陽気なチャルメラ
※今回登場する主な人物
・湊鍵太郎…一年生。初心者。担当楽器はチューバ。
・春日美里…三年生。部長。チューバ担当。
・千渡光莉…一年生。中学のときからの経験者。トランペット吹き。
・豊浦奏恵…三年生。陽気なトランペッター。
楽器ケースの、蓋を開ける。
『あの日』以来、このケースを開けることはなかった。
あの苦々しい思い出と共にこれも部屋の片隅にしまって、もう開けようとは思わなかったのだ。
しかしそれでも――これを捨てたり、売ったり、誰かに譲ったりすることは、できなかった。
それは少々ムカつくが、あのクラスメイトの言う通り――自分はまだ、楽器を吹きたかったということなのだろう。
だから、千渡光莉は自分の楽器のケースを開けた。
そこにはあの日と変わらぬ、銀色に輝くトランペットが納まっている。
その光景になんとなく、ほっとする。ずっと放置していたので、あとはちゃんと動くかどうかが心配だった。
楽器をそっと持ち上げ、ピストンを動かしてみる。
少し重くなっているような気もするけど――大丈夫。いけるいける。
ケースに入れていたオイルを注せば、さらに動きが軽くなった。
そうだ――まだ、がんばれる。
愛器から無言の励ましを受けたようで、涙が出そうになった。彼女はそれをぐっとこらえ、楽器を撫でる。
「……ありがとう。もう少しだけ、がんばってみるよ」
そう言って光莉は、楽器に、自分の相棒に息を吹き込んだ。
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「新入部員だあぁぁぁぁぁっ!♪」
部活の時間になって湊鍵太郎は、クラスメイトの千渡光莉と共に音楽室に向かった。
そこでは既に吹奏楽部の部員たちが集まって、練習を始めている。
鍵太郎は光莉を、先輩の豊浦奏恵に紹介した。トランペットの人員が足りないところに、ちょうどよく経験者の光莉が来たのだ。
トランペットのパートリーダーである奏恵は、もちろん大歓迎した。
そして感激のあまり、鍵太郎を抱きしめた。
「さっすが湊くん! できる男は違うね! かっこいいね! 大好き! うりうりうりうり!」
「ちょ、豊浦先輩、やめてください……!」
「あらあら、よかったですねえ」
「春日先輩も、見てないで助けてくださいよ!?」
部長で鍵太郎と同じ楽器をやっている春日美里も、光莉がやってきたことをのほほんと歓迎している。「わたしの湊くんにくっつかないでください!」とか、そういうことは言ってくれなかった。部長は博愛主義だった。
「あのー……。私、今回の慰問演奏のお手伝いとして来たんですが……」
このやり取りについていけていない光莉が、遠慮がちに言った。
今月末に行われる、吹奏楽部の老人ホームへの慰問演奏。人数が足りないがゆえに鍵太郎は光莉に声をかけたのだが、彼女はそれを引き受けるときに言ったのだ。
「あくまで手伝い。慰問演奏が終わったら、吹奏楽部からはいなくなる」と。
楽しければそのままいるかもしれない、とは言っていたものの、基本はあくまで賛助出演のつもりらしい。
しかしまあ、この部活は楽しいからそんなことはないと思うけど、と鍵太郎はわりと楽観的に考えているのだが。
「いいよ! それでも大歓迎!」
鍵太郎を解放した奏恵は、光莉に対してビシッと親指を立てて言ってきた。そのテンションの高さについていけてないのか、そう言われるとは思っていなかったのか、光莉は「はぁ……」と曖昧に言い、自分の楽器を取り出すため、持っていたケースを床に置く。
千渡光莉、楽器は自分のものである。通常は学校の備品である楽器を使うため、学生のうちに自分の楽器を持っているのは珍しい。
そのことからも、やり込んでいたことが伺えるのだが――さて。
光莉は少しマウスピースで音出しをすると、すぐに楽器をつけ、トランペットを吹き始めた。
「――!」
「すご……」
音楽室にいる部員たちが、その音を聞いてざわめく。光莉は予想に違わず、かなりハイレベルな奏者だった。
奏恵の音とはまた違う、質の凄さ。美しさとも取れるその響きを出して、光莉はふぅと一息ついた。
「すごいすごい! ねえねえ千渡さん、どこの中学で吹いてたの!?」
下手をすると自分よりうまい後輩が来たことになるのだが、奏恵はそんなことはどうでもいいらしい。
光莉の予想以上の音を聞いて、女性同士の戦いが始まってしまわないかと鍵太郎は一瞬心配したのだが、それは杞憂だった。
訊かれた光莉はわずかに口ごもったものの、隠してもしょうがないと思ったのか、正直に答える。
「……宮園中学です」
「宮園……!?」
校名を聞いた何人かがびくりと反応する。鍵太郎は知らないところだったが、吹奏楽の世界ではそんなに有名なのだろうか。
訊くと、部長の美里が説明してくれる。
「宮園中学は、中学校の吹奏楽部としては、この県で一、二を争う強豪校です。コンクールでは上位大会の常連校。定期演奏会も開いていますね。すごいところですよ。……そんな子が、どうしてうちの部に?」
もっと吹奏楽部のレベルの高い高校は、いくらでもあったろうに。そう首を傾げる美里に、「高校では、他の事をやろうかどうか迷ってたみたいですよ」と鍵太郎は言った。光莉本人が言っていたので、間違いはあるまい。
