頂に向かえ
※主な登場人物
・湊鍵太郎…二年生。吹奏楽部部長。
・千渡光莉…二年生。副部長。トランペット担当。
『それ』は、これまでの全ての歩みを詰め込んだような曲だった。
穏やかで、やりきれなかった日々も。
争いの中であがき続けた日々も。
だからこそ、最後のコンクールには相応しく――
そしていつも通り、誰かの協力がなければできない曲でもあった。
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「なあ千渡。ちょっといいか」
その日の部活が終わった後。
湊鍵太郎は同い年の千渡光莉に、そう声をかけていた。
彼女が副部長だから――という理由以上に。
この曲についてはまずこの同い年に、真っ先に相談しなければならなかったからだ。
「何?」と振り返る光莉に、鍵太郎は続ける。
「今度のコンクールの、曲のことなんだけど」
「……それはこの間、もう少し考えようって話になったじゃない」
「まあ、そうなんだけどさ。けど、やりたいのをもう見つけちゃって」
困ったように笑って言うと、彼女は少し戸惑った様子で「……そう」とうなずいた。
いつも強気なこの同い年が、そんな態度を取るのも無理はない。
なにしろ、次が自分たちにとっては最後のコンクールだ。慎重になる気持ちも分かる。
けれど、それに値する曲を見つけてしまった今は――踏み出さなくてはならない。
そんな覚悟を鍵太郎が決めると、光莉は訊いてくる。
「で、なんて曲?」
「『プリマヴェーラ』」
手短に曲名を答えて、持ってきた音源を再生する。
色々説明するより、実際に聞いてもらった方が早い。
彼女と話したいことは――その曲の、一番最初の部分にあるのだから。
そう思っていると、流れ始めた音たちを聞いて、光莉がつぶやく。
「……綺麗ね」
それは、どことなく朝靄が掛かる、清々しい高山を連想させるハーモニーだった。
目覚め前のように穏やかな光に、浄化されていく空気。
そう、綺麗だと鍵太郎も思う。
だが問題は、その後なのだ。
そびえ立つ山々の頂から、遠くへ歌うように吹く、そのメロディーは――
「……これ、トランペットソロ……!?」
「そうだ」
「やだ……!」
紛れもない彼女の楽器の華、ソロで。
そこで光莉はもはや、反射的といってもいいくらいの早さで耳を塞いでいた。
中学最後のコンクールのソロで、ミスをしたという彼女にとって、これはそのトラウマをえぐるものでしかない。
まして光莉は、ずっとそのことを引きずっていたのだ。
なのにまた、同じ舞台で同じことをやろうというのだから、そう言いたくもなるだろう。
けれど――
「今のおまえなら、できると思うんだよ、千渡」
これまで、光莉と一緒に歩んできた道程を振り返って、鍵太郎はそう口にした。
怯えて震える同い年に、そういえば一年のコンクールのときも、似たようなことを言ったなと思う。
あのときの自分は、初心者で何も知らなくて。
とにかく必死で、何でもいいから思いつくままに彼女に声をかけることしかできなかった。
けれど、今は違う。
「……俺はさ。おまえがこんな風に吹けるようになったらいいなって、そう思ったんだ」
自分も、この同い年も。
この二年間で色々なものを見て、様々な人と会ってきた。
だったら、傷しかなかったあの頃と違って、他にも持っているものがあるはずだ。
ここに至るまでに光莉自身が得てきた――大切なものが、あるはずなのだ。
「コンクールでやったことはコンクールで返せ、なんてそんなことを言うつもりは、俺にはない。だってそれは、嫌なことをずっと見ているのと同じだから。
だから今度はそういうんじゃなくて――この部に入ってからあったことと一緒に、おまえにはこんな風に自由に、吹いてほしいんだ」
ここに来るまでにあったのは、確かに決していいことばかりではなかった。
気に入らないこともあったし、心無い言葉に傷つくこともあった。
けれど絶対に、それだけではなかったはずだ。
「友達が増えて。知らない考え方を知って。遊園地に行ったら、耳をつけるくらいにはしゃいで。他の学校のやつと張り合おうってくらいになって」
少しだけ、誰かと話せるようになって。
少しだけ、自分のことを見られるようになって。
そんな小さなことを積み重ねた、『綺麗なもの』の頂で。
彼女が堂々と、自分の歌を歌うことができたなら――
「そんなお前がこれを吹けたなら、これまで俺たちがやってきたことは、全部それでよかったんだって。最後に誰かが笑ってることができたら――これまであったことも、みんなそれでいいんじゃないかって。そう、思ったんだよ」
