その方が、きっときっと楽しいこと
※主な登場人物
・湊鍵太郎…三年生。部長。
・本町瑞枝…吹奏楽部顧問。
・根岸奈々…一年生。
・宮本朝実…二年生。バリトンサックス担当。
辛くても、進んでいくしかなかった。
逃げてばかりじゃなくて、立ち向かわなければならない時もあった。
一年生のあの頃もそうだったけれど。
三年生になった今も、そのことに変わりはない。
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「そろそろ締切だ」
そう、湊鍵太郎の前で、吹奏楽部の顧問である本町瑞枝は言った。
音楽準備室の本町のデスクには、コンクールの申込用紙が置かれている。
吹奏楽部の夏の大会、吹奏楽コンクール。
その参加締切は、もうすぐだ。それまでのこの用紙が到着しなければ、大会への参加はそもそもできなくなる。
そして、その申込用紙には、コンクールの舞台に乗る部員の名前を全員書かなければならない。
欄の数は三十。つまり三十人が演奏に参加することになる。
それを超える人数が本番で確認されれば、どんなに素晴らしい演奏でもその団体は失格だ。実際にそうなった学校がここ数年でもあったらしく、その話をしたとき先生は、渋い顔で「うっかりでもダメなんだよなあ」と肩をすくめていた。
ルールは厳格で、公正で、冷徹だ。
そうでもしなければ不正を働く人間がいるのだから仕方がない。そして今、この学校の吹奏楽部には三十人を超える部員がいた。
その中から、この枠の中に書くメンバーを選ぶことになる。中間テストも終わり五月の下旬。そろそろタイムリミットが迫ってきている。
本町の言う通り、そろそろ締切なのだ。黙ってその申込用紙を見下ろす鍵太郎へと、先生は組んだ手にあごを乗せ言う。
「もうそろそろ、誤魔化しは利かねえ。ここに名前を書くヤツを選ばなくちゃならねえが――どうだ、湊。アタシとおまえの考えるメンバーは、さほど変わりないと思うが」
「……だと、思います」
全員の前で指揮を振る本町と、部長の鍵太郎。
二人の話し合いの結果、コンクールに乗る顔ぶれはほぼ一致していることが分かった。中心はやはり、二、三年生――実力的にも性格的にも、やっていけると納得できる面子だ。
逆に言うと、初心者で入った一年生がそこから漏れた形になる。
その一年生数人の顔を思い出し、鍵太郎はため息をついた。これはしょうがないことなのだ――と呑み込もうと思っても、やり切れないものがある。
別に彼女たちは悪くない。
ただ単に、巡り合わせが悪かっただけだ。このまま練習をしていけば来年のコンクールには出られるだろうし、その来年にはいない自分がそこまで心配をする必要もない。
けれども、この心のモヤモヤはなんだろう――そう思って名前が連ねられていく用紙を見つめていると。
先生が言う。
「なあ、湊。これに関しちゃ、おまえが責任を負うことはないんだぜ。吹奏楽部は、コンクールが全てじゃない。それはおまえも分かってるだろう?」
「……はい」
「んで、ここに名前を書けなかったやつらには、アタシがちゃんと説明をする。それでチャラだ。あいつらが今の時点で、全部を受け止められるとは限らねえが、長い時間をかけて噛み砕いていくことはできる。結局、どう考えるかは本人次第なのさ」
今年はこういうことになったが、だからこそ得るものだってある――と、名前を書きながら、けれどもそこには載らない人物のことも思い浮かべているのだろう。本町はそう言った。
先生の言う通り、長い目で見ればこの状況も、決してマイナスのことばかりではない。
自分だってそうだった。ホルンからチューバに移されたことだってそうだし、できないことばかりで、だからこそやってやろうと思ったというのはある。
野球部にいた頃だって、レギュラーになれなかったからこそ思ったことがある。基本的に、自分はいつも劣等生だった。だからこそ考えていたことがあって、気が付けば部長なんてものに祭り上げられていたのだ。
部長――そう、部長だ。
こんな自分だからこそ、できたことがあった。それは今も同じなのではないかと思う。
「……先生」
できない自分をどう感じていたか、切られた身になって考えることができる。
そう思って、鍵太郎は本町に声をかけた。
「その一年生たちに説明するのって、俺に任せてもらってもいいですか」
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人がいなくなるのを待って、後輩たちには集まってもらうことにした。
あまり衆目の前でやることではないし、彼女たちにとってもその方がいいと判断したからだ。なので部活が終わった後、鍵太郎は一年生たちと一緒に音楽準備室にやってきていた。
顧問の先生は最初とても渋い顔をしたものの、結局はこちらの意向を尊重してくれた。そのことに感謝しつつ、目の前にいる後輩たちを見る。
全部で五人。いずれも初心者で入部してきた一年生たちだ。
彼女たちは突然の呼び出しに、戸惑った様子でこちらを見ていた。それはそうだろう。三年生の先輩、しかも部長からの召喚に動じない一年生などいない。まあ、若干名例外は存在するのだが。
