彼女の戦い
※主な登場人物
・湊鍵太郎…川連二高吹奏楽部、部長。
・千渡光莉…同吹奏楽部、副部長。トランペット担当。
・片柳隣花…同吹奏楽部、ホルン担当。
・戸張櫂奈…薗部高校吹奏楽部、トランペット担当。
「似てる……?」
同い年が発した言葉を、思わず湊鍵太郎は繰り返した。
自分と同じ学校のトランペット吹き、千渡光莉。
そして合同バンドの相手である、薗部高校の戸張。
この二人に、楽器以外の共通点があるのか。
鍵太郎が光莉を見ると、彼女は正面の戸張を見据えたまま、こちらの疑問に答えてくる。
「ええ。似てるわよ。人の音を聞かないで、自分の音しか出してないところとか。周りが吹けないのが何のせいかも理解しないで、人に対して当り散らしてるところとか」
本当、そっくりで反吐が出るわ――と言葉の通りに顔をしかめて、光莉は続ける。
「なんでか、ずっと思ってたの。あんたを見てると、どうしてこんなにムカつくのかって。そりゃそうよ。あんたは私の嫌な部分を、全部詰め込んだような女なんだから」
一緒に吹きにくいのも当然。
ソリが合わないと感じるのも、当然。
目の前の他校の部員は、ある意味で『もうひとりの自分』なのだから。
そんな鏡写しのような存在に向かって、彼女は拳を叩きつけるように言う。
「だからこそ分かるのよ。あんたがどうしてそんな風に吹くのか。そんな態度を取るのか。私の昔のことを思い出せば、そんなものは手に取るように分かる」
「やめなさい、よ……」
「やめない」
戸張がどこか怯えるように口にするのを、光莉はきっぱりと振り切った。
ましてや、ここの席に座る人間になら、なおさら――と、ひな壇の一番上で。
かつてコンクールの本番で失敗をしたという場所に立ち、彼女は『昔の自分』に向かって宣告する。
「あんたは自分に自信がないのを知られたくなくて、大きな音を出して誤魔化してるだけ。人に間違ってるって言われるのが嫌で、周りの音をかき消すように吹いているだけ」
それは正面の他校の部員だけでなく、光莉自身も傷つける発言だったろう。
彼女の古傷は、未だに癒えていない。
これまでは過去を直視することすら、嫌がっていたくらいなのに――なぜ今になって、こんなことを言うつもりになったのか。
その理由を、光莉は自ら口にする。
「この席に座る人間はね、そんな変な孤独や不安なんて、とっくに振り払ってなきゃいけないの。トランペットの一番がそれに負けて、身勝手な音を出し始めたら……バンド全体の音も、身勝手になっていくから」
トランペットのトップ奏者は、責任重大。
その音はバンド全体に影響すると、以前、彼女自身が言っていたことがある。
真の意味でそれを悟った光莉は、だからこそ隣で吹く他校の生徒が、かつての自分と同じ過ちを犯していることに気づいたのだ。
なら、止めるしかなかった。
それが自分も相手も、傷つけることになったとしても。
「そうやって自分勝手に吹いてるやつは、いつか大きなしっぺ返しを食らうことになる。引っ張ってくとか騒がしく楽しくやろうとか、そういうんじゃない、本当の地獄を味わうことになるのよ」
本当の地獄、とは。
そこで顔を真っ青にしているのような、戸張が感じているものではないだろう。
かつて光莉が体験した、もっともっと暗い底にある、全てを投げ出したくなるような気持ち――。
「やめ、なさいってば……!」
休憩中の騒ぎを聞きつけて、なんだなんだと人が注目し始めている。
このまま続ければ、二人が言い争っているのは二校全員に知れ渡ることになるだろう。
そして、この他校の生徒が必死に隠していたものも。
『楽しい』と口では言いながら、本当に言えなかった気持ちも――
「まだ、そんなこと言ってるの」
けれどもそんな虚勢など、鏡の前では無駄なことに過ぎなかった。
