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雨に歌えば

※主な登場人物(今回はみんな三年生)

・湊鍵太郎…部長。チューバ担当。

・浅沼涼子…トロンボーン担当。

・千渡光莉…副部長。トランペット担当。

・宝木咲耶…バスクラリネット担当。

・越戸ゆかり、越戸みのり…打楽器担当の双子。

 道なき道を進んでいたら、やっぱり雨が降ってきた。

 予報通りの空模様に、湊鍵太郎(みなとけんたろう)は用意しておいた傘を広げる。遭難気味の山の中。

 他の部員と合流するため、山頂を目指して木々の間を進む。

 登山ルートを外れてからしばらく歩いてはいるものの、未だに舗装された道路にたどり着く気配はない。

 こうなったら、本気でこの山を登りきるしかないだろう。サワサワと木の葉が揺れる音に、雨粒が傘を叩く音が混じる。

 しかし、その音がひとつしか聞こえないことに気づいて――鍵太郎は、後ろを歩く浅沼涼子(あさぬまりょうこ)を振り返った。


「……おい浅沼。おまえ、傘持ってないのか」

「持ってない」

「なんなんだよ、まったく……」


 額を押さえて、同い年を自分の傘の中に入れてやる。

 折りたたみ傘なので、涼子との距離がどうしようもなく近くなるが、この山中では別に誰にも見られていないし。

 彼女が濡れるのをむざむざ見過ごすつもりもない。いくら涼子が稀代のアホの子でも、さすがに自分だけが傘を差すのは後味が悪く思える。

 かといって彼女に傘を渡して、こっちがずぶ濡れになるのも嫌だった。複雑な気持ちで歩いていると、涼子が言う。


城山(しろやま)先生がさ」

「……うん?」

「先生が、言ってたんだ。悔いのないコンクールにしなさいって」

「そりゃ……そうだろ」


 高校三年生、最後のコンクール。

 それを悔いのないものにしたいという気持ちは、みな同じのはずだ。

 あの指揮者の先生が、どうしてそんなことを改めて言ったのか――首を傾げていると、同い年は歩きながら続ける。


「ひょっとしたら、これが最後のコンクールになるかもしれないから。音大に入ってプロになったら、もうコンクールには出られないんだって」

「あ……」


 涼子の言わんとしていることが分かって、一瞬歩みを止めそうになった。

 彼女は音楽大学に入って、その先はプロとして活動していくつもり――と言っていたはずだ。

 できるかできないかはともかくとして、しかしこの同い年には、そうなれるだけの才能があるように見える。

 対して吹奏楽コンクールは、アマチュアの大会だ。

 プロが参加することは禁じられている。当たり前だが、専門に勉強した者が乗ってしまうとパワーバランスが崩れるからだ。

 オリンピックと同じである。あの外部講師の先生のように指揮者として舞台に上がるならともかく、奏者として演奏することはできない。

 彼女が行かんとしているのは、そういう道だ。

 高校最後ではなく、人生最後のコンクール。

 その後押しをしてしまったのは、間違いなく自分だった。おまえにならできる、と言って――ひとつの可能性を開くと同時に、もうひとつの可能性を閉じた。


「そう、か……」


 普通の人だったら、まず行かない道。

 そこを、涼子は進んでいこうとしている。この光景は、こいつの未来そのものなのか――と、鍵太郎は周囲を見回した。

 うっそうとした木々に、生い茂る草。

 案内板などもちろんない。そして誰も歩いていないから、どこを通っていいかも分からない苔むした地面。

 ついでとばかりに、今は雨も降っていて――改めて、彼女のこれからが大変なものなのだと思い知らされる。

 自分はその力にはなれない。プロになんてなれはしない。

 それは自身がよく分かっていた。涼子に比べれば、こちらの演奏技術など大したものではない。

 だからこの先、ひょっとしたらもう二度と、彼女と吹くことはできないかもしれなくて――それはとても、寂しいことだと思った。

 絶対追いつけない、別次元の領域へ。

 この同い年は行ってしまうのだ。引退したら、卒業したら云々どころの話ではなかった。もっと重い決断が、そこにはある。

 こいつが今回、妙に静かなのはそのためなのか。

 そう思って涼子を見れば――彼女は、いつもと変わらぬ表情で「だからさ」と言ってきた。


「湊は卒業しても、楽器を続けてね」

「え……?」

「あたしの夢。プロになって、有名になって――そしたら、湊のいる楽団に、あたしが呼ばれるの。演奏会でトロンボーンのソロの曲を吹いて、湊が伴奏してくれる。完璧だよね!」


