過去と今との接合
※主な登場人物
・柳橋葵…薗部高校吹奏楽部、部長。
・戸張櫂奈、植野沙彩…薗部高校吹奏楽部の部員たち。
・西宮るり子…同吹奏楽部、OGにして顧問。
・湊鍵太郎…川連二高吹奏楽部、部長。
・本町瑞枝…同吹奏楽部、顧問。
・城山匠…同吹奏楽部、外部講師。指揮者。
ずっとずっと――どうしてこの人とは、こんなに話が噛み合わないのだろうと思ってきた。
立場が違うからか。
経験の差があるからか。
そんな風に考えてきたけれど――結局のところは、そうではなく。
「るり子先生、お話があります」
この人と自分は根本的に『見て』いるものが違うのだと――柳橋葵は、これまでの出来事から考えるようになっていた。
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「……」
部長が走り去っていったのを見届けてから、戸張櫂奈は自分の右手を軽くにぎにぎと動かした。
先ほど自分は、あの同い年が差し出した手を掴んだわけだが――その手の感触が予想していたものと、だいぶ違っていたからだ。
あれは、一体なんだったんだろう。
そう思ってしばらく指を動かしつつ右手を眺めていると、隣にいた植野沙彩が訊いてくる。
「櫂奈ちゃん、どうしたの?」
「ああ、その……」
同い年に訊かれ、櫂奈は答える。
葵の手――特に指が、普通よりもはるかに硬かったということを。
何をすればあんな風になるのか。その疑問に、沙彩は答える。
「たぶんそれは、ピッチカートで弦を弾いてるからだよ。痛いときは人差し指と中指を使い分けるって、葵ちゃん言ってたことがある」
「つまり、楽器を弾きすぎて手にマメができたってこと……?」
あの部長の担当は吹奏楽でほぼ唯一の弦楽器、コントラバスだ。
自分の楽器では想像もつかなかったことを言われ、櫂奈は呆然とつぶやいた。
弱腰な、言ってしまえば頼りない性格である葵が、まさかさも当然のようにそんなことをやっていたとは思わなかった。
そんな部長が向かった方向を、再び見やると――櫂奈の脳裏に、そのときの葵の後ろ姿がよみがえる。
あの先生を説得してくるなんて、ついさっきまで、できるのかと心配していたけれども。
ひょっとしたら彼女になら、それは可能なのかもしれない。
「……そうなんだ。あいつ、結構がんばってたのね」
「そうだよー。特にこの合同バンドが始まってから、葵ちゃんすごくがんばってたもん」
だから大丈夫だよ、葵ちゃんなら――とのんびりと言う沙彩も、そういえばいつの間にか、今までより芯が通ったように見える。
ならば。
「……そうよね」
その手を握って、薗部高校のトランペット吹きは、真っ直ぐにステージの方に顔を向けた。
「だったら私も――こんなところで、いつまでもグズグズしてるわけにはいかないわよね」
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舞台裏にいた顧問の前に、葵は立つ。
西宮るり子。
かつての薗部高校黄金期のOGであり――今はその時の栄誉を取り戻すべく、奮闘している先生だ。
しかしだからこそ、この人が見ているものは自分たちとは、最初からズレてしまっている。
部長の真剣な声と眼差しも、果たして届いているのかどうなのか。
西宮は葵に、いつものように噛み合わない言葉を返す。
「話? それよりも、何かステージがざわついてるようだけど、それはどうなったの? そんなことで立ち止まってる場合じゃない、私たちは一刻も早く、あの頃の音を取り戻さなくちゃならないんだから」
「……そんなこと、ですか」
やはりこの先生には、『見えて』いないのだ。
その『そんなこと』の中にこそ、自分たちが求めている答えがあるということに――
そのことを改めて確認し、葵は話を続ける。
「先生。先生はこの間、向こうの学校の先生に何か見えてないものがあると言われたって、仰ってましたよね」
少し前の練習のとき、この先生にじっと顔を覗き込まれたことを思い出す。
あのときは、全く意味が分からなかったが――今なら相手の学校の先生が、どうしてそんなことを言ったのか察しはつく。
この人は――
「先生は、『今の私たち』を見てないんです」
ずっと、自分の記憶しか見ていなかったのだ。
かつての強豪校としての日々。
その時の栄光、その時の笑い声。
