渡り廊下の夏期講習
※主な登場人物
・湊鍵太郎…三年生。部長。
・藤原建次…社会科教師。
「だから夏期講習中に最大音量でぶっ放すんじゃねえってんだろうがアホンダラぁぁぁぁッ!!」
「わぁぁぁぁぁぁ!? すみません!?」
相も変わらず、部活中に音楽室に殴り込んできた藤原建次に。
湊鍵太郎は、反射的に謝り倒していた。
夏休みになり、コンクールに向けて最後の追い込みをしている真っ最中。
しかしそれは、三年生の受験の追い込みの真っ最中でもあるのだ。殺気立っている社会科教師に、吹奏楽部の部長として鍵太郎は対応せざるを得ない。
とりあえず、休憩がてら練習をいったん中断して、顧問の先生に目で合図を送って。
藤原と一緒に音楽室の外に出て、深々とため息をつく。
「そんなに本校舎まで聞こえちゃってますか、俺たちの合奏の音……」
「当たり前だろう。おかげで気になって講習に集中できん」
「それって、先生がそうなだけなんじゃ……」
実は吹奏楽経験者でもある中年教師に、ボソリと突っ込む。色々あって秘密にしているが、藤原も昔は、かなりバリバリの音楽少年だったらしい。
なら先日のコンクール予選で粗削り、と評されたこちらの演奏が、気になって仕方がないのだろう。
その『秘密』を盾にして練習時間を確保する、という手もあったが、今回は夏期講習中の受験生たちも関わってきている。
この先生だけを説得してどうにかなる話ではないのだ。音楽室や職員室のある校舎と、夏期講習の行われている教室のある本校舎は渡り廊下でつながっているだけで、別の建物のはずなのだけれども。
それでもこの暑さだ。窓を開けて練習していれば、さすがに聞こえてしまうか――と思ったところで、流れ出てくる汗にげんなりした。だったら、音楽室に冷房を設置してほしい。
一応、窓は開けつつもカーテンは閉めて、多少は防音をしていたはずなのだ。
そう言うと藤原も藤原で、元々渋い顔をさらに渋くして、こちらに言ってくる。
「……湊。これでもな、俺はおまえらには容赦してるつもりだぞ。いいか、おまえらも三年生なんだ。本当は夏期講習に参加しなくちゃならないのを、見逃してやってる。それだけでもありがたいと思え」
「……それは、そうですけども」
先生の物言いに、鍵太郎はぎくりとして顔を引きつらせた。本来ならば、部活がどうこう関係なく、自分たち三年生はその夏期講習に行かねばならないのだ。
受験生の夏休みなんて、夏休みではない。
でもその一生に一度しかない季節を、シャープペンシルが走る音でなく、楽器の音に囲まれて過ごしたかった。
その辺りの心情は、この先生も分かっているのだろう。
だからギリギリ、音楽室から自分たちを引きずり出すことだけは勘弁してくれている。
けれども、他の人に迷惑をかけることは許してくれない――そんな藤原なりの線の引き方に、鍵太郎は反論したくてもできなかった。
いくらやりたいことがあるとはいえ、こちらのやっていることは子どものワガママである。
部活より勉強が大事。
それは自分でも分かっている。分かっていてしがみついている。
そのジレンマに、自分もこの先生もそれぞれ、違う苦しさを抱えているのだ。正論と感情の狭間で、いつまでも揺れ動いている。
けれども、それでも藤原の方が、当たり前に年齢を重ねている分だけ大人だった。
先生はしゅんとするこちらに、しかし道理を述べてくる。
「……俺はな、湊。ある意味では、この間ここに殴り込んできたっていう保護者と、同意見だ」
少し前、同い年の母親が自分の子どもを辞めさせて勉強に専念させるため、ここにやってきたことがあった。
そのときは、その保護者から部員を守るため、動いてくれた藤原であったけれども――それでも、完全にこちらの味方というわけではなかったらしい。
自分たちより先に音楽室を出て、そして外の世界に触れた大人は。
そこで見た現実を、こちらに突き付けてくる。