 どこまでも。

 途方もない夢を語る同い年を、鍵太郎は呆然と見つめた。

 そんなの無理だとか、できるはずがないとか。

 そういった否定の言葉が彼女の笑顔の前では、あっさり掻き消える。

 そんな未来が、きっといつか訪れるような――そう信じさせてくれるだけの輝きが、涼子にはあった。

 まったくこのアホの子は、いつもいつも、自分にとんでもないものを見せてくれる。

 いつだって、彼女はそうだったのだ。そう思うと、さっきまで自分の考えていたことがおかしくて――鍵太郎は、声を震わせて笑う。


「分かった。でもな、ひとつ言っておくぞ。せめて、傘は忘れるな。準備はちゃんとしとけよ」

「うん!」


 涼子がこれから行く道中で、手を貸してやることはできないけれど。

 せめて、今は濡れないように。少しだけ彼女の方に傘を傾けて、鍵太郎は元気にうなずいてくる涼子に、もう一度笑った。



###



 そうして歩いているうちに、雨は上がって――

 そしてどうやら、頂上にたどり着いたらしい。

 学校近くの山の、一番てっぺん。

 そこには小さな(やしろ)が建っていた。鳥居もなにもないが、作りからして神社だろうか。

 そういえば、山の神様って大体は女神なんだよな――と思いつつ。

 鍵太郎は涼子と二人でなんとなく手を合わせて、頭を下げた。

 ここまでの道行を守ってくれたことへの感謝と共に、彼女の願いが、どうか叶いますようにと。

 そしてこの同い年の行く末が、少しでも明るいものでありますようにと――そう祈って、顔を上げる。


「さて……他のやつらは一体、どこにいるんだ?」


 山頂は最も高いところだけに、足場はかなり狭い。

 同じく山に登っていたはずの他の部員たちは、それなりの人数がいたはずで――

 となると、ここから少し下ったところにある、見晴らし台にいるのだろうか。

 そう思って神社を辞して下りていけば、眼下に休憩所らしき広場があるのが見えた。

 そして、そこにいる部員たちの姿も。ようやく合流できる、とその場にへたり込みそうになるのをなんとかこらえて、そちらに向かう。


「ああもう! 心配したんだから!」


 見晴らし台に着いた途端、副部長でもある千渡光莉(せんどひかり)が大声で叫んできた。

 部長である自分の代わりに部員たちをまとめてくれた同い年に、素直に礼と謝罪をする。今回ばかりはこちらが悪かった。

 濡れていないベンチを探して、なんとか座る。とんでもない順路で進んできたので、もうヘトヘトだ。

 一息ついていると、同じく三年生の越戸(こえど)ゆかりと越戸(こえど)みのりの双子姉妹が話しかけてくる。


「大丈夫? 二人とも」

「あっちにお団子と卵焼きのお店あるよ。せっかくだから食べてきたら?」

「食べる!」


 言うが早いか、涼子は勢いよく立ち上がって、飛び出していってしまった。

 あれ、ひょっとしてあいつが大人しかったのって、ただ単に腹が減ってただけなんじゃ――と、気づかなくてもいい真実に気づいてしまう鍵太郎だったが、それを指摘しても自分が疲れるだけだと思って、口にするのは止めておく。


 地元民である宝木咲耶(たからぎさくや)の言う通り、この山では団子と卵焼きが名物らしい。

「なんか……ごめんね」と今回の遭難事件のことだろう。咲耶が申し訳なさそうに言って、売店まで案内してくれた。

 出来立てのそれをもらって、みなで食べる。

 団子はもちもちとしていて、卵焼きは出汁がきいており、温かい食べ物は身体のこわばりも溶かしてくれるようだった。

 先に食べ終わった部員たちは、見晴らし台の手すりから眼下の景色を眺めている。

 そこからは、街が一望できるという話だった。あれが駅、あれが自分たちの学校とはしゃぐ部員たちを、鍵太郎は後ろから見つめる。


 そう、自分たちはこの光景を見に、ここまでやってきたのだ。

 これまでの道のりが過酷すぎて、当初の目的を忘れそうになっていた。団子を片手に近寄って、そこから雨にけぶる街の様子を見渡す。

 あまりに高い山は頂上が雲の上にあるため、雲海を見ることになるというが――ひょっとしたら、これはそれに近いものがあるのかもしれない。

 そこからの景色を見たかったという光莉は、目に映るそれをじっと見つめていた。近くではゆかりとみのりが、この光景を写真に収めていて――彼女たちは、この場にいない人間の名前を口にする。


片柳(かたやなぎ)さんも、来ればよかったのに」

「ねー。いくら写真で見られるからって言っても、やっぱりみんなで直に見た方が絶対よかったよ、これ」

「あいつ、大丈夫かな……」


 今回の登山の話は、もちろんあのホルンの同い年にもしたわけだが。

 家庭の事情を理由に断られてしまった。この間のテスト前の勉強会も、それで彼女は来られなくて――自分たちに迷惑をかけたくないからとはいえ、その行動はいささか行き過ぎているようにも感じられる。

 後で少し、話してみる必要があるかもしれない。そう思っていると、咲耶が言う。


「冬で空気が澄んでたら、この場所からは富士山も見えるよ。そのときはまた、片柳さんと一緒に来よう」

「そう……だな」


 自分たちがイメージした、日本一の山。

 それが見えるときにまたもう一度、来ればいい。あの同い年にはそう言ってやろう。

 そしてその上で、今日の写真と一緒に自分の波乱万丈の登山のことを、笑って話してやればいいのだ。そう思って、山の上から景色を眺めていると。

 雨が上がり雲が切れて、そこから光が差し込んできた。

 水を含んだ空気に、太陽の輝きが触れて、空はある現象を映し出す。

 それは――


「あ、虹!」


 多くの色を含んで、弧を描いた帯で。

 涼子はそれを見て、やはり諸手を上げて喜んだ。

 部員たちが歓声をあげ、双子姉妹はそれを次々とカメラで撮っていく。久しぶりに目にしたそれに、鍵太郎も見入った。

 そして今日登ってきたきつかった道と、去年の出来事を重ね合わせ――ふとあることを思い出す。

 すなわち。


「ねえねえ湊! この間、城山先生が言ってたんだ! 『雨が止んだら』――」

「――『虹が出るのさ』だろ?」

「え? なんで知ってるの?」


 それは一年前に、自分も同じことを言われたからだ。

 不思議そうな顔をする涼子に、「知ってるさ」と笑って答え、再び街の上にかかる虹を見る。

 こんなものが見られるなら、雨の日だって別に悪くない。

 だったら彼女の行く先にもきっと、この光景はあるのだろう。

 そう思うとなんだか嬉しくなってきて、鍵太郎は上機嫌で鼻歌を口ずさんだ。

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