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いつか見た景色

※主な登場人物

・湊鍵太郎…三年生。部長。チューバ担当。

・大月芽衣…一年生。チューバ担当。

・城山匠…外部講師。

 バスクラリネットの、掠れたソロが聞こえる。

 自由なテンポで(テンポ・ルバート)と記されたその部分に。


「……自由を求めた、戦いを」


 湊鍵太郎(みなとけんたろう)は去年の出来事を思い出していた。



###



「――『プリマヴェーラ』、か」


 コンクールでやる曲のスコアの表紙を見て。

 外部講師で指揮者の城山匠(しろやまたくみ)は、わずかな沈黙の後、感慨深そうにそう言った。

 その様子は、まるであらかじめこの曲のことを知っていたかのようである。スコアをじっと見つめる先生に、鍵太郎は首を傾げて訊く。


「先生はこの曲のこと、知ってるんですか?」

「もちろん、知ってるよ。それに――この曲の舞台になった山梨県には、ちょっとした縁があってね。僕にとっても思い出深い曲なんだ」


 そう言って、スコアをぺらりとめくる城山の姿は、いつもより感情がにじみ出ているように見えて。

 その昔を思い出しているかのような眼差しに――この先生がかつて教えていた学校というのは、そこにあったのではないかと、鍵太郎は思う。

 けれども、今そこに触れるのは野暮というものだ。あいつ自身が語ってくるまで、待っていた方がいい――そうこの先生と同い年の楽器屋に言われたように、そこには土足で踏み入るべきではない。

 城山には、城山の事情があり、思いがある。

 自分に、この曲を選んだ理由があるように。そう考えて、違う方向の質問をすることにする。


「……山梨の景色って、どんな感じなんですか? あと、このサブタイトルの『美しき山』っていうのも」

「うん、とかく山だね。すっごい近くに山があるっていうか。どっち向いても山があるっていうか」


 そこに見えてる山より、もっと高いのが近くにバーンっ! って、そびえてる感じかなあ――そう言って、城山は音楽室の窓の外に見える山を指差した。

 川連第二高校も田舎にあるので、田んぼや山の風景には事欠かない。学校の近くにはのんびりとなだらかな山が連なり、緑の景色を作り上げている。

 けれども、それよりも大きな山というのはどんな感じなのだろうか。鍵太郎が窓の外を眺めていると、先生はそのまま続ける。


「できれば、実際にその場所に足を運んでほしいところだけれども。まあ、それはさすがに厳しいから、後で写真か何かを見てみるといいと思うよ。『美しき山』に関しても同じだ。みんなで調べて、どういう山にしようかっていうのを話し合うといい。それだけでもだいぶ違うはずだから」

「分かりました」


 段々、過去の記憶から抜け出してきたようで、城山は指揮者としての口調に戻ってきた。

 いつもの調子になってきた先生に、内心ほっとしつつ、うなずく。知っている人間の知らない顔は、付き合いが長ければ長いほど見ると動揺するものだ。

 一年生の頃からこの指揮者の先生とは一緒にやっているが、それでもこの人にはここに来るまでの『道』があったのだと、こういうときに痛感させられる。

 そしてそれが、城山匠という人を作り上げているのだということも。そんな指揮者の先生は、こちらの考えを見透かしたように。

 生徒の返事に、にっこりと笑って、曲の核心に至るためのヒントを出してくれた。


「いつか言ったね。『きみたちには、きみたちの歩いてきた「道」がある』って。この曲もそうなんだ。とある誰かが、たどってきた道の曲。そして、そこで出会った人と景色――それを浮き上がらせるため。さ、まずは合奏してみようか」



###



 城山が、この曲と窓の外の景色に何を見たのかは分からないが――

 少なくとも自分たちは自分たちで、やってきたことを存分に表してよさそうだった。というか、あの口ぶりからして先生は、むしろそれを望んでいる気がする。

「きみは、どうしたい?」と、問いかけてきたあのときのように。

 あの指揮者の先生は、いつだってそんな目線で生徒たちに接してきたのだ。というわけで鍵太郎は、合奏前にそのことを後輩の大月芽衣(おおつきめい)に伝えておくことにした。


