夢の中で
※主な登場人物
・湊鍵太郎…三年生。部長。チューバ担当。
・大月芽衣…一年生。チューバ担当。
あり得ない光景が、目の前にあった。
卒業した先輩たちがいて、選抜バンドで出会った他校の生徒がいて、そしてもちろん今の部活の連中がいて。
これまで一緒に吹いてきた人間がみんな、集まって合奏をしていた。
外部講師の先生の指揮の元、それぞれが楽器を持って演奏していく。
そんな中で、自分の楽器だけからなぜか、音が出ない。
どんなに一生懸命に息を吹き込んでも、どれだけキーを動かしても、なんの音もしなかった。
それに焦って、なんとかしようとして――気が付けば、周りの人間が全員、困ったような顔をしてこっちを見ていた。
人数にすれば、百人近くいただろうか。自分と関わってきた人々がそんな風にこちらを見ることに、怯えに近い感情が走る。
動揺して、周囲を見回せば――
そこには、卒業した同じ楽器の二つ上の先輩がいて。
見てはいけない。そう思いつつも、目に入ってしまった彼女の表情は――
「――っ!!」
と、そこまであったところで。
湊鍵太郎は自分のベッドから、がばりと飛び起きた。
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「どうしたんですか先輩。なんだか顔色が悪いですけど」
「うーん。まあ、ちょっと悪い夢をみてね」
一年生の大月芽衣の言葉に、鍵太郎は苦笑しつつそう応えた。
変な時間に起きてしまったのと、内容が内容だっただけに、あれからあまりぐっすり眠れなかったのだ。目の下が重いので、ひょっとしたら隈ができているかもしれない。
同じ楽器のこの後輩は、そんなこちらの不調をすぐに見抜いたのだろう。部活に来るなり言ってきた芽衣に、頬をかきながら説明する。
「楽器が全然、吹けない夢をさ。周りの人たちが普通に吹いてる中で、俺だけどうにもできないの。で、すごく申し訳なくなるっていうね」
実を言えばこういう夢をみたのは、一度や二度ではない。
一年生の後半辺りから、こうした夢をみることはままあった。出てくる人物や光景はその都度違えども、大抵は自分は全く吹けないか、出たとしても掠れたような音しかしないことばかりだった。
そして周囲から、困ったような視線を向けられることも。
それで汗びっしょりで起きるまでがワンセットだ。夢の中の出来事とはいえ、衝撃的なあの場面は生々しく思い出せてしまう。
そんなことあり得ない――そう分かっていても、心臓に悪すぎる。乱れた鼓動を落ち着けるため深呼吸をしていると、芽衣は顔をしかめて言った。
「……嫌な夢ですね」
「そう。嫌な夢だよ。だからそんなのは早く忘れられるように、練習しよう練習」
そう、あれは夢なのだ。
集まっていた面子がバリエーション豊かすぎるということを含め、現実にあんなことがあるわけがない。
そう自分に言い聞かせ、鍵太郎は後輩を急かすように手を動かした。すると彼女は、なぜか納得いかなそうな顔をしたものの――結局はうまい言葉が見つからなかったようで、「……そうですね」とうなずいてくる。
そう、なんだかんだ言ってもやることに変わりはないのだ。
悪夢など、それ以上の思い出で塗りつぶしてしまえばいい。そう思って、そんな後輩と二人で楽器を取りに向かう。
「テストも終わって、そろそろ先生も本格的に指導に来ることになるし。『プリマヴェーラ』も難しいところあるから、ちゃんと見とかないと」
「そのことなんですけど先輩。あれ上パートが私で、下パートが先輩っていうことでいいんですか」
「そうだね。俺が下をやる」
鍵太郎と芽衣のやるチューバは、基本的に上パートと下パートの二つに分かれることになる。
しかし面白いのが、この楽器は他と違って、下パートを先輩がやることの方が多いということだった。
トランペットなどの他の楽器は、高い音域を三年生がやることになる。それは、その高音が演奏の主導権を握ることになるからだ。
しかしチューバに関して言えば、下の音域の方がある意味難しいので年長者がやることになる。そういえば一年生のとき、あの人と二人で吹いていたときは、自分が上パートを吹いていたな――と、鍵太郎が思い出していると。
芽衣が言う。