そして、その時の音。
それをそっくりそのまま、再現しようとしていた。
でも。
「でも、昔のことをそのままやろうとしたって、できるわけがないんです。だってその音は、先生しか知らない。私たちの誰も、もうそのときの部員とは違うんですから……」
今の薗部高校の部員たちは、決して過去にいたその部員たちではない。
なのに無理に理想に近づけようとして――口癖のように昔のことを、何度も何度も繰り返していた。
そんなこの顧問の意向を、無意識にでも鋭敏に感じ取っていたのは櫂奈だ。
あのトランペットのトップ奏者は、その責任感のまま知らないうちに、その当時の音を吹こうとして。
彼女はそれで、苦しんだ。
「先生がやろうとしていたことを、私は否定するつもりはありません。だってそれは、先生にとってすごく、すごく大切なものだったんだろうから。先生たちがいて、すごかった昔の先輩たちがいて――だから私たちがこの部活にいるっていうのは、よく分かってるつもりです……」
かつて強豪校と言われた過去の歴史がなければ、あそこまで大量の楽器が音楽準備室に並ぶことはなかったはずだ。
でなければ、沙彩がファゴットを吹くこともなかった。
あの同い年がどんなに自分の楽器が好きなのかは、先輩もいないのに自力であそこまでやってきたことからして、葵もよく知っている。
その思いと積み重ねを、捨てるつもりはない。
けれど。
「それでも――先生が『今の』私たちを見てくれなきゃ、みんな本当の自分の音を出せない」
昔の影を追いかけたままでは、誰だって自分がやりたいことはできない。
全員がまとまるには、この先生が本当に今の部員たちを『見て』くれることが必要なのだ。
「昔の薗部高校じゃなくて、目の前にいる私たちを。飾ってあるトロフィーじゃなくて、今、私たちが出す音を……聞いて、ください、るり子先生……」
ここに葵は、部長としてみんなの思いを背負って、毅然と先生に自分たちの言葉を伝えに来たつもり――だった。
でも、櫂奈の、沙彩の。
他にも今ステージで待っているであろう、自分の部活の部員たちの顔を思い浮かべると、自然と涙が溢れて止まらなくなる。
なんで、なんで私、部長なのに。
こんな弱い自分が大っ嫌いで、なんとかあの輝く水面に近づきたくて。
だから、がんばろうとしてきたのに――そんな、今とは関係ないことまでぐちゃぐちゃに流れ出してくる思考と涙を、ぬぐいながら葵が考えていると。
「……昔ね」
西宮が、遠い目でぽつりとつぶやいた。
昔――と。
こうまで言ってもまだこの人は、過去のことしか見ていないのかと、部長が絶望しそうになると。
顧問の先生は、そのまま続けてくる。
「……先生に、言われたことがあるのよ。『おまえは楽譜ばっかり見てて、その中の音楽を見ようとしねえなあ!』って」
「……」
先生の、先生。
全く知らない、けれど確かにこの人を通して繋がっているその人は、どんな人だったんだろうか――
そんな風に思っていると、西宮は懐かしむように笑い、奇しくもロビーにいる他校の外部講師が考えていたことと、同じことを口にする。
「なんだか今……それを、思い出したわ。そうね、私はあの頃から、ひょっとしたら……全然、変わってないのかもしれないわね」
「……先生」
「あーあ。せっかく母校に配属されて、張り切ってたのに。やってることは学生のときと変わらないって、どういうことかしらね、本当。まったく、我ながらどうかしてるわ」
「あの……先生?」
段々と、いつものような口調になってくる顧問を、どう判断したらいいものか分からず葵が首を傾げると。
西宮は腰に手を当てて、完全に普段の調子に戻って言ってくる。
「さあ! こんなところで泣いてる場合じゃないわよ柳橋! 私たちにはこれからもう、やることが山のようにあるんだから!」
「――るり子、先生」
「だから、泣くな! あんたは部長なの、そして私のかわいい後輩なの! こんなところで立ち止まってる場合じゃない、私はあんたたちのやりたいことに、とことんまで付き合わなきゃならないんだから!」
「……それって」
分かってくれた、ということなのだろうか。
葵が未だ頬に涙を伝わせていると、顧問の先生はその雫を乱暴にぬぐい、そのまま両頬をがっちり固定して。
目の前で真っ直ぐにこちらを『見て』、叫んでくる。
