言わなくてはならないこと
※主な登場人物
・湊鍵太郎…三年生。部長。チューバ担当。
・千渡光莉…三年生。副部長。トランペット担当。
・大月芽衣…一年生。チューバ担当。
・片柳隣花…三年生。ホルン担当。
・宝木咲耶…三年生。バスクラリネット担当。
「では、ここで前の団体の演奏が終わるまで、待機をお願いします」
リハーサル室を出て、舞台に入る通路までやってきたとき。
湊鍵太郎は、この大会の係員である女子生徒にそう言われた。
夏の吹奏楽部の大会、吹奏楽コンクール。
これから、その本番を迎えるのだ。一年生から三年生の今まで、いろんな気持ちでここまでやってきたけれど、それでも考えることは変わらない。
この待ち時間は、いつも緊張する。
当たり前だけれども、大切な本番だけに身体がそんな反応をする。三年生、高校最後の県大会。結果がどっちに転ぼうが、その本番が最後であることは変わりない。
だったら――
「さて、と」
これからの演奏に悔いを残さないため、今の時点で声をかけなくてはならない人間がいる。
そんな風に、前々から決めていたことを実行するため、鍵太郎は静かに楽器を置いた。
そして隣にいる一年生、同じ楽器を担当する大月芽衣に言う。
「ごめん、ちょっと行ってくるね。すぐに戻るから」
自分のように本番前に緊張して、周りが見えなくなりがちになるというのなら。
これからやる曲で、すぐにソロのある――気負いがちな、あのトランペットの同い年に話しかけなくてはならない。
彼女のためにも、自分のためにも。
本番前に、あの副部長には伝えておかなくてはならないことがあるのだ――と、部員たちが並ぶ中を、歩いていくと。
千渡光莉はやはり、自分の楽器を抱えて、黙って下を向いていた。
指が、これからやるソロの確認だろう。同じ動きを繰り返している。
そんな光莉の前に立つと、彼女はさすがに気づいたのだろう。手元から顔を上げた。
「……なによ」
角度も相まって、どうにもこちらを睨みつけているようでもある。
本番を前に殺気立っているというのもあるだろうが。そんな同い年の様子に苦笑いして、鍵太郎は言う。
「いや、演奏前におまえに、言っておかなくちゃならないことがあると思って」
「……言っておかなくちゃならないこと?」
数日前に調子を崩し始めて以来、彼女は懸命に、どうにかソロを成功させようともがいてきた。
同い年たちに演奏を聞いてもらってアドバイスを求めたり、自身も奏法の研究をしたり――それでも本番という場所では、何が起こってもおかしくはない。
練習で出来ていたことが、本番で出来なくなるというのはよくあることだ。
だから彼女は、成功する確率をなんとかして上げようとしてきた。そのひたむきな姿勢を見てきた者として、鍵太郎は同い年に言う。
「大丈夫。失敗してもどうなっても、みんなおまえを責めないから」
それは、上手くいってほしいという思いはある。
そのことに関しては、当の本人である光莉を始め、ここにいる部員全員が同じ心境だろう。
けれども、だからといってミスをしたらがっかりするとか、そういったことはない。
「みんな、おまえが努力してきたことを知ってる。ソロは、ひとりで吹くものかもしれないけれど――みんなの気持ちは、ずっとおまえの傍にある。それを聞きとって吹けば、ちょっとは怖くなくなるだろう?」
音を出していなくても、一緒には吹いていなくても。
それでも応援したいという気持ちは、ずっと彼女を支えている。
光莉自身が、なかなか気づかなかっただけで。そう考えていた通り、彼女は心のどこかでまだ、失敗したらみなに失望されると思っていたのだろう。
硬くこわばっていた表情が、こちらの言葉に少しだけほどける。それが完全にほぐれるには、この本番で光莉が、自分で納得できるだけの演奏をするしかないのかもしれない。
けれどそんな中でも、全員の思いに支えられて。
ひな壇の、一番上で――高い高い山の上で。
彼女が思い描いた通りの、歌を歌うことができたなら――
「それができたら、おまえと最初に交わした約束も、果たすことになるんじゃないかって。どんな結果になっても、それなら俺は納得するよ。俺が――俺たちのやってきたことは、間違いじゃなかった。そう思えるから」
