ほんとうの解決
※主な登場人物
・湊鍵太郎…三年生。部長。
・本町瑞枝…吹奏楽部顧問。
・片柳隣花…三年生。ホルン担当。
「……嘘。本当に対話でどうにかしちゃったの……?」
未だ半信半疑、といった様子で片柳隣花がそうつぶやくのを、湊鍵太郎はイスからずり落ちそうになりながら聞いていた。
部活を辞めさせられそうになった隣花を、取り戻すために開いた四者面談。
それがつい先ほど、終わったところだ。
そして、彼女は母親に部活を続けてもいいと言われた。
対話など不可能。言うことを聞くしかないと思っていた相手からの、突然の開放。
そんな状況なので、喜ぶというよりも戸惑いの方が隣花は強いらしい。しかしそんな同い年に、鍵太郎は笑って言う。
「だから言ったろ。どうにかするって」
「言ったけど。まさか、本当にできるなんて……」
思って、なかったから――とすまなそうに尻すぼみになってつぶやく隣花に、やれやれと息をつく。
確かに、彼女からしてみれば信じられないくらいにあっさりと、事が進んだように見えるのかもしれない。
けれどもここに至るまでは、結構大変だったのだ。
特に、この面談で使った資料については――と思ったところで。
その資料を持った吹奏楽部顧問の本町瑞枝が、ぐったりと机に突っ伏して言う。
「あ゛ー……。つかれた……」
「すみません、先生。ありがとうございました」
部活側を代表して、この顧問の先生には保護者と渡り合ってもらった。
一番プレッシャーがかかっていたのは、ある意味ではこの人だったろう。しかも盛大なハッタリまでかましてもらったのだ。
かけられるだけの保険はかけておいたのだが、やはり矢面に立つのは相当にしんどかったはずだ。
下手をすれば、首が飛びかねない。そう言っていたのは掛け値なしに本当の話だった。そうまでして部員を守ってくれた本町に、礼を言う。
対して先生は、突っ伏したまま片手だけで書類をぴこぴこ振る。
「まー……うまくいったからヨシとするわ。しかし、なんとかなるもんだなあ。『コレ』で」
「がんばりましたもんね、俺たち……」
「さっきから聞いてて思ったけど。それって、わりととんでもないデータよね……?」
隣花の問いに、本町はそのまま手に持った紙束を彼女に渡した。
先ほどの面談で使ったその資料は、部活をやっている生徒とやっていない生徒の、学力を比較した調査結果が記されている。
公的機関の全国調査で、中学生を対象としたものではあるが信頼性は高い。『部活をやっていた方が勉強ができる』。それを印象付ける格好の材料となった。
そして、それに高校生の場合はと、この学校のデータを紐付けたわけだが――
「あ、これな。半分嘘」
「嘘!?」
その自分の学校の部分はほぼ捏造で、それを告白すると同い年は驚愕の叫び声をあげた。
正確に言えば、先輩たちの進学先は本当で、部活と生徒の学力の度合いをグラフにしたものが嘘になる。
今度こそ呆然とする隣花に、鍵太郎は言う。
「だってさあ、考えてもみろよ。おまえが部活を休んでからこの数日だけで、そんな膨大なデータ量をまとめられるわけないだろ」
「そ、そうかもしれないけど。でも、学校側でそういうのって把握してるんじゃないの……?」
「ないない。それはない」
同い年の疑問に、次に答えたのは顧問の先生だった。
対外モードがすっかり剥がれて、いつもの感じに戻っている。むしろ反動なのか、いつもよりさらに伝法な口調で本町は続ける。
「偏差値を上げようと血眼になってる、廃校寸前の学校とかだったら分かるけどよ。ここ、一応進学校だぜ? 普通にやってりゃ大抵の生徒はどこかの大学に行くんだ。なら、本腰入れてそんな調査なんかしねえよ。さっきの話にもつながるけどな。人間は必要に迫られなきゃ、やることはやんねーの」
わざわざいつ使うのかも知れないような、そんなデータなんか取ってるわけがねえのよ――と、あっさりでっち上げを認めて、先生は苦笑した。
書類に記載されているグラフは、本物の調査結果に合わせて違和感のない程度に作った偽物だ。
元々学校側に、そんなデータなど存在しなかった。