「――とまあ、すっごい変な人だけど、悪い人じゃないから。こういう部活によくいる、アレだよ。気のいい変な人」

「ああ、いますよね、そういう人……。何言ってるか分からないけど、とにかくすごい、でも変な人……」


 なんだか失礼なことを言っている気がするが、こればっかりは事実だからしょうがない。

 そういえば、なんだかんだで顔を合わせてはいるものの、彼女たち一年生は城山の指揮は初めてなのだ。

 なので最低限の受け止める余裕は作ろうと、これから起きるであろう現象を、あらかじめ同じ楽器の後輩に言っておく。

 どんなに歩んできたものがあろうとも、一年生たちにとっては今これから見るものが全てだ。

 城山匠、どんなにこちらの知らない面はあろうとも、この二年の付き合いではっきりしているのが――彼がどうしようもない程、ど天然の音楽バカという点である。


「というか、それを先輩が言えたものではないと思うのですが……」

「ははは何言ってるんだよ大月さん。俺をあの残念イケメンと一緒にしないでほしいなあ」

「自覚がないあたり、救いようがないとしか言いようがないですね」


 ずっぱりきっぱり後輩に妙なことを言われたが、どうしてそうなるのか分からなかった。

 何やら芽衣が呆れたような半眼でこちらを見てきているが、思い当たる節がまるでない。そんな目をされるいわれはないのである。

 いろんな意味で、あの先生と自分は次元が違うのだから――そう思って、鍵太郎は後輩に合奏前最後の忠告をする。


「なんでもかんでも見透かしたような言動を取ってくることはあるけど、あの人の場合、それ別に全然、悪意はないから。むしろ怖がらないで、思いっ切り出していっちゃった方がいいと思うよ」

「音で全部分かっちゃう、ってやつですか……。さすがプロの方ですね」


 そう言うと、芽衣は少し動揺したかのようにこちらから視線を外した。

 やはり事前に言っておいてよかった、と気まずそうに明後日の方を見る後輩を見て思う。誰だって、本当の気持ちを知られるのは怖い。

 彼女にも心の準備が必要だろう――かつての自分を思い出し、鍵太郎が隣の一年生を見ていると。


「みなさん、よろしくお願いしまーす」


 顧問の先生との打ち合わせが終わったのだろう。城山が音楽室に入ってきた。

 いよいよ、この指揮者の先生の元で合奏が行われるのだ。元々この曲を知っているという城山が、どんな指揮をするか。楽しみではある。

 そしてそれ以上に、自分たちがそれを見て、どこまでできるかも楽しみではある。宣言通り挨拶もそこそこに指揮棒を構える先生を、鍵太郎は自身も楽器を構えながら見つめた。

 すると、スッ――と城山の表情が、のほほんとしたものから真剣なものに変わる。

 ざわめいていた部屋が、それに合わせてふっと静かになる。


 あ、先生本気だ、と思った瞬間。

 城山は、指揮棒を振り下ろした。


 その光景を知っている、と言っていた通り、そこにあるのは冷たく澄んだ遠い山の空気だった。

 実物を見たことがあるだけで、こんなにも雰囲気が変わるのかと、いつもの合奏との違いに驚く。それはこの先生の技術もあるだろうけども、それよりもイメージの力の方が大きい気がした。

 この情景を映し出しているのは、間違いなく城山の指揮だ。

 普段はあまりここまで踏み込んでこないこの先生が、ここまではっきりしたものを提示してくるのは珍しい。

 それだけ、この曲に込められたものというのが大切だからなのだろうか。そう思いつつ、鍵太郎はトランペットの同い年と一緒に、その中に割って入った。

 彼女は今日もそのソロを、見事に吹ききってみせる。きっとあの同い年はこれでも、まだまだだと言うのだろうけれども――それがこの山を高くしてくれるなら、それでもいい。

 あれから気を付けているようで、ミュートを落とすこともない。あとは彼女がその険しすぎる山で転ばないよう、こちらが支えてやるだけだ。


 長い音符をひたすら伸ばしながら、できるだけ雄大な景色を作り出していく。本物を知らない自分がそれを再現できているかどうかは謎だったけれども、小さい頃山に登った記憶や、そのとき見た光景を思い出してできるだけそれに近づけていく。

