馬鹿な話
※主な登場人物
・湊鍵太郎…三年生。部長。
・千渡光莉…三年生。副部長。
・赤坂智恵理…一年生。ピッコロ担当。
「宝木さんの指摘が正しいのなら、私があんなに悩んでたのは、一体なんだったのって感じだわ」
コンクールの反省会が終わって。
千渡光莉は湊鍵太郎に、複雑な表情でそう言った。
ソロはそんなに、演奏の評価には影響していない。
そんな同い年の考察は、今回の大会でそのソロに命を懸けそうなくらいがんばっていた光莉にとっては、拍子抜けするような話だったろう。
そして同時に、中学のときの出来事だって――
「……大丈夫か千渡。色々あって混乱してないか」
大前提がひっくり返されたことになる。ソロが吹けなかったから金賞になれなかった、これまで彼女がずっと考えてきたことが、覆されたのだ。
先ほどの反省会では、事情を知らない部員もいたため、そこは言わないでおいたが――光莉の表情に、鍵太郎は自身も混乱しながら、そう口にした。
中学三年から高校三年まで、ずっと思い込んできたことが違うと言われたのだ。
驚かない方がどうかしている。こちらの言葉に同い年は、やはり「……うん。まあやっぱり、混乱はしてるわ」と首を振った。
「昔のことと今のことで。なんていうか、馬鹿みたいって思った。あんなに私が苦しんできたのは、全く意味がなかったのかって。周りにあんなに責められたのも、全然見当違いのことだったのかって」
「……だからといって、おまえがこれまでやってきたことが、否定されたわけじゃない」
「そこは分かってるわよ。馬鹿にしないでよね」
まあ、我ながら馬鹿だとは思うけど――と、やはり衝撃で精神的に揺れているのだろう。
言っていることと態度をコロコロ変えて、光莉は自身もこめかみを押さえつつそう言った。
かつて彼女は、その頭の中で『おまえがソロを間違えたから、金賞を取れなかった』という声が止まない、と言っていた。
しかしもう、その呪詛とも呼んでいいそれはなくなったのだ。
聞こえなくなったわけではないだろうけど、少なくともだいぶ小さくなったことは確かだろう。
長年一緒にいすぎて、もはや自分の一部。
そんなものになっていたから、心のバランスが崩れている。それの調整のためだろう。光莉は頭を指で叩きつつ、思考の整理をしている。
「なんていうか、なんていうか、よ。じゃあ、なんだったのって思うのよ。それが原因じゃなかったら、なんで私は中学のとき、金賞を取れなかったって思うのよ」
「……周りの人間も、それなりにヤバかったってことだろう」
同い年の考察によれば、だ。
コンクールの評価は、ソロへの配点はほとんどない。
むしろそれ以外の、全体でどんな音を出しているかの方が、審査の対象になっている。
だったら、事実としては――その演奏を実際に聞いたわけではないのでなんともいえないが、光莉以外の人間も、それなりにミスをしていた、ということではないだろうか。
分かりやすい失敗をした彼女が、責められることになっただけで。
誰かを悪者にしなければ、みな現実を受け止められなかった。
蓋を開けてみれば、そんな話だったのではないか。
そう鍵太郎が言うと、光莉はきょとんとした顔になった。
「……そう、なのかしら」
「そうとしか考えられないだろ。というか、おまえよく、人のせいにしなかったよな。普通そんなことされたら思うだろ。『おまえも間違ったくせに!』って」
「いやー、あのときは、自分がやらかしたことがショックすぎて、そうとしか考えられなかったというか……」
周りの全員がそう言うから、そうなんだと思っちゃったというか――などと頭をかく同い年に、鍵太郎は半眼でため息をついた。
どうしてそういうところだけ、無駄に素直なのだろうか。
そういうのは、もっと違うところで発揮してほしい。普段の言動を振り返ってそう思っていると、光莉も光莉で昔の記憶をたどっていたのだろう。
やや遠い目をして、彼女は言う。
「あのときは、よく言われてたのよね。『トランペットの一番は外すな! 間違えるな!』って」
「……そうか」
「そういうところだったから。できないんだったらいくらでも替えはきくから――って、そういう場所だったから」
みんな、自分の居場所を守るのに必死だったのよ――と。
こんなことになっても人のせいにしない光莉に、その強さに鍵太郎は沈黙した。
そういえば、この同い年自身の口から中学時代のことを聞くのは、これが初めてのように思う。
他の人間から耳にしたことで推し量ることはできても、彼女がかつての境遇を語ることは、これまでなかった。
それだけ今回のことで、過去と向き合うことができるようになったということだろう。頑なに目を背けていたことから逃げなくなった。それは、つまり――
「ああ――そうね。あのとき金賞を取れなかったのは、私のせいじゃなかった。そういう、ことなのね……」
