自由を求めた戦い
※主な登場人物
・湊鍵太郎…三年生。部長。チューバ担当。
・大月芽衣…一年生。チューバ担当。
・野中恵那…二年生。クラリネット担当。
「去年のコンクール、何があったんですか?」
一年生の大月芽衣の質問に、三年生になった湊鍵太郎はさてどう答えたものかと首を傾げた。
去年の今頃にあったこと関しては、一言で説明するのが難しい。
そしてあまり、積極的に話したいことでもない。鍵太郎が口ごもっていると、芽衣は重ねて訊いてくる。
「二年生の先輩たちは、そのことについてあまり話したがりません。訊いても、お茶を濁すばっかりで……教えてください。去年、何があったんですか?」
「うーん、そっか……」
隠されると余計知りたくなるのが、人の常だ。
ましてそれが演奏にも関わってくるかもしれないとなれば、なおさらだろう。
今度コンクールでやる曲は、不協和音をしっかり出さなければならない場面がある。
交わらない音と音をあえて重ねて、ぶつかり合わせるところがある。それを思って、鍵太郎は去年はいなかった一年生に、その部分を話すことにした。
「あれは、ね――」
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去年起きたのは、それぞれが、何かを求めてあった戦いだったのだと思う。
ある者は自由を求めて、ある者は金賞を求めて。
そしてまたある人は誰かを求めた――そんな戦いだったのだ。
その過程で、部員同士でもめることがかなりあった。まあその筆頭は、当時二年生で、先輩と後輩の板挟みに合っていた自分なのだけれども――と思いつつ。
鍵太郎は、後輩の野中恵那に話しかける。
「……野中さん?」
「……っ!?」
声をかけられた恵那は、楽器を持って座った姿勢のまま、イスからびくんと跳ね上がった。
去年あったその争いの中で、一番の被害者がある意味では、彼女だったとも言えるだろう。
自分の前の部長は、非常に厳しい人だった。そして恵那は、その前部長からかなりきつい言葉をかけられたことがあって――それを、思い出してしまったのだろうか。
彼女は以前のようにどこかおびえた様子で、「……せん、ぱい」と小さな声で言った。
「……大丈夫? なにか、元気ないように見えるけど」
「だ、だいじょうぶ、です……。なんでも、ありません……」
「……そう」
あれから色々あって、多少はこの後輩とも話せるようになっていたはずだったのだが。
やはり、全部が全部解決したわけではないらしい。うつむく恵那に、どう言っていいか迷いつつ――結局鍵太郎は、後輩が今やっていたことを口にすることにした。
「……練習、してたんだ。『プリマヴェーラ』」
「……はい」
ひとつ下の後輩は、今度コンクールでやる曲の練習をしていたようだ。
彼女の担当はクラリネットである。恵那の楽譜に描かれた黒々とした音符のつながりを、よくもまあこんな細かい音が吹けるものだなと見下ろす。
こんなの、自分の楽器じゃ絶対にできない。けれども、この後輩はこういうのを楽しそうに吹いていて――その姿を思い出し、鍵太郎は言う。
「すごいよね。俺こういうの、見ただけでアレルギー起こしそう。普通にやってる木管楽器の人、本当に尊敬するよ」
「……好きなんです。こういう音階とか」
努めて明るく言ったのがよかったのか、恵那は少し頬に赤みを戻してそう応えてきた。
好きなものを語るとき、人は生き生きとするものだ。となれば、彼女がこういう顔をするということは、こういった音の並びが好きなのは本当なのだろう。
恵那ははにかんだ、しかし長めの前髪から見える瞳を輝かせて、言う。
「小さな音符をつなぎ合わせて、そうして吹いていくと、その流れによって曲の色が変わるんです。吹き上げていくとその頂点で、景色がワァァァ――って開けて……そういうのが好きでこの楽器を吹いてるっていうのは、あります」
「そうなんだ」
そういえば、この後輩がどうしてこの楽器を吹いているのか、聞くのは初めてだった気がする。
そして、何が楽しくて吹いているのかも。中学のときもここに来てからも色々あった彼女ではあるが、それがあったからこそここまでやってこられたのだ。
その変わる景色を知っていたからこそ。
それを支えにしてきた。自分には分からない楽しさだけれども、恵那にとってそれがとても大切なものであることは分かる。
それを再確認して、彼女はいつもの調子を取り戻してきたらしい。
後輩は困ったような笑みを浮かべて、こちらに言ってくる。
「なんだか、心配かけちゃったみたいで、すみません先輩。わたしは、大丈夫ですから。コンクールの練習が本格的に始まって、ちょっと去年のことを思い出しちゃいましたけど……もう終わったことですし。今年は今年で、やっていこうと思います」
「……野中さん」
「先生にも、言われちゃいましたもんね。一音一音確認しながら、ゆっくりやりませんと――」
そう言って、テンポを落として曲をさらい始める恵那を、鍵太郎は見つめた。
臨時記号のついた音符を、確かめるように吹いていく。
これまであった出来事を振り返るように。辛いことがあっても、好きなものがあるから大丈夫だというように。
でも、それは。
「――嘘、だよね」
そう言うと、後輩は楽器を吹く手をぴたりと止めた。
確かに彼女は、音楽そのものが好きなのだろう。
それによってある程度、恐怖を抑えることも可能なのだろう。
けれど――それであのときの心の傷が消えたわけではない。
好きなものにすがりつくように吹いても、それは目を背けているだけで、本当の解決にはならない。