先日ゲームセンターで対決した付けまつげバッチリの一年生のことを頭の隅に追いやりつつ、鍵太郎は息をついた。彼女は部活の中でもかなり、異色の存在ではある。
あの一年生のような新入生など、そうそういないだろう。というか、ああいうのばかりでは、それはそれで困る。
自分もあのくらい我が強ければよかったのだが、そうしたらきっとあの楽器は吹かなかっただろうし、部長にもならなかったのだ――そう思いつつ、口を開く。
「ええっと、今日集まってもらった訳なんだけど」
そして鍵太郎は、説明した。
夏にコンクールがあること。それには、出場の人数制限があること。
そうして、彼女たちがそのメンバーからは外れていること――。
なるべく丁寧に、けれども事実はぼかさず、きちんと伝えることができたように思う。
断定できなかったのは、後輩たちの顔が困惑したままだったからだ。そのことに、胸の奥に鈍い痛みを感じつつ、話を終える。
「……そんなわけで、今回はこうなったけれど、あんまりがっかりしないでほしいなと思う」
これで、納得してもらえるだろうかと不安を覚えながら、鍵太郎は一年生たちを見回した。
一番怖いのは彼女たちが、この件でやる気をなくしてしまうことだ。
この場で泣かれることよりも陰で悪口を言われるよりも、真っ先に頭をよぎったのはそれだった。すると顔を見合わせていた一年生の一人が、遠慮がちに手を挙げて訊いてくる。
「あの……どうして先輩は、ここまでしてくれるんですか?」
「どうして、って」
長めの髪を左右で二つしばりにしたその後輩は、根岸奈々、という名前だったはずだった。
楽器も学年も違うためほとんど話したことはないのだが、丸い目が印象的で素直な子だと思った記憶がある。しおりを作ったときも、手渡された自分の名前の入ったそれを見て、この子は驚いた顔をしていたのだ――そんなことを思い出しつつ、鍵太郎は言った。
「だって、嫌だろう。俺は嫌だよ。納得いく説明がないまま、置いていかれるのは」
どうしてここまでするのか、と問われれば。
それは自分が納得するのに、ずいぶんと時間がかかったからだと思う。
顧問の先生に全部を任せる、という手もあっただろうが、それはあくまで大人から言われたことに過ぎない。
反論の余地がないまま、受け取らざるを得ないものを抱えることになる。
「俺は中学のとき野球部だったけど、グラウンドでレギュラーメンバーが試合をしてるのを見てて、思うところはあったよ。応援しなきゃならないって空気を感じたから、声は出してたけどさ――でも、きみらにはそういう思いを、してほしくなくて」
たぶん彼女たちは、表面上はそうするだろう。
コンクールに出るメンバーのサポートをし、邪魔にならないよう配慮し、時には笑って平気な振りをすることになるだろう。
舞台には上がらないのにも関わらず、だ。
「俺の場合は、単なる実力不足を人のせいにして不貞腐れてただけだったけど、きみたちはそうじゃない。たまたま初心者でここに入ってきて、楽器を始めたばかりの一年生だろう。そんな子たちに、そういう理不尽な思いはしてほしくないんだ、俺は」
来年はコンクールに出られるだろう、などと楽観的なことは考えられるけれども。
自分の経験と照らし合わせると、それでも今年の彼女たちにあったことというのは、絶対に次の年にも影響してくる気がしてならなかった。
自分の心に嘘をついて落ちた影は、少しずつ気持ちを蝕んでいく。
それを考えると、舞台に乗る人間を、無理矢理この後輩たちに応援させるのはよくない気がした。
『本番に乗れなかった』という事実を納得できる形で受け止められなければ、そこにある感情は歪んでいってしまう。
そして、どんどん自信が削られていくのだ。
そうなれば、来年のコンクールどころか、楽器を吹き続けることだって怪しい。そんな心配は杞憂かもしれないけれど、少なくともその可能性がある以上、それは絶対に見過ごすことはできなかった。
部長としてではなく、ひとりの奏者として。
「それにね、俺の持論なんだけれど」
楽譜には誠実に。人にも誠実に。
切り捨てるのだったら、切り捨てられるだけの覚悟を持て――そしてその上で、手を取り合う覚悟を持て。
去年あったその出来事たちを思い出しながら、鍵太郎はもう一歩、踏み出した。
「上手いだけの部活なんて、みんなの意思のない演奏なんて、そんなものはつまらないんだよ」
一度そうなりかけたからこそ、反対の方向に持っていこうという思いは強くある。
彼女たちはそんなこと、知りもしないけれど――それでも、自分の信じるものに従って。
鍵太郎は、後輩たちに続けた。
「その『みんな』っていうのは、もちろん、きみたちも入ってる。俺はここを、ただ金賞を取ってよかったねってするだけの、そういう場所にするつもりはない。やるんだったら部員全員が生き生きしてて、辛いことがあってもここに来るとそんなものは吹き飛んで、その上ですげえ演奏をする。そういうところに俺はしたいんだ」
だって、その方がきっと楽しいから。
誰かが泣いた上に立ってもらったトロフィーなんて、嬉しくないから。