ここ数日こちらが忙しかったのは、データの集計に時間がかかっていたからではない。バレないように根回しを行っていたからだ。
本物の中に嘘を混ぜ込んで、全部が本物だと信じ込ませる。
完全に詐欺師の手法だが、今回は相手が相手だったのでこんな方法を採らせてもらった。バレたら大問題の大勝負――それをハッタリで乗り切ったのだから、本町もただ者ではない。
校長にはこの部分だけ伏せて報告、主要な教師陣にも概要は伝えて――と。
ここ数日であったことを思い返して、そういえば、と鍵太郎は口を開く。
「そうだ、片柳。後で藤原先生にもお礼言っといてくれよ。あの人、進路指導部の責任者だからさ。今回の資料作りも事情を話して、手伝ってもらったんだ。万が一バレそうになったときも、口裏合わせてくれるから。この先もし変なことになりそうだったら、そっちを頼ってもいい」
あの社会の先生が協力してくれたのは、こちらにとっても非常に大きかった。
自分たちの知らないところで学校側に問い合わせされても、それなら対処ができる。そして、意外だったのは『あの件』を持ち出さずとも動いてくれたところで――そういうところはやはりあの人も、教師だということなのだろうか。
そんなこんなで、様々な人がサポートしてくれての今回の勝利だった。
ハードルは高かったが、そんな多くの後押しがあったからこそ、事がスムーズに運んだ。それを知らなかった隣花からすれば、さっき起こったことはまるで魔法のように見えたのだろう。
夢を現実で支える、と言った先日の本番のように、人の手を借りてなんとかこの同い年を守ることができた。
そして、最後の要は当の彼女なのだ――そう思って、鍵太郎は隣花に言う。
「こんな嘘、いつかバレちまうかもしれない。けど、おまえが卒業するまでの間は、持つんじゃないか。あと一年。おまえが今まで通りやって、志望校に合格すれば――そんな嘘でも、母親にとっては真実になるだろ」
あとは、彼女の頑張り次第なのだ。
それでようやく、この計画は完成する。夢を現実で叶えることが可能になる。
自分たちが口にしたことは、本当になる。
それができるか、とこちらに訊いてきた同い年は――しかし、こちらを見て戸惑ったように言ってきた。
「……なんで。なんで、あんたはそこまでしてくれるの……?」
「言ったろ。おまえ無しのコンクールなんて考えられないって」
「私が、『戦力』だから……?」
「そのセリフ、もう一回言ったらぶっ飛ばすぞ」
隣花の問いかけに、鍵太郎は被せるように強い調子で答えた。
以前、部員たちを演奏の部品のように考えてしまうことに、罪悪感を持ったときがあったが――今は、全く違う気持ちで満たされている。
そんな現実的な算段以上に、自分は彼女たちと一緒の舞台に立ちたいのだ。
自身を駒のように扱う隣花に、それを大きく言ってやりたかった。
「戦力とか、そんなつまんねえものより、俺はおまえのことを信用してるんだ。機能? 技術? ふざけんじゃねえ。そんなものよりもっと強いものを、おまえは持ってるだろう」
さっきまで抑えていた怒りが一気にあふれて、自然と語気が荒くなる。
思い出すのは、隣花と電話したとき彼女が言っていた『あと一年我慢すればいい』という趣旨の言葉だった。
部活を辞めて、遠くから聞こえる音を聞きながらシャープペンシルを動かす、そんな一年。
それを想像したら、そこからこの同い年を引きずり出したくなった。
これまで隣花と過ごしてきたから、分かる。彼女は淡々とした調子の奥底に、自分自身にも制御できないくらいの感情を持っている。
ならそれを、思う存分発揮してもらいたいのだ。上手いとか下手とか、出来るとか出来ないとか関係なく、そんなこの同い年と共に同じステージに立ちたかった。
これは自分のワガママなのだと思う。
冷徹で打算的な見通しよりも、もっと奥底にある、自分自身の願いだ。
「やりたいんだったら我慢してるんじゃねえよ。同じ我慢をするんだったら、やれないことよりも、やって上手くいかないしんどさを我慢する道を選べよ。そういう本気で真剣にやってるおまえと、俺は一緒にやりたいんだ、ああもう言わせんな馬鹿野郎!」
そういう片柳隣花のことが、自分は好きなのだ。