「……怖くないわけがないだろう。みんなの前で怒られて、切り捨てられそうになって――別にそれを直視しろって言ってるわけじゃない。けど、嫌なことを楽しいことで塗りつぶそうとしたら……結局、辛くなるだけじゃないか」
思い出したくない過去を隠す、不自然極まりないペンキ。
そんなのに、自分の大好きなものを使わなくていい。それは、もっと違うところで彼女自身が望んだ景色を作り出すのに、塗られるものだ。
恵那が描きたい光景は。
もっと違うところにあるはずだ。そう思って、鍵太郎は続ける。
「……去年も言ったはずだ。野中さんは、もっと自分を大切にした方がいい。ここは、もう去年みたいな場所じゃない。俺がそうはさせない。だから――そんな風に、自分に嘘をつかなくていい」
大丈夫、なんかではなかった。
怖くないわけがなかった。周りのみんなはずっとピリピリしていて、焦って指が回らなくて、いつ先輩に怒鳴られるかも分からない――そんな状況が、恐ろしくないわけがなかった。
だからせめて、笑おうとしたけれども――それすら否定されて。
行き場のなくなった彼女は、誰かの陰に隠れて吹くしかなかった。
それが去年いた、野中恵那という後輩だ。
誰かからの視線を避け続けて、でも心の中ではずっと言いたいことを持っていた彼女だ。
「別に何を言ってもいいんだ。俺はここを楽しいところにしたいって常々言ってるけど、それはネガティブなものを、全部追い出そうって意味じゃない。嫌なものは嫌だって言っていいし、怖いものは怖いって言って構わない。
その上で、これからどうするかを一緒になって考えればいいんだよ。それじゃダメかな?」
「……う」
言葉を重ねていくうちに、恵那は。
楽器を握りしめ、声を詰まらせて、ボロボロと涙をこぼし始める。
こういうとき、何か気の利いたジョークや言い回しができればよかったのだが、うまいセリフが見つからない。
なので鍵太郎は、しゃくりあげる後輩の言うことを、そのまま聞き続ける。
「こ、こわ……かっ、怖、かった、です……! 先輩たちはみんな厳しくて、何を言っても否定される気しかしなくて……! 本当のことなんて言ったらズタズタにされそうで、ずっとずっと、怖かったです……!」
「うん」
「平気なんかじゃなかった……! 全然、平気なんかじゃなかったです……! 今でも、あのときのことを思い出すと苦しくなるんです、ものすごくしんどくて、ものすごく、辛かったです……!」
「うん、そうだよね」
彼女の言うことを認めることしかできなかった。
なぜなら自分も、同じような思いがあったからだ。恵那とは立場が違えど、同じ部活にいた身だ。その気持ちは痛いほど分かる。
よく、「命まで取られるわけじゃないし」と人は言うが、あれは嘘だ。
実際に責められているときは、命まで取られそうな気がする。あのときは、そういう状況だった。
その渦中にいた恵那が、ようやく自分の本当の気持ちを口にできたことにほっとする。自由を求めた戦いは、今もまだ続いていたのだ。
涙を流しながらでも、彼女は自分の気持ちを認められた。
であれば、もう自身にも音にも嘘をつく必要もないのだろう。恵那はこれから思い切り、好きな光景を描ける。
無理矢理そうしてしまったことに、後輩には謝った。必要だと思ってそうしたとはいえ、自分のやったことは前部長と同じだ。
だから恵那が泣き止むまで、鍵太郎はずっと傍にいた。
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「……とまあ、大体こんな感じだったんだけど」
と、去年あったことを大筋語り終えて。
鍵太郎は芽衣の反応を待った。色々と端折った部分もあるが、おおまかなところは伝えられたはずだ。
自分自身でも整理しきれていない部分があるくらい、あの一連の出来事は大きなものだった。すると、予想以上の衝撃があったのだろう。
一年生の後輩は、しばらくの沈黙の後、ようやくといった調子で口を開く。
「な……なるほど。結構、壮絶だったんですね。それは先輩たちも、あまり去年のコンクールのことについて話したがらないわけです」
「幻滅した?」
「いえ。むしろかえって、納得しました」
この部活の妙な団結力の強さは、そこにあったのですね――とあごに手を当てて言う芽衣に、鍵太郎は苦笑しつつ、それ以上は何も言わなかった。
そこの話をし出したら、もっと前、それこそ自分が入部したときのことから物語らなければならない。
さすがに今そこまでの時間はない。なのでその辺りは、また折を見て少しずつ言っていこうと思う。
そういえば、あのひとつ上のフルートの先輩のこともそうだったが――自分が入部する前のことを知っておくのも、後輩にとっては意外といいのかもしれない。
そう考えつつ、鍵太郎は今日話したことを振り返り、まとめにかかる。
「うーん、なんていうかな。結局、去年あったのは――」
「あったのは?」
「……みんながみんな好きな人のために、自分の気持ちを隠して、ちょっとがんばりすぎちゃったんだ。そういう話なんだと、俺は思う」
前部長も、恵那も。
そして――自分も。
みんなみんな、それぞれが好きな人のために、少し無理をしてしまったのだ。
なんだかんだ枝葉はあるが、要するにそういうことだ。そう考えれば恵那と同じで、自分の気持ちも多少は整理できそうだった。
やはり、人に話すというのはいいことなのだろうな――と、そう思っていると。
一年生の後輩は、今度こそ絶句したといった様子で大きく目を見開く。
「……どうかした?」
「……なんでもないです」
どうしたのかと思って訊いてみると。
芽衣はそれこそ自分の気持ちを隠すように、ただそんな一言だけを、こちらに口にしてきた。




