美しき山の息吹・ハイキングコース
※主な登場人物
・湊鍵太郎…三年生。部長。チューバ担当。
・千渡光莉…三年生。副部長。トランペット担当。
「なんか、ようやくまともに練習できる気がするー!」
「最近は部活のゴタゴタに付き合わされてばっかりだったもんね、あんた……」
湊鍵太郎が感涙にむせびながらそう言うと、同い年の千渡光莉が半ば感心したような、呆れたような声でそう返してきた。
今日はコンクールで演奏する曲、『プリマヴェーラ』の初合奏の日だ。
楽譜を配ってから数日、色々あったがどうにかここまでこぎつけた。部員の保護者に殴り込まれたり一年生が部活を辞めると言い出したり、そんなことばかりに対応していたので、マトモに楽器を吹けること自体がただ単に嬉しく思える。
自分がやりたいと言い出した曲なので、なおさらだ。そう思いながら鍵太郎がホクホク顔をしていると。
光莉が自分のパートの楽譜を見つつ、ぽつりとつぶやく。
「……意外と、譜面自体は簡単なのよね」
彼女が眺めているのは、『プリマヴェーラ』の冒頭、トランペットのソロの部分だろう。
高い山の上から、霧を晴らすかのように聞こえてくるメロディー。
それは光莉が吹く場所であり、彼女が最もプレッシャーを感じているだろう箇所だ。
この曲をやろうと鍵太郎が思ったとき、真っ先に考えたのが光莉がこのソロを引き受けてくれるだろうか、ということだった。案の定一度は断られたものの、説得の末なんとかこの同い年は首を縦に振ってくれた。
そんな彼女からしてみれば、実際に目にした楽譜が思ったより単純だったということが、むしろ戸惑う要因になっているらしい。
自分で思い切り高く設定していたハードルが、いざ目の前に立ってみたら意外と低かった――そんな調子で、光莉は言う。
「……難しいリズムがあるわけでもない。そんなに高い音があるわけでもない。すごく、シンプルで――いいのかしら、これで……っていうくらい。コンクールでトランペットのソロっていうと、もっと難易度の高いものを考えてたんだけど」
「別にいいんじゃないか、できそうだなと思う分には」
困ったように楽譜を見る同い年へ、鍵太郎は背中を押すためにそんな言葉をかけた。
最初にこの曲を聞いたときに、彼女の口から出てきたのは「できるかどうか分からない」というセリフだったのだ。
けれどもそれが解消できそうなら、光莉としてもこちらとしても良い話ではないか。
そう考えていると、彼女は言ってくる。
「そりゃ、まあ……できそうだけど。それはそれで、地力が試されるというか。むしろ、シンプルだからこそ誤魔化しが効かないというか。歌い込みが問われそうよね。どんな風に吹けばいいのかしら……?」
「ああもう。いいからやってみようぜ」
別の方向に無理やりハードルを上げようとする同い年を、止めるためにあえてそう言ってみる。
どんな風に壁を飛び越えようか考える前に、とりあえずやってみればいい。
というかそうしないと、自分のやろうとしていることすら分からないだろうから――と、正論を持ち出しはしたものの。
本音は、早く合奏をしたいだけの鍵太郎だった。二の足を踏む同い年を引きずって、合奏の準備を進めていく。
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『プリマヴェーラ』には、副題として『美しき山の息吹』という言葉が付けられている。
山梨県の景色を元にしているということだったので、その『美しき山』というのは南アルプスか、または富士山か――どれを指しているのかは分からないが、少なくとも標高の高い山というイメージで、間違いはないだろう。
ピンと張った澄んだ空気に、青く広がる空。
そんな雰囲気が出せたら最高だ。場面場面によってイメージは変わっていくが、ベースとしてはそれで合っていると思う。
初めてちゃんと全員で合奏をするので、どこまで行けるかは分からないが――とりあえずまずは、ハイキングとしゃれ込みたい。
「よーし。いっちょやってみますかー」
顧問の先生が腕のストレッチをし、そう言って指揮棒を構えた。
鍵太郎も最低限の準備だけ整えて、楽器を持ち上げる。そういえば、昔この楽器をソフトケースに入れて背負ったとき、すごい登山をする人みたいだと言われたが――この曲はそんな感じでいいのだろうか。