「音楽は、社会に出てからはそれほど、役には立たない。それよりも、成績がいい方がよっぽど、世の中を渡っていくのに役に立つ」
「……先生。本当に、そう思ってますか?」
「考えてもみろ。『吹奏楽コンクールの全国大会で金賞を取りました』と、『東大に合格しました』の、どっちが一般的に見て『すごい』と言われると思う?」
「……」
実際に、この先生はそれを経験してきたのかもしれない。
自分のやっていることは、世間的にはそんな大したことではない――それを思い知らされて、ここにいるのかもしれなかった。
胸を張ってやってきたことが、「ふーん、で?」で済まされたのだとしたら、それはとても悲しいことだろう。
だから、同じ思いを自分たちにはさせたくない。
それは十分、理解できることだった。努力をしても、結局無駄――とまではいかないだろうが、それほど周りからは評価はされない。
だったら、最大音量なんて出さないで、細々と楽しくやっていればいい。
誰も傷つかないように、狭いところで小さくやっていればいい――そんな藤原の主張は、客観的に見れば正しい、と言えるだろう。
それを仕事にしてやっていくならまだしも、アマチュアならばそこまで熱を入れなくてもいいのだ。
でも――
「……それでも先生は、ここに来たじゃないですか」
広い世界からしたら、小さなことかもしれないけど。
他人からしたら、取るに足りないことかもしれないけれど。
それでもこの人は、自分たちの演奏を聞いてここに来た。
気になって気になって仕方なくて、心の中の引っかかりを受け流すことができなくて。
何かが納得できなくて、わざわざ本校舎からここまで足を運んできた。
だったら自分たちのやっていることが、無意味だなんてことはないはずだ。
「そりゃあ、俺たちのやってることは、将来の直接的な役には立たないかもしれませんよ。けど、そうじゃないんです。それだけじゃ、ない――だから先生は、俺たちを正論で潰さないで、踏みとどまっていてくれる。そうでしょう?」
「……」
意味と価値のあるものばかりを求められて、それ以外はいらない――なんて、そんなことはない。
世の中をスルスルと器用に歩いていくために、確かに音楽はいらないのかもしれない。
けれど、誰かの感じた気持ちの波紋を壊さずにいられるのは、こんな方法くらいしか思いつかなかった。
具体的には――目の前の黙り込んでいる誰かさんの、心の置き場を守るための方法は。
「勉強ができないよりできた方が、いいのは分かってます。それの免罪符に部活を使うつもりはありません。けど、そうじゃなくて――こんな風に、自分たちなりに何かを作ることは。それで、誰かと誰かをつなぐことは……いつかどこかで役に立つって、俺はそう信じてるんですよ」
「……甘いんだよ。おまえ、社会に出てから苦労するぞ――なんて」
俺もずいぶん、つまらんことを言う大人になっちまったな――と。
自分の言ったことに藤原は、自嘲したように笑った。
本当は、この人も分かっていたはずなのだ。
自分が、自分『たち』のやってきたことは――決して無駄なんかじゃなかったなんて、当然のことは。
立場と感情の板挟みに合って、少し見えにくくなっていただけの話だ。
そんな社会科教師は、皺の寄ったこめかみに指を当て、言う。
「……ああ。そういえば、大光寺も言ってたな。吹奏楽部にはとんでもないバカがいると」
「ああ、元気ですか。アリシアさん」
しばらく見ていないので忘れていたが、あの金髪生徒会長ともこんな感じで、言い合いになったことがあったのだった。
気が付けば彼女の任期も、そろそろ終わりのはずだが。
夏休み明け、自分はあの女王にどちらの報告をすることになるだろうか。
現実的な回答か、それとも不可能を可能にしたという、奇跡の物語か――
けれどもどちらにしろ、あのとき言ったように自分は手に届く範囲だけでも、誰かを幸せにするつもりだった。
差し当たっては、音楽室の中にいる連中と。
そしてここにいる、音楽室の大先輩を。