冷静で論理的で、こっちが吹けなかった楽器を軽々と吹いて、たまにブチ切れるときのある同い年。
最初の印象が悪かったからこそ、彼女とはこうして話せるようになったのだと思う。
だから隣花が今回のことでらしくない行動をするのが、我慢できなかったのだ。彼女が自身を軽く扱うことが、どうしても許せなかった。
だったらこっちが、踏み込んでいってやる。
そうして出たのが、今の叫びだったが――隣花は。
その言葉を聞いて、ぽろぽろと涙を流し始めた。
「え……」
「あ……。あれ?」
突然のことに、鍵太郎も、そして隣花自身もうろたえる。
拭っても拭っても、涙が止まる様子はない。そんな初めて見る同い年に、慌てて声をかける。
「ご、ごめ……え、あ、えっと、ごめん、片柳。俺、強く言い過ぎたか……?」
「ちが、う。大丈夫。ごめん。平気。あの、私も、なんて言っていいか分からないんだけど……」
たぶん、と彼女は前置きして言う。
「はじめ、て、言われた、から。できる、できない、関係なくて……それでもいいんだ、って、いうの」
「……」
「いま、まで、ずっと、できないと、怒られてきた、から。そんな風に、ちゃんと言われたこと、なくて。だから。びっくりした、というか……何? この感じ、は」
まだ止まらない涙と、あふれてくる知らない感情に困惑する隣花は。
きっとこれまで誰にも、助けられたことがなかったのだと思う。
助けられたことがないから、「助けて」とも言えなかった。
そんな選択肢すら思い浮かばなかった。それによってもたらされる感情が、どんなものなのかも知らなかった。
自分の気持ちが分からない。
かねてからそう言っていたこの不器用な同い年は、どんな言葉をかければ泣き止んでくれるのか。
そんな風にして鍵太郎があわあわしていると、見るに見かねたのだろう。
本町が苦笑しつつ、「あのな、片柳」と言ってくる。
「そういうときは、『嬉しい』って言えばいいんだ」
「……そうなん、ですか?」
「そうだよ。嬉しいときだって涙は出てくるもんだ。はい、ティッシュ」
「……う」
差し出されたティッシュを隣花は素直に受け取って、そしてぢー、と鼻をかむ。
それでも流れ出すものは止まらない。しばらくは、この作業が続くことになるだろう。最後の最後までこの先生には助けられた――そう思って、鍵太郎は本町に言う。
「……ありがとうございました、先生。おかげで、本当に収まるべきところに収まった気がします」
「ま、ざっとこんなもんよ――とカッコつけてえところだが、流石にアタシも、今回ばかりはしんどかったわ。あー、帰って日本酒飲みてえ」
肩肘張らずそう返してくれる先生に、こちらも力が抜けて笑いがもれる。
そのついでに、こちらも思っていたことがあって――そんな心の奥底で考えていたことを、鍵太郎は本町に話すことにした。
「……あの、先生」
「んー?」
「上欠さんのことなんですけど、俺、ずっと思ってたことがあるんです」
一年の頃に突っかかって、そして今もたぶん言い争う自信のある、そんな強豪校の先生。
先日、その人に会ってきただろう先生に、鍵太郎は言う。
「……あの人のこと、俺はまだ嫌いです。あのときのことを思い出すだけでムカつくし、許せる気にもならない。同じ空間にも居たくありません。――けど」
だけど、と思う。
絶対に相容れないし、理解しようとも思わないけれど。
それでも。
「……今回の一件がうまくいったのは、あの人を一回相手にしてるからかもしれない、って思って。ものすごく理不尽な人がいて、こっちの言うことをまるで聞き入れない人がいて――そんな人間がいるって知ってたから、とことんまで対策して片柳を助けられたのかな、って」
隣花の母親も、方向性は違うが人の話を聞き入れないということに関しては、似たような大人だったのだ。
なら、あのときの悔しさがあったからこそ、今日は結果を出すことができたのではないか。
あまり積極的に認めたくはないが――本当に癪ではあるのだが、そんな気がしていた。
「だから、あいつのおかげで、これができたなら――もう二度と、会いたくはないですけど、でも……」
「……でも?」