 思い出を総動員して、その道を踏みしめていく。

 そうしてやってきたのは、小刻みに雪の中を進んでいくような過酷な道のりだった。

 冷たい向かい風が顔に吹き付ける中を、それでも突き進んでいく。それは、あの人を失っても進むしかなかった、あのときの自分そのもので――吹雪で何も見えないのに、どこかに行くしかなかった、一年生のときの足取りそのものだ。

 どこかに向かわないと、そのまま倒れてしまいそうだったから。


 それを象徴するように、音は深く低く、潜っていく。辛くても、進んでいくしかなかった。悲しくても、動いていくしかなかった。少しだけ最初より速度を増して、その歩みを刻んでいく。

 正直、苦しい。そこにとどめを刺すように、この曲で一番低い音が出てきて、なんとか踏ん張る。暗くて、寒い――そこが一番、どん底だと思っていたけれども。

 蓋を開けてみれば、そこにはもうひとつ深い扉が待っていたのだ。

 バスクラリネットの、掠れたソロが聞こえる。

 自由なテンポで(テンポ・ルバート)と記されたその部分に。


「……自由を求めた、戦いを」


 鍵太郎は、去年の出来事を思い出していた。

 自由と謳いつつそれが全く分からなかった、かつての自分たちの戦いを。

 バスクラリネットの同い年がそのソロに苦戦している様を、手出しすることも許されず後ろから見守る。彼女は必死に息を吹き込んでいるようだったが、どうにも上手く響いていない。

 そう、ここからだ。

 ここからが難しい。テンポが上がって上滑りし始めるメロディーを、鍵太郎は焦りを感じつつ聞いていた。


 ハイスピードな上に臨時記号がやたら多くついてくるこの辺りから、演奏の歯車が狂っていく。

 それぞれの楽器がやっていることが、かみ合わずに何を表しているのか分からなくなる。混沌としてくる合奏の中で、せめてもの指標となるべくリズムを刻んでいく。そこにバチンッ――という打楽器の音が聞こえて、それに前部長のことを思い出した。

 彼女がかつて、殴りつけるように後輩をなじったこと。

 そして部活がバラバラになりかけたこと――そのときの雰囲気を思い出してしまったのだろうか。クラリネットの後輩が悲鳴を上げるように高い音を出した。


 思い出したくもない、記憶の中で。

 テンポがバラバラになっていく。臨時記号(フラット)が落ちる。生き生きとした最初の演奏が嘘のように、地獄のような光景だった。やはり人の思いというのは音に出る。怖ければ怖いという音が出るし、楽しければ楽しいという音が出る。

 そう言っていたあの人は、もう部活にはいなくて――自由も女神も不在のまま、しかしそれを追い求めて、自分たちは声を上げた。

 途切れ途切れに聞こえる讃美歌は、すぐに遠ざかって。

 再び地に落ちたところには、何があったのか――そんな、かつての自分たちの道を振り返りつつ、鍵太郎は音を伸ばした。

 そこにあったのは。

 その先に、あったのは――



###



「みんな一生懸命なのは伝わってきてるよ、大丈夫。だからまずはゆっくり、自分のやっていることを確認してみようか」


 合奏が終わって指揮者の先生が言ったのは、そんな当たり前といえば当たり前のことだった。

 逆に言えば、その当たり前がいかに難しいか、ということでもある。結局はなんでもかんでもそこに帰結する。

 ()()()にあった始まりの火のことを思い浮かべ、鍵太郎は城山の話を聞いていた。


「最初から上手くやろうと思わなくていいから、まずは書いてあることを、しっかりやってみて。そうやって自分の立場を知ったら、あとはその音を、自信を持って出していけばいい。ときどき音がぶつかるかもしれないけど、そういうのは引っ込めずに、あえてぶつけてやってみるんだ。特に途中の早いところなんかは、そういう場面が多いし」