考えてみれば、部長にならなければこういった人たちと知り合うこともなかったのだ。そう思うと、やっぱり誰かとの縁ができることは、面白いことだな――と鍵太郎が笑っていると。
あの生徒会長にもなかなかに、手を焼かされているのだろう。
藤原はうんざりした調子で「……元気だぞ。おまえとタメを張れるくらいにな」と再びため息をつく。
「……そうだった。おまえも成績とかそういうんじゃなく、とびきりの音楽バカだったな。思い出したよ。これじゃあ夏期講習なんて、受けるだけ無駄だ」
「えーと、じゃあ先生、今回ばかりは見逃してほしいなー、なんて……」
「ふざけるな。それとこれとは話が別だ」
「えぇー……」
ようやく本題に戻ってきて、しかも解決の糸口――というかすり抜けの窓口を見つけたと思ったのに、大人はそんなズルを許してはくれなかった。
あくまで筋は通せ、ということか。
夏期講習を受けている受験生に迷惑をかけず、しかし自分たちも最大限、コンクールに向けての練習に取り組める方法を見つけろ――と。
そんなものがあるのか、と鍵太郎は首を傾げたが。
しかしふとあることを思いついて、藤原に言う。
「あのー、先生。じゃあ、こういうのはどうでしょうかね……?」
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それは、あの先生が最初に言ったように、全員が最大音量を張り上げるのではなくて――
「しかし、よく許してくれたよなあ、藤原。少人数で合奏して、それを他の部員が聞き合うなんてこと」
言われたように、細々と楽しく、狭いところで小さく。
けれども誰も傷つかないように、少人数の合奏グループをいくつか作って、それを他の人間たちで整備していく、といった――そんな方法だった。
これはあの生徒会長と話したときに言った『小さな集団』という言葉と。
そして、去年のホール練習でやった、全員が場所を移動して合奏をしてみるというやり方を掛け合わせてみたものだ。
これならば、そこまで大音量にはならないので、夏期講習中の受験生の耳にもつかないだろうし。
誰かが吹いている間も誰かが聞いているので、客観的に自分たちの演奏を見られるという意味でもロスにはならない。
言うなれば、大きな花畑をいくつかの区画に分けて、全員で順番に手入れしていくようなものだ。そんな風に受験生側の立場を尊重してくれるなら、そこまでうるさくは言わない――そう約束してくれた、あの社会科の先生の渋い顔と。
不思議そうに首をひねる顧問の先生との顔の対比がおかしくて、鍵太郎は噴き出しそうになった。
元々あの夏期講習を担当している先生は、こちらの敵ではない。
むしろ正当なやり方さえ確保してしまえば、味方でさえあると言っていいのだ。まったく、ひねくれた音楽バカはどっちですか――と言いたくなるが、それをやるとまた怒鳴り込まれそうなので、黙っておくとして。
「さーて。じゃあみんな、中音域が聞こえるような響きでやってみようか」
一年生二年生三年生、それぞれがてんでバラバラに組んでみた小編成に、そう声をかけて練習を再開する。
形態はいつもと違うが、合奏としては成り立つように、各声部のバランスには気を遣っていた。この方法を言い出して了解をもらった後、藤原が真っ先に指摘したのが今の内容だったのだ。
あの先生の吹いていたテナーサックスは、音域的には中低音を担当するものになる。
そうだよな、やっぱり自分がやってた楽器の音って耳につくよなあ――と、結局はそれが気になって怒鳴り込んできた、大先輩のことを思い出しつつ。
「……やっぱり、無駄なんかじゃないんですよ。俺たちのやってることは」
広い世界からしたら、小さなことかもしれないけど。
他人からしたら、取るに足りないことかもしれないけれど。
それでも誰かからもらった熱い感情で、新しい息吹が生まれてくる――そんな演奏を、鍵太郎は真正面から聞いていた。