「……なんでしょう。なんか今ちょっと、イラっときました。なんですか。私ってそんなに頼りないですか」
「いやいやいや!? そうじゃなくて!? 俺が下パート吹きたいんだよ!?」
立ち止まってこちらを半眼でにらんでくる後輩に、慌てて弁解する。
確かに下パートは、比較的体格のいい、かつ安定してパワーを出せるだけの技術のある人間がやることが多い。小柄なことがコンプレックスである芽衣にとって、上パートをやれということは自分を否定されているように思えるのかもしれない。
でも、違うのだ。
できるできないではなく、体格云々の話ではなく、もっと別の理由がある。
それは――
「俺は、みんなを一番下から支えたいんだ。部長だなんだって言われてるけど、結局俺は、部活では一番立場が下の男子部員だから」
全員を支える立場の、大きな受け皿になりたいからだ。
人の上に立てば、そのことを忘れてしまいそうだったから。
だから部活的にも音域的にも一番下の、その役割をあえて選んだ。もちろん、深海から差し込む光を見上げるような、その場所が好きだったというのもある。
ずしりと重いものを背負うことになるけれど、やはりそれが、自分のやるべきことのような気がした。
いくらしんどくても、そこから逃げたくはなかったのだ――それを胸を張っていったつもりだったが、そんなこちらを見て後輩は、不機嫌な顔のまま言ってくる。
「じゃあ、なんで先輩は、そんな疲れた顔をしてるんですか」
「――そういう顔、してる?」
「してます。べったりです。ひどい顔です」
ずいぶんな言いようだが、実際にそう指摘されると言い返せない部分があるのは事実だった。
心と身体の奥底に、水を含んだ泥のように黒く、ねばついた疲労がある。今日などは夢見が悪かったため、なおさらだ。
顔を押さえていると、芽衣はそんなこちらを見て怒ったように言う。
「なんなんですか。なんでそんなに弱っちいのに、なんでもかんでもひとりで背負おうとするんですか。みんなに気を遣って、ひとりで悩んで――なんでみんなが笑うために、先輩が犠牲にならなくちゃならないんですか」
「……犠牲なんて、そんなことは」
「あります。この前、先輩はうちの学年の子たちに、『みんなの意思のない演奏なんて、そんなものはつまらない』って言ったらしいですね」
先日、コンクールに出られない一年生に鍵太郎は、そう言って楽器を持ち続けるように言ったのだった。
同い年のその子たちから、それを聞いたのだろう。後輩はそのまま続ける。
「今の先輩は、おかしいです。自分が言ったことを、先輩自身が守れてないじゃないですか。人の世話ばっかり焼いて、自分のことになると遠慮してばっかりで。そんなのは変です。そんなのは、楽しくないです。そんなのは――つまらないです」
「……」
完璧な切り返しに、返す言葉もない。
部長だから、ここを守りたいからという理由で、ここ最近は特に必死になって動いてきた。けれども自分自身はどうかというと――その望みのために疲労を隠して、なんでもないことのように装って、この一年生にも、誤魔化すように接していなかったか。
それでは、本末転倒だ。
彼女が怒るのも無理はない。最初に納得いかなさそうな顔をしていたのは、そんなこちらの態度を見透かしていたからかもしれない。
言葉にはできずとも、その空気を敏感に感じ取っていた。
そんな後輩は、怒っているのか泣いているのか判別もできないような顔で、唇を噛んで言う。
「みんな自分のことばっかりで、誰も先輩のことを守らないじゃないですか。そんなのは嫌です。そんなに私たちは先輩にとって、重荷ですか。ちょっとくらいその荷物を分けようとは思わないんですか。そんなに私は――頼りないですか」
「違う。それは違うよ、大月さん」
最後のセリフだけは断じて否定しようと、鍵太郎は震える芽衣に声をかけた。
知らず知らずのうちに自分自身を軽んじたのは、確かにこちらの失点だ。以前にも似たようなことをやらかして同い年のホルン吹きに怒られたのに、またやってしまった。それは謝らなくてはならない。
けれども、そのことと彼女への扱いは関係ない。
そう思っていたけれども――次の後輩からの質問に、鍵太郎の思考がフリーズする。
