不器用な答え合わせ
※主な登場人物(全員二年生)
・湊鍵太郎…川連二高吹奏楽部、部長。
・片柳隣花…同吹奏楽部、ホルン担当。
・柳橋葵…薗部高校吹奏楽部、部長。
「ううー、ついにこの日が来てしまいましたっ……!」
湊鍵太郎の前で緊張を滲ませてそう言ったのは、合同バンドの相手先の部長、柳橋葵だった。
今日はこれから、オーディションに応募するための動画を撮影することになっている。
場所は、お互いの学校近くのホール。
客席には誰もいないとはいえ、実質的には画面向こうで審査される、本番となる。
そう考えると、コンクールに近い張り詰めようになるのも無理もない話だった。周りの他の部員たちも、深呼吸を繰り返したり辺りをうろうろしたりと、昂ぶりを抑えられない様子だ。
鍵太郎も、いつもより少し早くなっている鼓動を意識して、自分に言い聞かせるように葵に声をかける。
「大丈夫ですよ、柳橋さん。これまで俺たち、結構がんばってきたじゃないですか。だから、そんなに心配することないですよ」
「……湊さん」
他校の部長はそこで束の間、安心した顔を見せたが――しかし、すぐにその表情は曇る。
どうしたんだろうと鍵太郎が思っていると、葵は苦笑して首を振った。
「……すみません。きっと私も、大丈夫だろうと思ってるんですけど……何だか、どうしても不安が拭えなくて。きっと、平気なんです。最初はどうなることかと思ったけど、どうにかなって。やっとここまで、やってこられて。それが楽しくて、幸せで」
でも、と彼女は戸惑ったように眉を寄せる。
「だからこそ……こんな楽しくて大丈夫なのかな、って思っちゃって」
「……」
かすかに震える手を持ち上げ、それを見つめながら葵は言う。
「手応えは、あるんです。問題は色々あったけど、それも解決して……先生たちも太鼓判を押してくれて。けど――幸せだからこそ、怖くなっちゃって。これで本当に大丈夫なのかな、私たちはもっと……苦労しなくちゃいけないんじゃないか、って」
「……柳橋さん」
それは彼女が、それまでコンクール前に経験してきた、感情でもあるのだろう。
大変な思いをしなければ、いい結果は出せない。
それは確かに、そうかもしれないけど――
「辛い思いをしなくちゃいけないなんて、そんなこと絶対ないですよ」
だからといって、自分からわざと不幸を背負い込むことなんてないのだ。
そこだけは断固たる確信を持って、鍵太郎は言い切った。
結果を得るためには誰もが追い詰められなきゃいけないなんて、それこそ目的と手段が入れ替わっている。
特に今回のような、テーマパークで演奏するためのものであるなら尚更だ。
苦しんだ分だけいい思いができるなんて考え方は、自分たちの立つ場所を、どんどん狭くしていくようなものでしかない。
だったらそれよりも先に、やらなければならないことがある。
「俺たちはこれから、見てる人を楽しませるために演奏をするんです。なら、そんな顔しないでください。今までやってきたことを、思い出して。楽しかった気持ちを忘れないで。ずっとは無理かもしれないけれど――せめて、本番の間だけは。やれることを、やりましょう」
「……はいっ」
そんな、こちらの言葉に。
心細そうにしていた葵は、ようやくいつものように笑ってくれた。
少し目が潤んでいるのは、それだけ彼女が真剣に、今日の本番のことを考えていたからだろう。
大切だから不安になる。
幸せだから怖くなる。
部長なのだから当然だ。
それだけ本気でこの舞台のことを考えられるからこそ、彼女はその役職を任せられたのだろうから。
こんな風に言っている自分だって、その重圧を感じてないといえば、嘘になるわけで――
だからこそ、葵の気持ちはよく分かるのだ。同じ学校の部員に呼ばれて、ぺこりと一礼して去っていく彼女の後ろ姿を見つめながら、鍵太郎はそんなことを思っていた。
と――
「……っ」
胃の辺りに、重い痛みが走る。
思わずそこを押さえて、鍵太郎はなんだ、やっぱり自分も一緒じゃないかと自嘲気味に笑った。
偉そうなことを言っておきながら、結局のところはこちらだって同じことで悩んでいる。
ギリ、ギリ、と悲鳴をあげる身体を押さえ、息をつく。少し休んでいれば、本番までには落ち着くだろう。
とにかく、今日一日持てばいい。
そんなことを考えて、人目につかないところに行こうとすると――
「……本当に。身内だと思った相手には、とことん甘いのね。あんたは」
心底呆れたように片柳隣花が、こちらに話しかけてきた。