コンクールの舞台には登れないけど、彼女たちは同じ部活の仲間なのだ。少なくともそれだけは、この後輩たちに知っていてほしかった。
納得した上で、笑ってほしかった。
どうしてここまでするのか、と訊かれれば、それはこの一年生たちだって部員のひとりだからだ。
それだけ答えるのに、ずいぶんと時間がかかってしまった。やはりどう取り繕っても、自分は劣等生なのだと思う。
説明が下手すぎる。最初は何をやっても失敗して、だからそこからどうしようかを探りながら、ここまでやってきたのだ。
そんなこちらの拙い言葉は、届いたのだろうか。
根岸奈々はもう一度、同い年たちと顔を見合わせ――そして、隣にいた面子と一緒に、おかしそうに笑った。
「分かりました。先輩がどうしてそこまでしてくれるのか――あと、先輩がどうして、部長になったのかも」
「……根岸さん」
「わ。名前覚えててくれたんですね。嬉しい!」
「覚えてるよ。せめてそのくらいはしなきゃって、きみらが入部してきたとき思ったんだから……」
今年の一年生が大量に入ってきたとき、まず思ったのはコンクールのメンバー云々ではなく、全員の顔と名前を覚えなければということだった。
それがせめて、彼女たちに対する誠意だと思った。
けれども、後輩たちはそうは考えていなかったらしい。
自分の名前が憶えられていたことを知って、きゃあきゃあはしゃぐ同い年の中で、奈々は自身も嬉しそうに笑いながら言う。
「大丈夫です。わたしたちだって分かってました。その……コンクール? には、乗れないだろうなーって」
「……そうだったんだ」
「はい。まだ始めたばっかりですし。部活のこともよく分からないし。薄々そうなるんじゃないかとは、思ってたんです。でも――これでスッキリしたというか、安心しました」
先輩が言ってくれたおかげで、わたしたちが大事にされてるんだって、分かりましたから――そう照れ笑いしながら口にする後輩に、鍵太郎はようやくほっと一息ついた。
「さっきは、ちょっとびっくりしちゃったんです。なんで先輩は、そんなに深刻そうな顔をしてるのかって。それで何を言っていいかよく分からなかったんですけど、よかった、これで解決ですね!」
「あ、なるほどね……」
どうやら、後輩たちを困惑させていた原因はこちらの態度にあったらしい。
その点はいつも通り反省しつつ、今後に生かすことにする。やはりどうも、人の前に立つことは苦手だ。
本来であれば自分は、目立つことの少ない低音楽器の人間である。できればこういったことは、他の誰かに任せたい。
けれども、辛くても進んでいくしかなくて。
逃げてばかりじゃなくて、立ち向かわなければならない時があるなら――今がその時だったと。
鍵太郎は、無邪気に笑う後輩たちを見てそう思っていた。
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それから数日後。
「というわけで、先輩のファンクラブを作ることにしました!」
「今すぐ解散しなさい」
二年生の宮本朝実が言ってきたことに、鍵太郎は即座に切り返した。
何がどうなってそうなったのかは、いまいちよく分からないが、とにかく悪い予感しかしない。
このゴシップ好きの後輩が関わっているとなれば、なおさらである。しかし朝実は、まるで悪びれた様子もなくそのまま続けてくる。
「なんだか最近一年生が、すごく先輩のこと応援したいって言い出してですね? 元からそういう動きはあったんですけど、それじゃあっていうことで非公式で作ることにしまして」
「アングラっていう言葉に、不穏な響きしか感じない……」
「またまたー。先輩結構、部内にファンは多いんですよ?」
だから遠慮しないで受け取ってください――という後輩の言葉に、天を仰ぎつつ、鍵太郎はあの一年生たちのことを考えた。
彼女たちがこちらのことを応援してくれる気になったのは、それはそれでありがたい。
なら、少しはその行動を、大目に見てやってもいいか――そう結論付けようとすると。
朝実は右手をギュッと握って、力強く言い放つ。
「ちなみに主な活動内容は、先輩の監視・行動記録をつけてファンクラブ会員に配ることです! よかったですね先輩! みんなに愛されてますよ!」
「歪んでるっ!? 何かこの後輩に捻じ曲げられた、不当な愛情を感じる!?」
「えー。うちわとかも作ろうと思ってたんですけどー」
「恥ずかしいから本当やめて本当!?」
アイドルのコンサートじゃあるまいし。
コンクールの本番で、キラキラのモールを付けたうちわを持つ奈々たちを想像してしまって、思わず床に膝をつく。
「あー、なんなんだよ、もう……」
辛くても、進んでいくしかなかった。
逃げてばかりじゃなくて、立ち向かわなければならない時もあった――けれども、この光景からは逃げたい。心底逃げたいと思う。
一年生のあの頃もそうだったけれど、三年生になった今も、違う意味で苦労していることには変わりない。
納得いく説明を要求したいところだが、この後輩たちからはどうも、それは得られそうになかった。
楽しそうにこれからの活動を語る朝実に、さてこれをどう説得しようと、鍵太郎は。
彼女たちと話した記憶を元に、後輩たちを説き伏せる術を考えることにした。