「じゃあ――先輩のその『嫌な夢』の中に、私は出てきましたか」
「――え?」
言われて今朝みた、あの夢の光景を振り返る。
自分と一緒に吹いてきた人間が大勢出てきた、そして困った顔でこちらを見てきた、あの夢のことを。
その中に、芽衣はいただろうか。
「……あれ?」
そういえば、いなかった気がする。
実際の合奏のときのように、同じ楽器は同じ楽器同士で固まって座っていた。だから、なおさら周りには、自分と関わりの深い面子がそろっていて――でも、そこにこの後輩の姿はなかったように思う。
言われてみれば、という感じだった。
それが、何を意味するのか――考える暇もなく、芽衣は言う。
「ほら。やっぱり私は、先輩にとってその程度の存在なんじゃないですか。先輩を責める価値もないほど、信頼されてないってことなんでしょう」
「い、いや、たぶんそういう意味じゃなくて――」
「だったら!」
真実は、むしろ逆なのではないか――そう言おうとしたのだが。
それよりも早く後輩は、こちらに被せるように叫んできてしまった。
「今日は私に任せて、先輩は帰って休んでください。信用できるっていうんなら、今日の練習は私ひとりに任せてください!」
「い、いや、それはでも……」
「帰れー!」
反論しようとしたものの、もはや聞く耳は持たないといった風に芽衣は叫んできた。
ひとりでだってできるのだ。そういうオーラを後輩からひしひしと感じて後ずさる。いつもは大人しい彼女の、珍しい大声だった。これが反抗期というやつだろうか。
悔しそうに口をへの字に曲げてこちらを見上げてくる芽衣は、涙さえ浮かべているように見えて――
そして、それほどまでに心配されていることを、その表情から察して。
ため息をついて鍵太郎は、白旗を上げた。
「……分かった。今日は帰るよ。で、ちゃんと休む」
「本当ですよ? 嘘はつかないでくださいね?」
「ああ。そこは大丈夫だよ」
明日もそれをやったら、この後輩は音楽準備室の前で通せんぼして、楽器を出させてくれないかもしれない。
その光景が想像できて、苦笑しながら芽衣にそう返す。警戒した小動物のように身をかがめていた後輩は、その言葉を聞いて一応は納得したらしい。肩から力を抜き、その姿勢を解いた。
彼女の実力は、たった一か月程度ではあるが隣で吹いてきたこちらが、よく分かっている。
なので今日一日任せてしまっても問題はないだろう――そう判断して、鍵太郎は顧問の先生に早退する旨を伝えに行った。
部長だからということで、休むのを遠慮していた面は確かにある。
けれども最近は、そうでなくても走り過ぎていた。
部員の保護者と渡り合って、後輩とゲームセンターで勝負をして――中間テストもあって、コンクールに出られない一年生と話し合ってと、かなりあちこち飛び回っていたのだ。
疲れが出てもおかしくはない。久しぶりに、本当に久しぶりに、楽器の音がする音楽室を背に階段を下りながら、鍵太郎は、今日の夢のことを思い出していた。
夢の中で自分が楽器を吹けなかったのは、疲れのせいで心が弱っていたため。
そしてそのせいで周りが、あの人が悲しい顔をしていたのは、そんな自分を諫めるため――だったのかもしれない。
みなにそんな顔をさせるなんて、やはりまだまだなってないのだ。これからは、休めるときはちゃんと休まないといけない。
そう思いながら――鍵太郎は後ろから聞こえてきた自分の楽器の音に、足を止めた。
芽衣の音は、ひとりでやっているのか張り切っているせいか、いつもより少し荒々しく感じられる。
けれどもそれも、また彼女の経験の一部になるのだろう。可愛い子には旅をさせよというし、今日は芽衣の好きにやらせてみればいい。
そしてまた、明日から彼女と一緒に楽器を吹くのだ――そう思って、鍵太郎は笑って再び階段を下り始めた。
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家に帰って少しだけ宿題をして、すぐに休んだ。
あの後輩が、代わりに吹いてくれたからだろうか。それとも、守ってくれたからだろうか――
今度はあの怖い夢を、みることはなかった。
第21幕 問題だらけのレギュラーメンバー~了