それは文句のつけようもない、最高のハッピーエンドになる。
最後のコンクールかもしれないけれど、その瞬間は、この上ない『たからもの』だ。
そしてそれは、同時に。
「そうしたら――それは、おまえとの約束も果たすことになるんじゃないかって。俺が支えて、他のみんなにも支えられて――そうすれば怖くない。そう言ったことも本物になるかなって……そう思ったんだ」
「……」
と、そこまで言ったところで。
それまで黙ってうつむいていた光莉が、少しだけ顔を上げた。
「……本番でちゃんと吹けるかどうかは、分からないわよ」
「それでもいい。もし、そうなったとしても――俺はおまえにこれを吹いてもらいたい。そう思ってる」
「ふざけないで! 次は最後のコンクールなの!」
不安げな同い年を勇気づけるつもりで、正直な気持ちを伝えれば――彼女はむしろ激昂して、こちらに怒鳴り返してくる。
「私は、今度こそ失敗したくない! みんなの迷惑になりたくないの! これができたら、今までのことがそれでよかったなんてあんたは言うけど――だったらなおのこと、絶対外せない。外すことなんてできない! 私は他の人たちが今までやってきたことを、台無しになんてしたくないのよ!」
できなくてもいいなんて、そんな甘っちょろいこと言ってるんじゃないわよ――! と、そう叫ぶ光莉は、これまでこういう話をしてきたときの、泣きそうな顔をしていて。
だからこそ、彼女が本気でそう言っているのだと、鍵太郎はすぐに分かった。
けれど、だとするならば――
「……なあ、千渡。おまえさ、『失敗したら他の人に責められるから嫌だ』って……言わなくなったんだな」
「……え」
それは根本的に、光莉の考え方が変わってきているということでもあって。
そのことに鍵太郎も、そして当の光莉本人も驚いて――しばらく二人は呆然と、その事実の前に立ち尽くした。
かつてこの同い年は、ミスをしたら周りから白い目で見られるのが嫌だ、と言っていたはずなのだ。
自分を責める声が止まない、とも。
なので、てっきりそれが原因で、今回も拒絶反応を起こしているのだと思っていたが――
今はもう、違う。
「……もうおまえ、分かってるんじゃないか。みんなおまえを責めないって」
本当に怖いのは、周りの期待に応えられないかもしれない、自分自身。
それは裏返せば、その不安の大きさの分だけ、彼女が他の人間のことを大切に思っているということでもある。
その不安と緊張は、大事にするといいよ。
それがきみを、もっと広いところに連れていってくれる――そうあの指揮者の先生が言っていたことを思い出しつつ、鍵太郎は言う。
「ほら。やっぱりおまえ、もう知ってるんだろ。楽しいことがあったって。辛かったこと以上に、大切なものがあったって。だったら、もういいよ。それと一緒に吹こう。今度こそ大丈夫だ」
光莉が中学のときにソロを吹けなくなったのは、その責任を果たそうとするあまりに、自分一人のことしか見えなくなっていたからだ。
誰かと一緒に、吹くことができなかった。
けれど、今の彼女はそうではない。そのことに気づいたのだろう。
光莉は「あ……」とつぶやいて、自分の手を見つめる。
「でき、る……の?」
「できる。ここまで来れたお前なら、きっとできる」
『これ』は、これまでの全ての歩みを詰め込んだような曲だ。
穏やかで、やりきれなかった日々も。
争いの中であがき続けた日々も。
だからこそ、最後のコンクールには相応しく――
そしていつも通り、誰かの協力がなければできない曲でもあった。
その光莉はもう、自分以外の人間がいることを知っている。
その人たちに、渡されてきたものがあることを知っている。
「大丈夫。みんなついてる」
そう言うと、同い年は自分の手にいきなり現れたものを、どう扱っていいか分からないといった顔をしたので。
鍵太郎はもう一つ、その『自分以外の誰か』として、光莉に言葉をかけることにした。
「俺もついてる」
「……うん」
そう言うと、彼女は小さくうなずいて。
その手の中にあるものに、そのままそっと手を伸ばす。
始まりは、こんな風にごく些細なものだった。
こうやって、少しずつ誰かと話せるようになって。
少しずつ、自分のこと見られるようになって。
そうやって、手の中にある、小さな『綺麗なもの』を積み重ねた頂で――
「好きに吹けよ千渡。俺が支えててやるから」
目覚め前のように穏やかな光に、浄化されていく空気。
その中で――彼女が本当に自分の声で、歌えることを願う。
《参考音源》
「プリマヴェーラ」~美しき山の息吹
https://www.youtube.com/watch?v=nQyDUX8Tqwo