誰かの自由を勝ち取れたなら。
それはそれで、自分たちのやってきたことは無駄じゃなかった。やった甲斐があったと思えるのだ。
世間的には吹奏楽部のやっていることなんて、ちっぽけなことかもしれないけれど。
そうなることができたなら、意味があることだったと思えるのだ――そう言うと。
光莉は怒ったような顔をして、「ふざけないで」と言ってきた。
「なによそれ。ふざけないで。意味があった? 納得する? そうじゃないでしょ。ソロを成功させて、演奏をやり切って――私たちは絶対に金賞を取るの。それがあんたの望む結末でしょう。今さらビビッて、妥協してるんじゃないわよ。やりに行くの。取りに行くの。間違いでもなんでもない、それしかないって結果を、今から掴みに行くのよ!」
「……ああ」
いつもの通り、顔を真っ赤にして言ってくる同い年を見て、鍵太郎はしてやられたと笑った。
彼女の心配をして、こうして声をかけに来たけれど。
知らず知らずのうちに怖がって目を曇らせていたのは、自分の方だったのかもしれない。
いつか光莉には、こちらが必要以上に場を緩めようとしたら、厳しく締めるように頼んでいたけれども――それが図らずしも、自分に跳ね返ってきた形だ。
だけど、彼女はその中で『私たち』と言ってくれた。
だったら、これからやる演奏では、この同い年はみなと一緒に吹くことができるのだろう。
どんな結末であっても、それなら納得できる――いや、それ以上を信じて。
何よりも輝くものを、取りに行こう。
そう思ってうなずくと、光莉は顔を赤くしたまま、「そ、それに……」と目を逸らして言ってくる。
「私も、あんたに言わなくちゃいけないことがあるの。ま、まあ、今話すことじゃないけれども……」
「? そっか。じゃあ、また後で、な」
今ではない、ということは、少なくとも演奏関係のことではないのだろう。
来年の部長副部長をどうするかとか、そういった類の話かもしれない。
だったらひと段落した後に顧問の先生も交えて話せばいいし、違うことだとしても、学校に帰ってから話せばいい。
いずれにしても、こんな風に手厳しい彼女のことだ。きっと自分が困ってしまうような、きつい言葉をかけてくるのだろう。
そう思って、光莉を見れば――
彼女は、真っすぐこちらを向いて、至って真剣な面持ちで言ってきた。
「あのさ」
その顔は、確かにいつものように赤かったけれど。
それでも今までとは違った、意外なほどに素直な表情をしていたように見える。
虚勢を張らなくても、立っていられるようになった者独自の、強い眼差し。
それをもって、光莉は――
「ずっと思ってたことがある。言いたくても言えなかったことがあるの。この本番が終わったら、私――」
「おい待てマジ待て。それ以上言ったら爆死する未来しか見えないから、本気でやめろ」
盛大にフラグを立てそうになったので、慌ててそれを制止する。
彼女は知らないかもしれないが、それは大きな戦いの前では決して、言ってはいけない定型句である。
下手をすると全てを巻き込んで、この部活自体が終わりかねない。危険なセリフを回避し、鍵太郎は部長としてひと仕事をした気分で汗を拭った。
これで部員たちと光莉自身の安全を確保できた。まあ、当の同い年自身は、やはりよく分からなかったようで首を傾げてるのだが――
しかしそんな彼女も、やがて落ち着いたように、ひと息つく。
「まあ……そうよね。やっぱり今この場で、話すことじゃないわ。演奏に集中しましょう」
「だな。じゃあ、また後でな」
「……うん」
そう言って、うなずいた光莉の顔は。
数分前に見たときより、ずいぶんと穏やかになったものだと思う。
まるで花がほころぶかのように、ふわりとした笑顔――それを見て、鍵太郎は安心して、自分の場所に戻ることにした。
すると、近くにいた同い年の片柳隣花に声をかけられる。
「やっぱり。あんた、千渡には甘いんじゃない。ここにいる誰も、緊張してることに変わりはないと思うけど?」
「まあ、そうだろうけどさ。あいつは特にだから。それはおまえも分かってるだろ、片柳?」