「……存在くらいは許してやってもいいかな、って、そんなことを思うんです」
目を逸らして、そう口にすれば。
本町はそんなこちらを指差して、大爆笑してきた。
だから、あまり言いたくなかったのだ。けれど、この機会を逃したらたぶん一生、口にすることはなかったのだろうとも思う。
それはそれで、あいつのせいでモヤモヤして嫌だった。なのでここで吐き出すことにしたわけだが――すると先生はひとしきり笑った後、いつもの人の悪い笑みを浮かべて言ってくる。
「片柳も片柳だが、おまえも大概だな。自分の感情が分からないし、認めたくもないってか。この不器用コンビめ」
「ほっといてください。あと俺が不器用なのは、物理です。手先だけです。一緒にしないでください」
「一緒だよ、このガキめらが」
そう言うと、本町はまだ泣いている隣花と膨れるこちらを見て、おかしそうに笑った。
この間、この先生は県の吹奏楽部の集まりで、上欠が手ひどい扱いをされるだろうと言っていた。
県内トップの強豪校の威を笠に着て、横暴な言動を繰り返していたのだ。それはどうしようもなく、自業自得で因果応報なのだろうとも思う。
けれども――それでも。
その話を聞いて、ほんの少しだけ可哀想だな、と思ってしまう自分もいたのだ。
その感情にだけは、素直でありたかった。決して、あいつに対して温情をかけたとか、そういうことではない。
彼の強豪校のやり方を、認めたわけではないのだ。そう思っていると――本町は笑いすぎて元気になったのか、「よし!」と手を叩いて立ち上がる。
「ま、これで本当の解決かね。よっしゃ、どうなることかと思ったけど、これでコンクールに向けてやっていけそうだ。楽譜も届いたしな」
「あ、来たんですね。『プリマヴェーラ』」
「ああ。もうちょいしたら配るから、音楽室で待ってろ」
そう言って部屋を出ていく先生を、鍵太郎は見送った。
そして後には、ティッシュを持った隣花と、自分だけが残される。
同い年はようやく、涙が止まったらしい。表情もいつもの落ち着いたものに戻っている。
少しだけ赤くなっている目だけは、隠しようもないけれども。そんな同い年に、鍵太郎は声をかけた。
「……大丈夫か?」
「大丈夫。いける」
口調も元の平坦なもので、それにほっと一息つきつつも、少しだけ残念だと思わなくもない。
彼女の感情は、やはり普段は常人より低い温度に設定されてしまっている。
けれど、それはこれから取り戻していけばいいのだ。そう思い直して、鍵太郎は「そうか」とうなずいた。
音楽室では部員たちが、特に同い年たちがこの面談の結果を心配して待っているはずだ。
だったら早く、二人で戻ろう。
そうして、またみんなで楽器を吹こう――そう考えて、部屋を出ようとすると。
隣花が、それを制止した。
「あ。ちょっと待って、湊」
「なんだ?」
「ええと。戻る前に、言いたいことがあって」
そう言って、その肝心の『言いたいこと』がうまく形にできなかったのだろう。
ええと、と再び口にする同い年を、鍵太郎は見守った。これは不器用な彼女なりに感情を伝えようとする、最初の一歩だ。
だったらいくらでも、こちらは待つ。
すると、言うことが決まったのか、隣花はこちらを真っすぐに向いて――ほのかに微笑んで言う。
「ありがとう。力になってくれて、嬉しかった」
その言葉に、何も返せずにいると。
隣花は不思議そうに首を傾げて、訊いてくる。
「……湊?」
「いや……あの……」
――綺麗すぎて、何も言えなかった。
そう正直な感想を吐露することができず、たじろぐことしかできない。元々彼女は可愛いというより、美人といった顔立ちをしている。
そんなのに不意打ちをされたら、こんな反応にもなるだろう。あ、そう考えると確かに俺も、不器用なのかもしれない――などと、考えつつ。
鍵太郎はゴホンと咳払いし、気を取り直して隣花に言う。
「……よかった。おまえが戻ってきてくれて。じゃあ――行こうか。音楽室」
「……うん」
やっとのことで、それだけ言うと――きっとそれだけでも、よかったのだろう。
同い年はまた嬉しそうに微笑んで、綺麗に静かに、こちらの言葉にうなずいてきた。