事実をまるごと受け止められるようになった、ということでもある。
確かに、光莉にもまずかったところはあっただろう。それは、彼女と当時一緒に吹いていた部員から聞いているし、実際に未熟だったということもある。
けれど、それを全部ひとりで抱え込むのはもう止めてもいい、と。
そう思えたことは、光莉の今後の演奏に、大きく影響してくるはずだ。
時間はかかったかもしれないけれど、その分だけ彼女の音には深みが加わった。トラウマだった傷は大きなカットになって――その分だけ、音を輝かしいものに変えていく。
それは光莉だけの『たからもの』だ。
ダイヤモンドの輝き。
その高潔な光を携えて、彼女は次の本番でまた、違うソロを響かせてくれる。
どこか吹っ切れた同い年の顔を見て、鍵太郎はそんな風に思った。
「ああ――よかった。種明かしをしてみたら、本当に馬鹿だなあって自分でも思うけど――それでも、なんか……ずっと吹き続けてて、よかったわ」
「そうだな、よかった」
投げ捨てなくて、本当によかった。
その感情を自分自身に迎えられて、本当によかった。
他人からすれば、おもちゃのように安っぽくて軽くても。
それはあなたがあなたである、唯一無二の証。
影のようにつきまとう、あなた自身の姿――
かつてそう、あの人は言っていたけれど。
自分がそうであったように、人はやっているうちに、どこかで突然救われることがある。
その気持ちを抱えている限り――と、思ったところで。
鍵太郎は、同い年に言う。
「……今日はもう、疲れてるだろう。帰って休めよ。盆休み明けからまた、練習が始まるんだし」
「ん、そうね。休めるうちに休んでおかないと」
夏休みの宿題も片づけなきゃだし、などとそこだけはゴミ箱に投げ捨てたいものを口にして、光莉はうなずいた。
その晴れやかになった表情を見ていると、彼女の気持ちの整理に付き合って、よかったと思う。
過去を清算して、未来に向かって。
『今』を生きるようになった同い年は、とてもまぶしい。
こちらの目が、つぶれてしまいそうなほどに――と思っていると、光莉が急に視界に入り込んできた。
「じゃあ、私は帰るけど。あんたもあんたで疲れてるだろうから、しっかり休みなさいよね!」
「お、おう」
「あと――馬鹿みたいな話に付き合ってくれて……あ――ありがと!」
と――
最後だけは照れたのか、顔を真っ赤にして、耳まで紅潮させて。
同い年は逃げるように、その場から立ち去ってしまった。
「はは……」
なんだか勢い余って、突き飛ばされた感触さえある。
色々と話したけれども、その辺りはいつもの光莉だった。そこは微笑ましく、彼女の背中を見送って――
同い年の姿が見えなくなってから、ぽつりとつぶやく。
「おまえは強いな、千渡……」
自分はかつて、人のせいにした。
恵まれていなかったから、当たり散らして迷惑をかけて、失って。
そこでようやく、本当の弱さを知った。
彼女に周りの人間も悪かった、と言ったのは、かつて自分がそう思っていたからだ。
長年一緒にいた病理が、自分の一部になっているのはこちらも同じだ。
ふとした瞬間に、どこからも照らされない真っ暗な部分が、顔を出す。
劣等感むき出しの、それこそ悩んでいても仕方のない馬鹿な話が、頭の中でぐるぐる回る。
同い年の光が強烈すぎたからだろうか。
自分の後ろにある影が、濃くなったような気がした。窓の外の夏の日差しは厳しくて、もう勘弁してくれ、と言いたくなる。
そんな考え方になっているということは、先ほど言われたようにたぶん自分は、疲れているのだろう。
心のバランスが危うい。去年と似た感じだ。
早く帰って休もう――と、足を動かそうとしたとき。
「セーンパイ!」
「どうわぁっ!?」
後ろから抱き着かれて、鍵太郎は悲鳴をあげた。
転びそうになるのを、なんとかこらえて振り返ってみれば――そこにいたのは、一年生の赤坂智恵理だ。
キラキラピカピカの、夏の化身のような明るい後輩。
そんな彼女は、目まで輝かせてこちらを見上げ、言ってくる。
「堅苦しい話は終わりっスか!? じゃあ今度は、あたしに付き合ってください!」
「OK、って言うまで離してくれない気だよね、赤坂さん!? 一体なに!? 今度は一体、なんなんだよ!?」
「祭りっス!!」
休めるときに休んでおかないと、と人は言うが。
智恵理にとって、それはむしろ発散――思い切り外に出ることによって、もたらされるものらしい。
元気が有り余っている二つ下の後輩は、去年と同じく大きく身を乗り出し、叫んできた。
「祭囃子っス! センパイ、あたしの晴れ姿、今年も見に来てください!!」
真っ暗闇の中にいても、疲れ切っていても。
その気持ちを抱えている限り――
かつてそうであったように、人はやっているうちに、どこかで突然救われることがある。




