かそけき者の声を聞け
※主な登場人物
・湊鍵太郎…川連二高吹奏楽部、部長。チューバ担当。
・植野沙彩…薗部高校吹奏楽部、ファゴット担当。
・柳橋葵…同吹奏楽部、部長、コントラバス担当。
・西宮るり子…同吹奏楽部、顧問。
その女の子があまりに唖然とした顔をしたので、湊鍵太郎はあれ、と首を傾げた。
「あの、ひょっとしてダメでしたか?」
「い……いえ! 大丈夫です、吹いてみてください!」
改めて声をかけると、その他校の女子生徒――薗部高校のファゴット吹き、植野沙彩は慌てて準備を始める。
最初に会ったとき、その楽器を吹かせてほしいと言ったことを、どうやら彼女は覚えていてくれたらしい。
ファゴット。
吹奏楽でも強豪校にしかないような楽器だ。
もちろん川連二高にもないもので、この機会を逃すと出会うことは滅多になくなる。そう考えて、鍵太郎は思い切って、沙彩に吹かせてほしいと頼んだわけだが。
言うだけ言ってみるもので、彼女は笑顔で「はい、どうぞ!」と自分の楽器を手渡してくれる。
「おおー……」
指定されたところを持って、鍵太郎はその珍しい楽器をまじまじと見つめた。
焦げ茶色をした長い木製の管と、それを蔦のように包む、銀色のキー。
そしてぴょんと飛び出た吹き口は、他の楽器には絶対にないものだ。
ボーカルの先端に付いたリードも、ダブルリード――リードを上下に二枚重ねたもので、そこの僅かな隙間に息を入れて音を出す仕組みになっている。
そういった独特の形状から、同じ木管楽器とも音色がまるで違う。
何から何まで好奇心をそそられる、不思議な楽器だった。
ワクワクしながら鍵太郎はリードを咥え、息を吹き込む。同じ低音楽器といっても、さすがにこれは自分の楽器より小さい。
管も細いし、難なく音は出るだろうと考えていたのだが――
「……!?」
吹いた瞬間、肺へものすごい負荷がかかってきて、息を入れ続けつつも鍵太郎は目を剥いた。
なんだ、これは。
この楽器、こんなにきついものだったのか。
音はちゃんと出ているのだが――下手をすると、いつも自分が吹いているものより辛い。
金管最大の低音楽器、肺活量の鬼チューバ。
そのプライドを守るため、鍵太郎はさらに多量の息を楽器に流し込んだ。
それで音は大きくなったものの、肺への負担は変わらない。むしろ余計に苦しくなったように感じられる。
とにかくそのまま息の続く限り、音を出し続け――限界が来たところで、鍵太郎は楽器から口を離した。
「――ふはッ!?」
「すごいすごい! いい音してましたよ湊さん!」
「い、いえ、それは嬉しいんですけど……」
この楽器、こんなにきついものなんですか――ぜはぜはと息をつきながらそう訊くと、沙彩は少しだけ苦笑を交じえ、答えてくる。
「あ、えーと……。たぶん湊さんが思ってるのとは逆なんです。チューバは息が足りなくて苦しいと思うんですけど、ファゴットは『息が余って』苦しいんです」
「息が余る!?」
そんなことがあり得るのか、と鍵太郎は思わず叫んだ。
すると彼女は、さらに困ったように笑って続ける。
「息って足りなくても苦しいけど、ずっと吐くのを止めてても苦しいじゃないですか。あれと同じです。ダブルリード系楽器の特徴なんですけど、わたしたちはむしろ余分な息を、どうやって吐くかを考えてるくらいで」
「そ、そんな楽器があるんですね……」
ダブルリード系ということは、以前オーケストラの舞台で会ったオーボエ吹きの妖艶なおば――お姉さんも、そんな感じだったのだろうか。
自分とはまるで逆の感覚で吹いている楽器があるなんて、思いもしなかった。
世の中まだまだ広い。俺の知らないことって、やっぱりたくさんあるんだな――と鍵太郎がこの楽器を吹かせてもらったことを感謝していると、沙彩は言う。
「そうなんです。だからこそわたしは……この楽器を吹くことにしたんですけど」
「……そういえば、植野さんはどうして、ファゴットを吹くようになったんですか?」
最後だけは少し顔を伏せて言ってくる沙彩に、鍵太郎は控えめに気になっていたことを訊いてみた。
元強豪校とはいえ、今の薗部高校の吹奏楽部はそこまで規模が大きくない。
そんな中で、なぜ彼女はあえてファゴットという楽器を吹くことにしたのか。
それが前から少しだけ、疑問だったのだ。
言いたくなければ言わなくてもいい、そう付け加えもしたのだが。
沙彩はゆるゆると首を振って、こちらの問いに答えてくる。
「……わたし、最初はトロンボーンを吹いてたんですよ。でも全然、上手くならなくって」
肺活量が足りなかったせいか、ワンフレーズもひと息で吹ききれなくて――と、当時のことを思い出したのか、彼女はどこか遠い目をしながら言う。
「先輩とかには、すごく困った顔をされてました。そんな自分がすごく嫌で、誰かの役に立ちたくて――何かわたしにできるものはないかって、必死に音楽準備室を漁ってたら、この子を見つけたんです」
