主よ、誰かの望みに喜びを
※主な登場人物
・湊鍵太郎…二年生。部長。
・宮本朝実…一年生。バリトンサックス担当。
「ほえー。卒業式で演奏をするんですか」
湊鍵太郎が楽譜を渡すと、一年生の宮本朝実はそれをしげしげと眺めてそう言った。
『主よ、人の望みの喜びよ』――。
卒業式で三年生が入場する際、吹奏楽部が演奏する曲だ。
合同バンドがあって準備をするのが遅くなってしまったが、今のこのメンバーならそこまで心配する必要もないだろう。
そう思い、鍵太郎は朝実にうなずく。
「そう。卒業生が全員着席し終わるまで、この曲をずっと繰り返すんだ。去年は、二回目の途中まで吹いたかな? 体育館の二階でやることになってる。終わった後はマットに寝転がっててもバレないから、演奏さえやっちゃえば式はすごい楽だよ」
と。
鍵太郎に教えてくれた、あのうっかりでぽっちゃりな先輩は、卒業式をもってこの学校からいなくなる。
その他にも、地味で目立たないのに狙撃手のように音を射抜いてくる、あのトランペットの先輩や。
氷の中に炎を持った、フルートの先輩。
こんな個性的な部員たちを、あの小さな身体で背負っていた、打楽器の前部長。
そして――
「そっか……高久先輩も卒業しちゃうんですね。さみしいです」
「……そうだね」
自分をここまで引っ張ってきてくれた、あの第二の師匠も。
みんなみんな、正真正銘この学校からいなくなるのだ。
これまでは引退しても、どこかで同じ校舎にいるのだからという意識があったが――こうやって改めて別れの機会を突きつけられると、感傷的な気持ちにもなる。
去年のように泣きそうになるようなことは、もうないだろうけど。
それでも色々あった分、二つ上の先輩たちとはまた違った複雑な感情が、あの人たちに対してあるのは確かだった。
けれども鍵太郎はあえて、かつてその先輩に言われたことと、同じことを後輩に言う。
「先輩たちが聞いて『こんな演奏じゃおちおち卒業もできない!』って思われないように、がんばろうね、宮本さん」
「はーい!」
そんな風に元気に応えてくれる後輩に、少しだけ救われて。
鍵太郎はふっと頬を緩め、「じゃあ、そうしようか」と自分に言い聞かせるように呟いた。
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あの耳の肥えた手厳しい先輩たちに、指摘されないくらいの演奏となると、なかなか難しいだろうけど。
「よーしおまえら、まずは一発やってみんぞー」
顧問の先生は去年と変わらず、いつもの調子で部員たちにそう言い渡した。
毎年やっているからというのもあるだろうけど、この先生は特に、動揺する様子もなく指揮を振る。
この人ならきっと、一年ごとにいなくなっていく生徒たちに、何も感じていないということはないだろうけれど。
それを表に出さずにやるべきことをやるのは、とても難しいことなのではないか。
ならこうやって吹けば、先輩たちは喜んでくれるのだろうか――
そんなことを考えながら、鍵太郎は指揮棒に従って音を出し始めた。
去年よりスムーズに曲を進めていけるのは、皮肉なことに散々にワガママを言ってくれた、あの人たちのおかげでもある。
彼女たちが自分の望みを叶えるために、こっちは何度も説教され弄ばれ、挙げ句の果てには期待されて。
そうやって何重にも鋼のように鍛えられ、身についた技術が――今もこうして、音の中で息づいているのだ。
嫌いなわけではなくて、でも正面切って好きだと言うには、どうにも迷惑をかけられすぎているように思えて。
素直に卒業おめでとうございますと口にできないのは、それだけ長くて濃い時間を、あの人たちと過ごしてきたからなのだろう。
喜びも悲しみも怒りも楽しさも、何度も何度も彼女たちとは共有してきた。
それだけの思いがあるから、やはり今年も心の整理が必要なのかもしれない。
ああそうだ、あのメッセージを書く色紙は、やはり自分が用意しなければならないのだろうか、と――
一年前には想像もしなかった自らの立場を、鍵太郎はふと思い出した。
卒業生に贈る言葉を、後輩たちが綴るための色紙。
彼女たちと渡り合ったことで、自分は結果的に部長に祭り上げられてしまった。
そう思うと、喜んでいいやら悲しんでいいやら、やっぱり複雑で――よくもやってくれたなという気持ちと、感謝したい気持ちが入り混じってくる。