お互いの間にある透明な壁を叩き壊すように、光莉はその向こうへと呼びかける。
「この楽器のトップを吹く人間はね、誰よりも周りの声を聞いてなきゃいけないの。私は上手いから従えなんて、そんなこと言ってる場合じゃないのよ!」
そこで休憩から戻ってきた合同バンド相手の部長が、こちらの様子にぎょっとしたように顔を引きつらせるのが見えた。
あるいは休憩も取らずにずっと練習していた同じ学校のホルン吹きが、近くで固唾を呑んでこちらの動向を見守っているのが分かった。
けれど、こちらには止めようもないのだ。
これは、彼女の戦いなのだから。
ずっとずっと目を背けてきたものとようやく対峙できた、光莉の戦い――
「そういうやつは、周りも自分も全部巻き込んで、演奏そのものをぶっ壊すことになる。そんなあんたに、この大切な合同バンドを任せるわけにはいかないの!」
「うるさい、うるさいっ……!」
「うるさいのはあんたでしょう! そっちこそ、そんなあんたにトップを吹く資格なんてない! そんなつもりで吹いてるんだったら、私にその一番の楽譜全部よこせ! あんたなんかに任せてられない、私が全部吹いてやるんだから!」
「ちょ、千渡、おまえさっき高音きついって言ってたじゃん……!?」
「トランペットじゃないあんたは黙ってなさい!」
「そうだけどさ……!」
ではあるのだが、やはりいささかヒートアップしすぎてきた気がして、鍵太郎は同い年を諌めにかかった。
しかし、そんなことでは光莉は止まらない。
衆人監視の中で部員同士が怒鳴ることは今までもあったが、今回のこれは質が違う。
この分厚い扉を破れるのは、彼女しかいない。
それが分かっているからこそ、こちらもこちらでその次に来る言葉を覚悟して――
鍵太郎は、光莉の心の叫びを受け止める。
「あんたがそうやって他人を拒絶する限り、本当に楽しい音楽なんて絶対できっこない! 真剣に自分と向き合う覚悟もないんだったら、あんたは今すぐこの席から降りろ!」
「……!」
そのセリフに反応したのは、他校の生徒というより、むしろ片柳隣花の方だった。
同じ学校のホルン吹きは驚いたように目を見開き、厳しくもそこに立つトランペット吹きを見つめる。
そして、その怒号の一拍後に――
「……っ」
戸張はいたたまれないといった様子で、ステージを飛び降りて走り去ってしまった。
その後ろ姿を鍵太郎が渋い顔で見送っていると、光莉がこちらに話しかけてくる。
「……やりすぎだ、って思ってるでしょ」
「……流石に」
全員から見られている中、楽器を置いて逃げ去ってしまった――その事実はあの他校の生徒の心を、相当傷つけていることだろう。
言い合いにはしないと約束したことも、結果的には破られてしまった。
頭が痛くないと言えば嘘になる。
けれど――
「でも、あれは誰かが言っておかなきゃならなかった。自分も周りも気づかないなら……誰かが、言ってあげるしかなかったのよ」
「……まあ、そうなんだよな」
そうでもしなければ彼女はいつか光莉と同じように、どこかで破滅してもおかしくなかったのだ。
ひょっとしたら、それがこの合同バンドだった可能性すらある。
だからこそ、これまでああも拒否してきた自分の傷を認めて、あそこまで言ったこの同い年のことを、鍵太郎は責める気にはならなかった。
心配なのはこの後のことだが――それは。
「大丈夫」
同じく相手の去っていった方角を見ながら、光莉は言う。
「私みたいに、誰か支えてくれる人間がいれば――あいつだって、きっとまた立ち上がるから」
「……そうだな」
あの戸張という生徒のことを追いかけていった、向こうの部長とファゴット吹きの部員の二人。
特に去り際にあの相手校の部長が残していった目配せを、こちらとしては信じるしかないだろう。