今と比べれば、まだ何も知らなかったに等しい、一年生のあのとき。
それと同じでいいのだろうか――そんなことを思っていたら、指揮棒が振り下ろされた。
鍵太郎の吹くチューバは、最初は休みだ。ゆっくりとしたテンポの中で、聞こえてくる音に身を浸す。
まず耳に入ってきたのは、木管楽器たちのメロディーだ。
山に生える木のように、生い茂る旋律。初めて演奏するせいかまだちょっとそろっていなくて、若干のごちゃごちゃ感はあるが、それもご愛敬ではあるのだろう。
切りそろえられていない、自然そのままの緑の道。
そこにトランペットの音が吹き抜けていって、鍵太郎はちらりと、光莉の方を見た。
木々の間をこだまする、風のような高い音。
あるのは知れども姿は見えない、そんな森の奥の見えない何かは、ミュートと呼ばれる付属品を使って表現したものだ。
トランペットのベルに差し込んで使う、ボトルコーヒー缶くらいの大きさの、金属の筒。
今回はストレートミュート、と呼ばれるものを使って吹いている。へえ、ソロの直前にああいうこともしてたのか――と、鍵太郎は何気なくそんな同い年を見守った。あれをやった後、すぐにそのミュートを外して主旋律に備えなければならない。そう考えると、意外と忙しいのかもしれない。
けれど、彼女なら大丈夫。
元々光莉は、緊張さえしなければ抜群に上手いのだ。思い返せば、最初に音を出したときもこの音楽室にいた全員がざわめいた。
譜面自体は簡単だというし、あとはそこにどれだけ、彼女自身が思いを込められるかなのだろう。
この、美しき山の頂で。
あの同い年がその心のままに、歌うことができたなら――と、思ったところで。
楽器への差し込みが甘かったのだろうか。
光莉のトランペットから、ミュートが抜け落ちた。
「あ」
その声を出したのは、自分だったのだろうか、彼女だったのだろうか。
それとも、他の誰かだったのだろうか――そんなことを、鍵太郎が考えたところで。
視界の中でスローモーションで落ちていく金属の部品は、演奏中なので当然、誰もキャッチできるはずもなく。
ぐわっしゃスカコン! と意外と派手な音を立てて、音楽室の床に激突した。
ぶハッ――とその音に、反射的に噴き出す。光莉が慌てて拾いにいこうとするも、すぐそこにソロの出番が控えているのでそうもいかない。
足元から、コロコロとミュートが転がっていくが――結局彼女はそれを拾わず、目を見開いたまま楽器を構え続けた。
何があっても演奏を止めるなとあのテーマパークで言われたように、基本的に何があっても合奏というのは止まらない。
例えそれが、緊張の糸が途切れて、ともすれば笑い出しそうになってしまいそうな雰囲気の中でもだ。油断すると腹筋が震えて、音までおかしくなってしまうのをどうにか堪えて、鍵太郎は光莉のソロに併せて伴奏を吹き始めた。
そうして出てきたハーモニーは、高山の空気というにはあまりにも雑然としていたけれども。
同い年の音は、その中でよく響いてきている。
それに、違う意味で笑みがこぼれた。ほら、やっぱり大丈夫じゃねえか――と言ってやりたいけれども、楽器に口を付けているのでそれはできない。
代わりに、そのソロの終わりを華々しく飾るように大きく音を出してみる。
きっとこの合奏が終わった後、あの同い年は全然大丈夫なんかじゃなかったなどと言うのだろうけど、それはそれ、これはこれだ。
まだまだ低い山の上だろうけども。
それでも、彼女の歌はよく通っていた。
登ろうとしてつまずいて、転んで足をすりむいて。
そうして辿り着いた、いつもより少しだけ見晴らしのいいところで、光莉は吹いている。
今はそれだけで十分だ。とんだハイキングになったけれども、旅というのは失敗した分だけ、後で楽しい思い出になる。
そんな記憶を積み重ねながら。
何もなかった部分に、景色を描きながら。
この山を、どれだけ高くできるのだろうか。綺麗な色を、どこまで付けられるだろうか――そう思いながら。
鍵太郎は、次のフレーズに踏み込むための音を出した。
《参考音源》
「プリマヴェーラ」~美しき山の息吹
https://www.youtube.com/watch?v=nQyDUX8Tqwo(描写は冒頭から1分半過ぎまで)