それでも先ほど後輩が言ったように、どこかで別れを悲しく感じているのは、あの人たちが去年卒業した先輩たちとはまた違う意味で大切な人たちだからだ。
けれどもその本音を、まだ書きたくはなかった。
いや、むしろ書かなくていいのかもしれない。いつまでも彼女たちとは、そのくらいの距離感でいいのではないかとすら思う。
だってあの人たちは、自分の望みすら分からなくなるほど目の前のことに打ち込んで、そんな職人肌の人たちばかりで。
今さらそんな言葉にしたって、戸惑うことはあっても嬉しがることなんてないのではとすら思うのだ。
なら本番でこの曲をきちんと吹くことこそが、何よりの恩返しなのではないか。
それが彼女たちの望みなのではないか、というくらいで――
『主よ、人の望みの喜びよ』。
そのタイトルの意味は分からない。
去年は調べる余裕などなかった。
けれど今年はそれを手がかりにすれば、また違った演奏ができるのではないか。
そんなことを考えながら――鍵太郎は、曲を吹き進めていった。
彼女たちの本当の望みなんて、自分には全く分からない。
だがせめてそうすることが、あの先輩たちの喜びに繋がるのではないか、と――
それが自らの望みであると、そこだけははっきりと、自覚できたからだ。
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「ほえぇ。なるほど、寄せ書きもやるんですね」
合奏が終わった後、鍵太郎は朝実に、卒業生に色紙を渡すことも説明していた。
去年はどういったデザインの色紙だったろうか。記憶を辿るも思い出せない。
というか、あれは本当に部長が用意するものなのだろうか。その辺りは先生に訊いてみようと思いつつ、後輩に言う。
「うん。部活のみんなで、先輩たちひとりひとりにメッセージを書くんだ。で、卒業式の日に渡すんだよ」
かつての自分は、何を書こうか相当に悩んだものだが。
そういえば、朝実はどんなことを書くのだろうか。
ふと気になって鍵太郎は、「宮本さんは先輩たちに、何を書くの?」と尋ねてみた。
この後輩のことだ、あけすけに物を言うだろうけど、それ故に何かとんでもないことを書かないかちょっと心配になる。
先に聞いておいた方が安全だ。それかもし考えていないのなら、一緒に考えるなり去年はこんなことをみんな書いてたと言うなり、背中を押しておいた方がいいだろう。
そう考えていると、問われた朝実は「うーん、そうですねえ」と首を傾げ。
しばし間を置いた後に、あっさりと自らの望みを口にする。
「とりあえず高久先輩には、『先輩を見習って、わたしもっと上手くなります!』って書きますね!」
「……」
そんな、後輩の返答に。
鍵太郎は今度こそ、非常に複雑な気持ちで沈黙した。
『それ』は――去年こちらがだいぶ迷って、かなりの時間をかけて出した答えだったはずなのだが。
あのぽっちゃり先輩といい朝実といい、どうしてこの部の女性たちはみな、一足飛びで結論に辿り着いてしまうのか。
頭を押さえていると、その当の後輩は至って不思議そうに訊いてくる。
「あれ? 先輩どうしたんですか? そんな何かを羨むような顔をして」
「いや、いい、いいんだ……。少なくとも宮本さんも、先輩たちの因子を受け継いでるってことは、よく分かったから……」
「はあ。相変わらず先輩は、何を訳の分からないこと言ってるんですか? 気持ち悪いですねえ」
「はは、は……」
喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。
出会ったときから変わらない、でも確実に成長している朝実に対して、こちらとしては笑うしかない。
であれば、自分だって成長していると信じたいところではあるが――果たして。
「まあ、今年は今年で……俺なりにがんばります」
しかしそこは考えると余計に辛くなりそうだったので、鍵太郎は苦笑して頭を振り、そう呟いた。
先輩たちに宣言するように、自分に言い聞かせるように。
そして自らの望みを――誰もが喜ばしい形で、叶えるために。
《参考音源》(描写は途中まで)
Jesus, Joy of Man's Desiring (主よ,人の望みの喜びよ)
https://www.youtube.com/watch?v=drM6rXj7bqQ