「あんたの言う通りよ! 薗部高校の栄光はまた、ここから始まるの! さあ、戻りましょう柳橋。その先頭に部長のあんたが立たなくて、誰が立つっていうの!」
その、力強い眼差しと言葉に――
「――はいっ!」
柳橋葵は、また泣きそうになりながら、力いっぱいうなずいた。
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今回の事のあらましを湊鍵太郎が大体説明し終えると、本町瑞枝と城山匠はなぜか微妙な顔をした。
「……先輩?」
「え、ええっと……なんか、今回は、アタシがすまんかった!」
「……?」
半眼で隣をジロリと見る指揮者の先生と、それを受けてダラダラと脂汗を流す、顧問の先生。
てっきり怒られるかと思ったのだが、まさかこの二人にそんな反応をされるとは思っていなかった。
大人たちには、大人たちの事情があるということなのか。
それとも、この人たちのかつてのことと今日のことが、ひょっとしたらどこかで繋がっているのか――
「……ま、まあ! それはそれとして! 練習再開といこうじゃねえか! せっかく全員が元の鞘に納まったんだ、派手にやらかしてやろうぜ!」
「……どの口が言うんですかね、それ」
そう鍵太郎は思ったが、顧問の先生に全力で邪魔されて、それ以上詮索することはできなかった。
まあ、もう休憩時間も予定をだいぶオーバーしてしまっている。そんなことをしている余裕はないし、ここでそれを追求するのは野暮というものだろう。
そう判断して鍵太郎が大人二人に突っ込まずにいると、本町がそそくさと客席へと下りていく。
「いいじゃねえか、結果よければ全てよし! さあ城山先生、指揮の方は頼んだぜ! じゃ、アタシは客席で聞いてるから!」
「……ま、いいですけどね」
じゃあ、そっちはお願いしますよ本町先生――と、言ったことからして、城山はスイッチを切り替えたのだろう。
彼は指揮棒を取り出して、傍にいた西宮にそれを差し出す。
「……振りますか?」
「いえ。私も客席で、この子たちの音をちゃんと聞いてないといけませんから」
「そう、ですね」
首を振ってそう返事をする他校の先生に、城山は苦笑して棒を引っ込める。
そしてひな壇の上では、トランペットの二人がお互いをにらみ合っていた。
「戻ってきたわね。だろうと思ってたわよ」
「……言っとくけど、今の私、さっきまでの私じゃないから」
「分かってる」
うなずくこちらの学校の副部長に、櫂奈は怒っているのか困っているのか、そんな複雑な表情になる。
しかしそれでも彼女は楽器を拾い上げ、自分の席に座った。
「……薗部高校のトップは、私。けど川連二高のトップはあんた。それはそれで――お互いに、やり合っていこうじゃないの」
「望むところよ」
あんたのことはやっぱり嫌いだけど。
ようやくこれで『一緒に』吹けそうだわ。そう言って笑う同い年を見て、鍵太郎はやれやれとため息をついた。
トランペットに、指揮者の先生。
その他にもいたるところですれ違っていた、この合同バンドだが。
それぞれがそれぞれ過去と今を繋げたことで、今度はまた、違う演奏ができそうだった。
「何かが起きるだろうとは思ってたけど……まさかここまで心臓に悪いことになるとは、思ってなかったなあ……」
「あ、あの……本当に、すみませんでした……!」
「あ、いや。柳橋さんが悪いわけじゃないですし」
出会ったときと同じように謝ってくる葵に、鍵太郎は苦笑する。
彼女も彼女でここに来るまでに、色々なことを乗り越えてきただろうことは、目の周りにある涙の跡を見てもよく分かった。
だからこそ――鍵太郎は葵に初めて会ったときと、同じことを口にする。
「大丈夫ですよ、柳橋さん。どんな曲だろうとどんなことがあろうと、このメンバーなら大抵のことは、乗り切れますから」
「……湊、さん」
「さあ、年内最後の練習です。低音としても部長としても、一緒に俺たちの力を見せてやろうじゃありませんか」
その言葉にどんな反応が返ってくるのかは、こちらとしても賭けだったのだが――
「――はいっ! がんばりましょう!」
葵が満面の笑みで言ってきたので、鍵太郎も安心して、そこで笑うことができた。
過去と今が繋がったのなら、できるのは未来。
彼女がそんな風に笑えるようになったのであれば、今からやる演奏はきっと――
あのとき以上に輝くものに、なることだろう。