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その視線を受け、鍵太郎は苦笑いで隣花に応じる。
「……バレてたか」
「バレるも何も。日頃の行いを見てれば、すぐに察しがつくでしょう。そんなこと」
まして、私はあの日から、ずっとあんたのことを見てたわけだし――と。
ため息をついて同い年は、再度呆れたように言った。
彼女の言う『あの日』とは、この合同バンドを組むと決めた、遊園地に行ったあの日のことだろう。
しかしあれ以来ずっと――ということは。
「そうか。じゃあ俺はあのときから、おまえに試されてたのか」
つまり彼女は、こちらの主張が正しいのかどうか、量り続けていたということでもある。
道理でこの同い年が、自分のことをよく知っているはずだ。
進路相談をしたときもそうだったが、彼女は妙にこちらの内面を分析し過ぎていた。
それは隣花が、こちらの主張が信用するに足るかどうか、検証を重ねていたからだ。
そして自分があの日、彼女に何を言ったかといえば――
「で、答えは出たのか? 俺のやり方じゃやっぱり、コンクールは難しいか」
楽しく金賞を取りたい。
それが難しいのではないか、とあのときテーマパークで口にした隣花は――この本番前にようやく、判決を下したのだろう。
だからこうして、自分の前に現れたのだ。
鍵太郎はそう、考えたのだが。
意外なことに同い年は、僅かに首を傾げてぽつりとこぼす。
「……分からない」
そう言った隣花は、遊園地で一緒に湖を見た、あのときと同じ顔をしていた。
他の部員たちがはしゃぐ中で、不思議そうに辺りを見回していた、あのときと。
「あれから色々見て。考えたけど。どれが正しいのかはやっぱり、分からない。『楽しい』っていうことがどういうことかも……よく、分からないの」
「……そうか」
自分と同じくらい、不器用で。
自分と同じくらいに考えすぎる癖のある同い年へと、鍵太郎は笑ってそう返した。
あれから色々やってきたけれど。
あの日あの場所で話したときと、自分たちは大して変わっていないのかもしれない。
「……俺は、さ。今回はなるべく楽しく、雰囲気が悪くならないように、結構気を遣ってやってきたつもりだったんだ」
だからこそ、そんな隣花へと鍵太郎は、今の心境を正直に告白する。
「それがオーディションの合格に繋がるって思ってたから。いや……それ以上に、みんなにそう思いながら演奏してほしかったから」
今年のコンクールがあんなことになったからこそ、今度は最初からそうやったらどうなるか、結果を見てみたかったというのは、ある。
先ほどの他校の部長ではないが、楽しいと感じるのも当然なのだ。
そうなるように気を遣ってやっていたのだから。
このやり方で全員が幸せになれるのかどうかを考えながら――それで本当に大丈夫なのか、どこかに疑問に感じつつ。
疲労とストレスを甘いもので誤魔化して、何とかここまでやってきた。
けれども、それも土壇場で限界を迎えてしまったらしい。
本番前に許容量を超えて痛む胃を押さえつつ、鍵太郎は隣花へと笑いかける。
「言い出しっぺだからな。それなりに責任取らなきゃって思ってたのはあるよ」
「……あのときの言葉。もう一回言うわ。だからってあんたが、嫌なことを全部、背負い込むことないでしょうに」
その顔を見た彼女は鋭く目を細めて、怒ったように言った。
「部長だからだとか。言い出しっぺだからだとか。そんなのは全部、あんたがそんな顔をする理由にはならない。ああ。他の言葉もそっくりそのまま返すわ――あんたが笑ってないのが、まずおかしいのよ。そんなんでオーディションに合格するなんて思ってることが、そもそもの間違い」
「片柳……」
手厳しい、と言えば手厳しく。
それ故に、優しさがなければ決してなかったであろう隣花の答え合わせに、鍵太郎は思わず同い年を見返した。
彼女の心は、静かな水面のように見せかけてその実、秘めている感情は海よりも深い。
いっそ激情と言ってもいいくらいだ。それはこうして話すようになってから、よく分かっていた。
だからこそ隣花は、こちらに対して容赦なく真剣に、言葉を投げつけてくる。
「『楽しくやる』っていうことは分からない。けどあんたのその態度が違うってことは、なんでか知らないけど、はっきりと分かる。だったらまず、そこから改めなさい。誰かを楽しませるんだったら――まず、あんたが笑いなさいよ。話はそこからでしょう」