そのセリフに、鍵太郎は薗部高校の音楽準備室を思い出した。
元強豪校として、所狭しと楽器の並べられたあの部屋から、沙彩は自分だけの『たからもの』を見つけたのだ。
そのときの嬉しさは、どれほどのものだっただろうか――こちらの持つ楽器を撫で、彼女は続ける。
「これだ! って思いました。この子だったらわたしでも吹ける、みんなの役に立てる、って。そこから先は、独学です。教えてくれる先輩もいなかったので、運指は自分で調べました。幸いトロンボーンとは音域もさほど変わらないので、楽譜もすぐ読めましたし。一生懸命練習して、なんとかできるようになってきて――でも」
最近は、ちょっと分からなくなってきて――と沙彩は、楽器から手を離す。
「なんだか……わたしの音なんて、みんな聞いてないのかなって。結局いてもいなくても一緒で、何の役にも立ってないのかな、って……」
消え入るようにそう言って、彼女はうつむいた。
「分かってるんです。わたしがこの子のことを、一番信用しなくちゃいけないってことは。ちょっと形が変で音も変わってるけど、それでもわたしはこの子のことが、大好きだから。
けれど、他の人にとってはそうじゃなくて――あの時わたしを救ってくれたこの子は、周りからすれば、何の価値もないものなのかなって……」
どんなにがんばっても聞いてもらえないなら、そこにいたって意味がない。
空気のように扱われて霧散していく、大切なもの。
誰からも興味を持たれないなら、『それ』は要らないのではないか――
その言葉通りに掻き消えてしまいそうなファゴット吹きに、鍵太郎は言う。
「違いますよ」
声に反応して顔を上げた沙彩は、泣きそうな顔をしていた。
そんな彼女に向かって、改めて鍵太郎は言う。
「誰も聞いてないなんて、そんなことはないです。現にうちのバスクラの部員も最初の合同練習の後に、言ってました。植野さんが隣にいてくれたおかげで、すごく助かったって」
「……本当ですか?」
「嘘だと思うなら、本人に直接訊いてみてください」
今この場にはいないが――バスクラリネットの置いてある席を見て、鍵太郎は笑う。
きっとあの同い年は質問されれば、その綺麗な目をぱちくりさせて、言うのだろう。
「はい、すごく助かりましたよ。どうかしましたか?」――などと、さも当然のように。
「いてもいなくても同じ楽器なんて、一つもないですよ。みんなそれぞれ、聞こえてなくたってどこかで誰かの役に立ってるんですから」
「で、でも……」
「それに!」
なおも思い惑っている沙彩に、今度は鍵太郎自身が強く呼びかけた。
彼女から預かったファゴット――その奇妙な形をした楽器を、見上げて言う。
そこから出る独特の優しい音を、思い出しながら。
「吹いてみて、よく分かりました。俺の楽器でこの音は出せない」
少し前の学校祭でファゴットの代理として吹かされた、あの『エルザの大聖堂への行列』。
楽器がないからということで、いない場合の楽譜を吹いてはいたが――やはり代理は代理だった。本物には到底及ばない。
もしこの楽器があれば、あのおっかないフルートの先輩にも、睨まれることはなかっただろう。まあそれはそれで、惜しいことではあるけれども――
それよりも今は、沙彩に言うべきことがある。
何の導きの下にか、この不思議な楽器を吹くことになった他校の生徒に、真っ直ぐに――
「もう一度言います。聞こえなくたってここにいるだけで、ファゴットは誰かの役に立ってる」
これだけははっきりと、伝えておかねばならなかった。
今にも消えてしまいそうな彼女の存在を、繋ぎ止めておかねばならなかった。
「俺も他の楽器ができなくて、違う楽器に回された身だから分かります。できないのは悔しくて、悲しいことだったと思います。俺はそこで、言われるがままにチューバに行ったけど――植野さんは、自分の力で自分ができることを見つけたんです」
流されるままにチューバに行ったことを、後悔はしていない。
むしろそれでよかったと思っているくらいで――けれどもこの他校の生徒は、自力で自分の居場所を見つけたのだ。
それは素直に、尊敬できることだと思った。
「それもやっぱり、俺にはできなかったことです。独学でここまでやってきたことだって、並大抵の気持ちでできるもんじゃない。
それは自信を持っていいことだと思いますよ。植野さんにしかできなくて、この楽器じゃなきゃできなかった――そのことは紛れもない、事実なんですから」
そうまでして彼女が進んできたその道を、ここで途切れさせるわけにはいかないのだ。
合同バンドの相手としてでもなく、部長としてでもなく。
ただひとりの奏者として――鍵太郎は笑って、沙彩にそう言った。
そこでようやく、彼女は「……はい」と涙を流しながら、うなずいてくれる。
「……ありがとうございます。おかげでちょっと、元気が出てきました」
「いいえ。こちらこそ貴重な機会を、ありがとうございました。もう少しだけ吹かせてもらって――って、痛ってぇ!? リードに舌挟んだ!?」