いつ彼女たちが戻ってくるかは分からないが――これは休憩時間が、もう少し延びることになるかもしれない。
全くもって、ため息しか出てこない。
必要なことだったとはいえ、見ているこっちとしては相当ヒヤヒヤさせられた。
額を押さえて鍵太郎が、これからのことを考えていると――変わらず他校の部員が去っていった方角を見ながら、光莉は言う。
「……ねえ。私、あいつを見てて、思ったことがあるの」
こちらを振り向かないまま、独白するように言ってくるそれを聞いていると、彼女はそのまま続ける。
「私は、あんなことがなければ……あいつみたいになってたかもしれないって」
「……それは」
「ずっと気づかないまま楽器を吹き続けて、自分はできるんだぞ、できるんだぞ、って虚勢を張り続けて――いつの間にかあんな、嫌なやつになってたかもしれないって……」
光莉の中学時代のことを、鍵太郎は知らない。
人づてに、多少聞いたくらいで――だけど本人が言うのなら、どこかに、そういう思いがあったのだろう。
けれど、今の彼女はそうではないのだ。
「だから――中学のときのあれは、もしかしたら、私にとって必要なことだったのかもしれないって、思って」
なぜなら光莉はもう、昔の自分を認めているのだから。
けれどそう言った声と背中は、その事実を背負いきれず、震えているようにも見える。
「あのときのことがあってよかったなんて、絶対に言えない。でもあれがあって、私が今ここにいるのは確かで……。そう思ったら、なんか……ごめん、よく、分からない……」
「もういい。もう言わなくていい、千渡」
相手がいなくなったのだから、もうこれ以上自分を傷つけるようなことは言わなくてもいい。
今までそうしてきたように、時間をかけて心の中で整理していけばいいのだ。
それこそ今、周りにいる人間に支えられながら――そう言うと、彼女は袖で目元をぬぐってから、振り返る。
「……うん。そう、ね」
そう言って笑う光莉は、これまでとは違う表情をしているように見えた。
彼女にとって、とても大きな戦いを乗り越え――その先へもう一歩踏み出したことを、何と言って後押ししてやればいいのか。
事情を知っているだけに鍵太郎が言いよどんでいると、横合いから意外な人物に声をかけられる。
「ねえ。千渡」
そう言ってきたのは今まで光莉のことをライバル視してきた、隣花だった。
同じ中学からの経験者同士として、これまで角を突きつけ合ってきたこの二人だが――
彼女も先ほどのやり取りを聞いて、何か心境の変化があったのだろうか。
鍵太郎が光莉共々きょとんとしていると、隣花は存外明るい声音でもって、そのまま言ってくる。
「あんたのこと。ちょっと見直したわ」
「は?」
「正直これまで。あんたは、湊に甘やかされてたように見えたけど。意外とちゃんと、真剣に考えて楽器吹いてたのね。感心した」
「はぁ!? ちょっと待って何それ!? 私がいつ、こいつに甘やかされてきたって!?」
「えっと、あの……俺、なんかすごい身に覚えのないことで誤解されてるような気がするんだけど……」
『よーくその胸に手を当てて考えてみなさい、このスケコマシ野郎が!!』
「二人してなんなんだよ、その言い草!?」
久しぶりに二人揃って罵倒されて、鍵太郎は泣きそうになりながら反論した。
しかも今回のことで意気が合ったのかなんなのか、これまでよりも破壊力が上がっている気がする。
これが演奏にも生かされるのなら歓迎すべきことなのかもしれないが、なんだか微妙に釈然としない。
そして、似たもの同士――というのなら。
「……がんばってください、三人とも」
心に傷を負ったトランペット吹きと、それを支えるべく追いかけていった、低音楽器二人。
彼女たちもすぐにこんな風に話ができるようにと祈りつつ――鍵太郎はそう口にした。