「そう……ですか。なるほど」
美里はなにか引っかかるところがあるようだが、とりあえず納得はしていた。吹奏楽を始めて間もない鍵太郎には、まだまだ知らないことがたくさんある。その辺りの事情がなにか、先輩に疑問を持たせたらしい。
まあ、今は詮索するより先に光莉の歓迎をしたいところだ。美里は光莉に、「では、顧問の本町先生のところにあいさつに行きましょう」と言った。光莉も素直にそれに応じる。
「宮園出身の子か! よくそんな子見つけてきたね、湊くん!」
「偶然ですね。楽譜見てたら、あいつが声をかけてきたので……」
二人が本町のいる音楽準備室に行った後、奏恵が鍵太郎に言ってきた。光莉との出会いは、本当に偶然の産物だ。
美里が落とした楽譜を拾わなければ、光莉をここに連れてくることがなかった。
そう考えると、その偶然には感謝しないといけないのかもしれない。
目的が謎めいていて、ややプライドの高そうなところはあるものの――そんな彼女がここに馴染めれば、それはとてもいいことなのではないかと、鍵太郎は思っていた。
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プライドが高そう、ではなかった。
千渡光莉のプライドは実際、高かった。
「へたくそね」
帰り道にずばりと言われ、鍵太郎は顔を引きつらせた。
部活の終了後、どうだったと様子見の質問をして返ってきた答えが、これである。
「個々人のレベル差が大きい。息のスピードやアタックがバラバラ。全体のバランスもおかしいし、テンポも不安定ね。下手としか言いようがないわ」
「そりゃ、おまえから見たらそうかもしれないけどさ……」
次々と出てくる鋭い指摘に、返す言葉がない。育ってきた環境が違いすぎるのだ。そのくらいは大目に見てほしいと思うのだが――
「甘いわね」
ずばっと言い返された。
「楽器を持ったら、初心者も経験者も関係ないわ。それぞれがそれぞれ、自分の出せる最高の音を出さないといけないの。あんた、ちゃんと練習してる? きれいな先輩に見とれて、練習に身が入ってないんじゃないの?」
「練習はしてるよ……」
それはまあ、たまにぼんやり美里を見ているときも、ないではないけど。練習に支障が出ていないくらいにその時間は抑えている。
それにしても、光莉の言い方は厳しすぎる。こいつこんなんで本当にここに馴染めるのだろうか。楽観視していた鍵太郎も、少し不安になってきた。
「じゃなくて。うちの部のレベルの話じゃない。千渡さんは楽しかったかって、俺はそう訊きたかったんだよ」
どうだったと曖昧に言ったのが間違いだった。質問をし直した鍵太郎に、光莉は「んー……」と宙を見て、考えながら言ってくる。
「なんか……不思議な感じ。へたくそだし、音が合わないけど――あの先輩の音には、少しつられた。だから……少し、楽しいと思わなくも……なかったかな」
奏恵のことを言っているらしい。いつも楽しそうに楽器を吹く彼女に、光莉は少し、心を動かされたようだ。
そのことにようやくほっとした。へたくそだろうがなんだろうが、奏恵の音は、光莉を惹きつけたのだ。
「なんなのあの……豊浦先輩? 楽器を吹くのが楽しくてしょうがないって感じで」
まるで陽気なチャルメラ。
そのあんまりな例えに、さすがの鍵太郎もムカッとした。「はいはい、さすが名門校出身の経験者は言うことが違いますね」と口に出してしまう。
言ってからしまったと思ったのだが、光莉は苦笑いしつつも、怒ってはいなかった。
「違うの。悪い意味で言ったんじゃなくて――なんていうのかな。それは、私には出せない『楽しさ』なのよ。
少しうらやましくて、そんな人と一緒に吹けるなら……ここにいるのも悪くないかな、って思った」
言ってる途中で恥ずかしくなってきたのか、光莉は下を向いて、後半は蚊の鳴くような声になっていた。
自分には出せない音を、他人が持っている。
それを妬みも僻みもせず聞き入れて、一緒に吹くのが楽しい、と光莉は言ったのだ。
プライドが高く言うことはキツいかもしれないが――音には誠実。
彼女の姿勢はおそらく、自分も見習わなくてはならないものだ。「ごめん」とさきほどの暴言を謝って、しばらく帰り道を無言で歩く。
少し落ち着いてから、鍵太郎は光莉に言った。
「じゃあ千渡さん、しばらくここにいてくれるかな」
「千渡、でいいわよ。……ま、まあ? 予想よりちょっと楽しかったから、いても、いいわよ?
けど、まだ認めたわけじゃないんだからね!? 慰問演奏までなんだからね!?」
「あはは」
「なに笑ってんのよムカつくなあ!?」
なるほど、これはほんとにプライド高いぞ――と、鍵太郎も苦笑いした。
言っていることはキツいし、たまに人を見下すようなことも言うけれど――奏恵の音が、それを変えてくれるかもしれない。
他人の音が他人に影響を与える。それがたぶん、美里の言う『バンドは家族』ということなのだろう。
「もう!? あ、あんたこそこれからもっと、うまくなりなさいよね!? へたくそなだけのバンドになんか、私はいたくないんだからね!?」
「がんばるさ」
自分の音もいつか光莉に響くように。ここが楽しいと言ってもらえるように。
明日からまた、練習をがんばろう。そう鍵太郎は思った。