「……どうやって?」
「ああ。もう、まどろっこしい……! さっきあんた自身が言ってたでしょうが」
「――俺が」
言っていたのは。
不安げな他校の部長にかけた言葉は――
「『今までやってきたことを、思い出して。楽しかった気持ちを忘れないで』」
「……」
ほんの数分前に自分自身の口から発したはずのセリフを、鍵太郎はまるで初めて耳にしたような心地で聞いていた。
呆気に取られるこちらに対して、先ほど葵が去っていった方角を見ながら、同い年は続ける。
「……そうね。私もこれで、本当に大丈夫なのかなと思ってる」
本番直前の舞台裏で。
鍵太郎に隣花は、静かにそう言った。
本来ならそんな思いを、部長がこんなときに抱くものではないはずだ。
もっと自信満々に、絶対に大丈夫だなどと言って、周りを元気づけるべきなのだろう。
けれどそれが、どこか嘘くさいものであるともう、彼女は知ってしまっている。
だから。
「でも。私だって、ここに来るまで何もしてなかったわけじゃない。今まで知らなかったことを知って。できなかったことが、できるようになって。こうやって……頭の上で、手が叩けるようになって」
隣花はそう言って、やはりまだどこがぎこちないながらも、手を叩いた。
その姿に、思い出す。
あの日から今日まで見てきたものを。
小さな声でそれでも、自分の好きな楽器を吹きたいと言った、他校の生徒のことを。
鏡合わせのようにぶつかって、しかし今は隣同士で音を出し合っている、トランペットの二人のことを。
そんなものは不可能だと言いつつ、それでもやってみればいいと言った、生徒会長のことを。
そして――
「『楽しい』ってことは。相変わらず、よく分からないけれど……そのときに感じた、この不思議な気持ちが、『そう』なのかも、って言ったら――あんたは、笑ってくれるのかしら」
目の前で、ずっと必死でこちらの言うことを理解しようとしてくれていた、この同い年のことを。
彼女たちと話しているとき、自分はこんなプレッシャーなど感じずに、笑っていたはずなのだ。
そんなこと気にならないくらい楽しくて――その中で、確かに自分は笑っていたはずなのだ。
「……ああ」
そのことを自覚した瞬間、身体の中心にあった痛みがスッと和らいでいったことに、鍵太郎は驚いた。
大切だから不安になる。
幸せだから怖くなる。
部長なのだから当然だ。
それだけ本気でこの舞台のことを考えられると、とっくの昔に、彼女に判断されていたからこそ。
自分はこうして、この役職を任せられたのだろうから。
そしてそのことを論理で上手く説明できない隣花は、叩いた手を震えさせ、唇を噛みしめて。
それでも愚直に、言葉を紡ぐ。
「……これが認められないんじゃないかとか。考えて怖くないと訊かれれば嘘になる。けれども、それで十全のパフォーマンスを発揮できなかったのなら、今まで私がやってきたことは、何だったの。あんなに恥ずかしい思いをして。こんな理解できないことを、よく分からないまましゃべらなくちゃならない――私の気持ちは、一体、何だったのよ」
「もういいよ。心配かけてごめんな、片柳」
段々と興奮してきたのか、言っていることが支離滅裂になってきた同い年のことを、鍵太郎は穏やかに制止した。
大切だから、守りたい。
幸せだから、舞台に立てる。
そしてこれもまた、楽しい思い出のひとつなのだと、心に刻み付けて――
鍵太郎は、自分と同じく不器用な彼女へと、笑いかける。
「ありがとう、片柳。もう大丈夫だ。おかげで大事なことを思い出せた」
そうするための力は、これまでの『楽しいこと』が、与えてくれた。
隣花はそんなこちらの顔を見て、一瞬きょとんとしたものの――「……分かってくれたのなら。いい」と頷いて、すぐいつもの調子に戻る。
「よし、じゃあ行こうか」
話しているうちに瞬く間に時間は過ぎてしまって、休む暇もなくそろそろ準備をしなければならなくなってしまった。
でも、それでいいのだと思う。
あれから色々やってきて。
あの日あの場所で話したときと、自分たちは大して変わっていないのかもしれないけれど。
「さーて、今日もとびきり愉快に、やってやりましょうかね!」
いつだって彼女たちは足踏みなんてさせてくれず、予測不能な行動で遠慮容赦なく、こちらを笑わせてくれたのだから。
ここに来るまでに楽しいことは、たくさんあって。
大丈夫かな、とも思うけれど。
この気持ちがある限り、自分たちは決して負けない。