「あははは。わたしも昔よくやりましたよ、それ」
制服の袖で涙を拭いながら、沙彩はそう言って笑った。
これなら、もう楽器を渡しても大丈夫だろう。
そう判断して鍵太郎は、彼女から借りたものを返す。
もう沙彩がこれを、手放すことはないのだろうから――そう思っていると。
彼女は自分の楽器を抱え、ぽつりとつぶやく。
「……なんだか、不思議ですね。こんなこと、今まで誰にも話せなかったのに」
「まあ……そりゃ、そうでしょう。いつも一緒にいる人間だからこそ、話したくないことだってあるんでしょうし」
それこそ、あの指揮者の先生の過去のように。
親しい人だからこそ、怖くて訊けなかったり、話せなかったりすることはあるのだろう。
今回は自分のような外部の人間だからこそ、聞けた話だ。
あの先生はそれを、これから乗り越えようとしているようだけれども――それができたら、自分にも何かを、聞かせてくれるのだろうか。
そんなことを考えていると、沙彩は何かを顧みるように顔を伏せ、つぶやく。
「いつも一緒の人……ですか」
そう言った彼女は――すぐに、はっと気づいたように頭を上げた。
「湊さん、ありがとうございます! わたし、ちょっと行ってきますね!」
「え、あ、はい!? いってらっしゃい!?」
「よかったらこの子のこと、また、可愛がってあげてくださいね!」
そう言い残し、沙彩は楽器を持ってその場を後にする。
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そして、彼女が向かった先は――
「先生、川連二高さんの指揮者の先生、見ました!? ものすごくちゃんと指導されてるの、見ました!?」
「もちろん見たわよ! 素晴らしいわね! かつての薗部高校にいた私の先生と、なんとなく指揮が似ていたわ! 流石ね!」
「違う!? 注目すべきポイントが、なんか根本的に間違ってる!?」
同じ低音楽器の友人、柳橋葵のところで。
折りよく、その場には顧問の西宮るり子もいた。
相変わらず噛み合わない会話を繰り広げている二人に、沙彩は近づく。
「あのー、二人とも……」
ためらいながらも声をかけると、葵も西宮もいったん話すのを止め、こちらを振り返ってきた。
その視線に弱気の虫が、また一瞬顔を出しかけたが――
そこで彼女は意を決し、それまでずっと言い出せなかったことを口にする。
「あのさ」
『それ』を訊くことは、先ほどのやり取りを経てさえ、少しの間が必要だった。
けれども『彼』の後押しを受けて――
沙彩は二人に向かって、もう一歩踏み込んだ思いを吐き出す。
「わたしは、ここで吹いてても、いいのかな……?」
それは彼女としては、かなりドキドキしながら発した問いだったのだが――
葵と西宮は珍しく息が合ったように顔を見合わせ、声まで揃えて返してくる。
『なに言ってんの、いいに決まってるでしょ』
「――」
即座に返ってきた、その答えに。
沙彩は声にならない声を発して、二人を見つめた。
すると部長と顧問の先生は、それぞれ口々に、自分の思っていることを言ってくる。
「え、なに? いきなりそんな、変なこと言わないでよ。沙彩に同じ低音楽器の私が、どれだけ助けられてると思ってるの」
「ファゴットといえば強豪校の象徴みたいなものでしょう! あなたはうちの学校の再興の旗印みたいなものよ、いてもらわなくちゃ困るのよ!」
そんな風に二人の言うことは、どこか自分勝手で、見当外れのものだったが――
「……あはは」
あっけなく自分の悩みが消えてなくなったことに、沙彩は笑った。
結局のところ、自分はこれをどうやって話していいか分からず、辛くて苦しくて。
この楽器と同じように、どこかで息の吐きどころを探していただけだったのかもしれない。
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この日を境に、沙彩の行動に、二つの変化が見られるようになった。
ひとつは、それまで自分の楽器の名前が呼ばれないと遠慮がちに声を出すだけだったのが、「先生! そこファゴットも吹いてます!」と迷わず言うようになったこと。
そして、もうひとつは――
「……ふふ」
あなたは誰かの役に立っている、と言われたことを思い出し、彼女は笑った。
自分が大好きな楽器を抱え、そこから音を出しながら、沙彩は思う。
聞こえなくてもいい。見てもらえなくてもいい。
他の人とはちょっと違って、形も音も不思議なものだけれど。
それでもどうかこんな楽器を――愛してください。
ファゴットのことをもっと知りたい!という方はこちら↓をどうぞ^^
《参考文献》
ヤマハホームページ・楽器解体全書~ファゴット編~
https://www.yamaha.com/ja/musical_instrument_guide/bassoon/




