉に耳を傾けてくれないだろうか――と、思ったりもするのだ。
垂れ幕の件もそうだが、いつだって大人の気遣いというのは少しズレている。
まあ、あの場にいても大して力になれないのは分かっているし、だったら自分は他のことをやっていた方が効率的なのだろうけれども。
にしても、この扱いはないのではないか。そう若干、むくれつつ鍵太郎は音楽室に戻った。
「あ、おかえり」
すると、入り口近くにいた光莉が声をかけてくる。
手には楽器を持っていて、今日の練習の準備は万端、といった様相だ。
他の部員たちも、めいめいチューニングをしたり、その音を同じ楽器同士で合わせたりしている。その姿を見ていると、自分がとても子どもっぽい駄々をこねているように思えてくるから不思議だった。
「あー……。要するに俺は、ひとりだけのけ者にされて、すねてるだけなんだよな……」
言い出しっぺはこちらだっただけに、余計に。
状況が自分以外の手によって動かされていくことに、焦りを覚えていただけなのだろう。
そんなことは気にせず、為すべきことを為せばいいのだ。例えば目の前にある、この光景に加わるとか――そう、自らの思考に苦笑して、鍵太郎は息をついた。
大人たちがどんな面倒な話をしていようが、本質的にそれは関係ない。
部長でもあるが、自分は演奏者でもある。だったらこっちはこっちで、やれることをやればいい。
事情を知らないながらも、既にそうしている部員たちを見ているとそんな風に思えた。
するとそんなこちらを見て、光莉が言ってくる。
「え、なによ。いつもよりさらに暗い顔して」
「いつもよりは余計だ。まあ、とりあえずだ。先生たちは東関東の前の日に泊まるかどうか話し合ってるから、俺たちは練習しててくれってさ」
そういったそれこそ余計なモヤモヤよりも、考えるべきことは他にある。
初出場となる一段上の大会に挑むにあたって、今日みたいにびっくりすることもあるだろうけれど、焦らずにやっていけばいい。
自分が溶け込める場所は、ここにある――
そう安心して考えていると、それも束の間。
同い年はしばし絶句した後、それこそ驚くべきことを言ってきた。
「え、前泊って……ひょっとして大会前日はあんたと一晩――ひとつ屋根の下で過ごすってこと?」