 わざと不協和音にして、不安感を演出してるんだよ――と構造上の種明かしをしつつ、先生は楽譜をめくる。

 その口ぶりからして、城山もこの曲に、こちらが歩いてきた道を重ねているのではないかと思った。

 誰もが本当に自分の思ったことを言えていなくて、ぶつかり合うしかなかったあのときのことを。

 そうすることでしか真実にたどり着くことができなかった。そんな不器用な自分たちとそこにある楽譜は、この先生には同じに見えているのかもしれない。


 やはりこの人にとっては、全てが音楽なのだ。

 筋金入りの音楽バカ。そんな城山を、むしろ尊敬の念を持って鍵太郎は見つめる。後輩はああ言ったが、この人の域に自分は届く気がしない。

 一体どんな道をたどれば、こんな風になれるのだろうか。

 きっとこの先生自身も、あえてぶつかってきたことがあるのだろうけれど――


「曲の心臓を掴んでいこう。それぞれのイメージは違うと思うけれども、それを共有すれば(おの)ずと演奏はまとまっていくから」

「……どうしましょう、先輩。そろそろ先生の言ってることが分からなくなってきました」

「だから言ったろう。気のいい変な人だって」


 やり過ぎて、もはや人類の理解の外に出かかっている城山のことを、一応はフォローしておいた。

 自分もこの先生と出会った最初の頃はそうだったが、慣れていないとこの人の言い方は難解すぎて、かえって訳が分からないことになる。

 曲の心臓を掴め、とはまた抽象的な言葉だ。

 まあ、言いたいことは、なんとなく分かってしまうのだけれども。しかしこれ以上やると本気で一年生が混乱すると思ったので、鍵太郎は今日の合奏をここで解散させた。

 やるべきことは言ってもらったのだ。あとはこちらが城山の言葉を翻訳して、部員に伝えていけばいい。

 そう思って、いつの間にか部長として接するようになった自分に首を傾げつつ、先生に話しかける。


「先生、今日はありがとうございました。あと……すみませんでした。途中結構ヤバかったですね、合奏……」

「いやあ、大丈夫だよ。最初はみんなこんな感じさ」


 対する城山は、ふにゃりとした笑みを浮かべてそう返してきた。

 指揮を振るときに見せた顔とは、また全然違うものだ。あの張り詰めた感じからして、ひょっとしたら怒られるんじゃないかと密かに思っていただけに、その言葉に少しほっとする。

 やらなくてはいけないことはそれこそ山積みだが、それをクリアしていった分だけ、演奏は磨かれていくのだろう。

 その果てに浮かび上がるのは、去年と同じものなのか。

 それとも――と考えていたところで、先生は笑顔のままこちらに訊いてきた。


「この曲さ。選んだの湊くんだよね?」

「……なんで分かったんですか?」


 何もかもお見通し、と後輩には言ったものの。

 まさかそこまで見透かされるとは思っていなかった。顔を引きつらせて答えると、城山は「やっぱりー」と子どものように手を叩き、こちらに言ってくる。


「だってこれ、湊くんがたどってきた道そのもじゃない。きみと会ってきた人たちと、見てきた景色が全部詰まってるよね。

 だったら――今がバラバラでもこれからやるべきことは、もう分かってるんじゃない?」

「……」


 どんなに音が掠れていても、人と呼吸を合わせるのが難しくても。

 既にこの先の旅路はもう、浮き上がっている。

 僕は、小さな道しるべになれる――かつてそう言っていた先生に、戸惑いながらも鍵太郎は、ゆっくりとうなずいた。


「……はい。なんとなくですけど……どうすればいいのかは、分かってるつもりです」


 忘れられない思い出がある。

 振り返りたくない記憶がある。

 けれどそこに、曲の心臓を掴むためのヒントがあるのなら――今の自分は、そこにだって手を伸ばすつもりだ。

 そう答えると城山は、嬉しそうに笑う。


「よかったと思うんだ。一年前はずっと迷ってたきみが、そういう顔ができるようになって。じゃ、そのことを踏まえて――『きみは、どうしたい』か。それ、次の練習までに考えておいてね」

「はい」

「よろしい」


 そう言って先生は、窓の外に視線を移した。

 この人が、その景色と自分に、何を見たのかは分からないけれど。

 彼がかつて出会った人や景色というのは、本当に美しいものだったのだろうと。


「……その道のりっていうのは、先生くらい高みに行っちゃえば綺麗なんでしょうね、きっと」


 楽しげに外を見る城山を見て、自分もそうなれるかと考えつつ――鍵太郎は、そんな風に思うのだ。

《参考音源》

「プリマヴェーラ」~美しき山の息吹

https://www.youtube.com/watch?v=nQyDUX8Tqwo(描写は4分過ぎまで)

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