ここ数日、光莉の練習に付き合わされてきた隣花は、あの同い年の性格をこれまでより深く、理解しているはずだった。
それはこちらの行動を否定するような言い方をしつつも、軽く笑っていることからして明らかだ。これからの本番を成功させるために、何かしら光莉には声をかけなければならなかった。
けれども隣花は、どう言っていいか分からなかったのだろう。
だから、こちらの行動には呆れつつも、それなりに感謝はしてくれていている――認めてくれてはいる。
セリフに幾分か棘があるのは、やはり同じ中学からの経験者同士だからこその、ライバル意識からなのだろうか。
それとも、また別の何かなのだろうか――そう思っていると、隣花は肩をすくめた。
「まあいいわ。本番前だし、多少のことは大目にみてあげる。あいつのことも、支えててあげるわ。けど、それが終わったら――私だって、容赦しないわよ?」
「なんでそんな風に笑って、怖いセリフが吐けるんだ……」
「さて。どうしてでしょうね」
まあそれもまた、この本番が終わったら分かる話ね――などと言う同い年ではあったが。
それ以上は教えてくれそうもなかったので、とりあえず本番よろしくな、と言って鍵太郎は再び歩き出した。
一体、なんなのだろうか。そう思ってると他の部員たちも、次々と自分に声をかけてくる。
「千渡先輩ばっかり、ずるいですー」
「わたしにも優しくしてください、先輩……」
「湊、やばいー。しゃっくり止まんないー」
「急いで水かなんか飲んでこい、おまえはぁ!?」
本番直前にひゃっくひゃっくと身体を震わせているトロンボーンのアホの子に、全力で突っ込む。
まったくこの部員たちときたら、ここまで来ても好き放題にやってくれるのだから始末に負えない。
緊張しているのかテンションが上がっているからなのか、みないつもにも増して感情を表に出しているように見える。
そんな部員たちの対応に追われていると、同い年の宝木咲耶までもが、クスクス笑いながら言ってきた。
「そうだよね。確かに、光莉ちゃんだけっていうのはズルいなあ。私にだってソロあるのに」
「宝木さんまで……」
「あはは。冗談だよ。冗談」
それとこれとは、本質的には関係ないしね――いや、あるかな?
そう言ってくる咲耶の真意も、結局のところは読み切れなかった。まあ、それはいつものことと言えば、いつものことではあるのだが。
彼女たちの心中を完全に把握できたことなど、これまで一度たりとてありはしない。
咲耶など、その最たるもので――けれど、別にこちらを嫌っているわけではない。その程度で十分だった。
吹奏楽部ではえてして少数派、この学校では部内唯一の男子部員――そんな異分子がこうしてみなに絡まれているだけでも、めっけもんなのだ。
だから、それに見合うだけの成果を、持ち帰りたいのだ――それを改めて確認して、鍵太郎が自分の楽器の元に帰ってくると。
「……おかえりなさい」
そこでは、芽衣がいつもと同じ、いや、ややムスッとしているだろうか。
そんな表情で、こちらのことを出迎えてくれた。
そのままの調子で後輩は、続けて訊いてくる。
「……先輩は、私の隣で吹いてくれると約束しました。……忘れてないですよね?」
「ああ、忘れてない」
彼女が部活に入ってきて、わりとすぐ。
自分はこの後輩のことを置いていかないと、誓ったのだった。何があっても、どんなことになっても――今でもその誓いには、一点の曇りもない。
例えどんな状況になろうとも、芽衣を置いてどこかに行ったりはしない。
それだけは、はっきりとうなずける。そう即答すると、後輩は安心したようで「……なら、いいです」と警戒を解くように、寄せ気味だった眉を元に戻した。
今さらどうして、彼女もそんなことを訊いてきたのだろうか。
そう思って、芽衣と同じ楽器に手を添えれば――後輩は。
こちらを見上げて、ぽそりと言ってくる。
「……先輩」
「何?」
「……本番、がんばりましょうね」
「ああ、もちろん」
彼女たちが、何を考えているかはよく分からないけれど。
小さくも、この場で最も真理に近いことを口にする芽衣に、鍵太郎は笑ってうなずいた。




