彼と彼女と宮園と
※主な登場人物
・湊鍵太郎…川連二高代表。チューバ吹き。
・池上俊正…宮園高校代表。チューバ吹き。
・清住純壱…富士見ヶ丘高校代表。チューバ吹き。
・入舟剛…南高岡高校代表。チューバ吹き。
・長岡修三…富士見ヶ丘高校、吹奏楽部顧問。
「楽譜には誠実に吹け」
湊鍵太郎はまず、池上俊正にそう言われた。
県の高校の吹奏楽部員たちが集まる、選抜バンド。
その練習中に鍵太郎は池上から、彼のその技術を教わっていた。
「音の長さはその分ちゃんと吹け。楽譜にあるフレーズがなにを表しているのか、それを把握しろ。そしたらそれを――」
「ちょ、ちょ、あんまりいっぺんに言わないでくれ」
鍵太郎は次々といってくる池上を、いったん手で制した。
そんなに矢継ぎ早に言われても、一度には理解できない。
至極まっとうな考えだと思うのだが、池上にとってはそうではないようだった。「時間ねえって言ってんだろ」と軽くにらまれる。
「選抜バンドは、今日と明日の二日間だ。オレが直接てめえに教えてやれるのは、その間しかねえんだよ。オレが宮園にいる間にやってきたこと、できる限りそのヘタレな頭に詰め込んでやるぞ」
「宮園って、こんなやつばっかりなのか……」
あんまりな言いように、鍵太郎はうめいた。池上は、鍵太郎とは別の高校、宮園高校の生徒だ。
宮園高校は吹奏楽の強豪校だ。だからなのか、プライドが高くて高圧的な人間が多いように思えた。
池上もそのひとりだ。
上手いんだけど、なんか妙に鼻につく。
そしてそれは、自分と同じ学校の女子部員も同じだ。その彼女の顔が自然に浮かんできて、鍵太郎は苦笑した。
いつも顔を真っ赤にして、自分を怒鳴ってくる同い年。
千渡光莉。彼女も中学とはいえ、宮園出身だ。
その光莉のことを池上は、知っているらしい。
中学の失敗で宮園から追放された感のある光莉だが、池上は彼女のことを嫌ってはいないようだった。だからこうして自分に教えてくれる気になっている。
上手い人間から教わるのは、とてもありがたいことではあった。
それでも――まあやっぱり、自分と池上は、馬が合わないようではあったが。
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そんななので池上は、鍵太郎のことはおかまいなしに自論を述べてきた。
「音ははっきり出せ。他とのバランスを気にしておっかなびっくり出すな。ただでさえ低音楽器は聞こえにくいんだ。そして遅く聞こえる」
うなずいた。それは去年、鍵太郎の先輩も言っていたことでもある。
それを確認したのかどうなのか、池上は続ける。
「音は自分で思ってるより前倒しして、早く出せ。それでバンド全体をリードしろ。誰よりも一番先に曲を『こうしたい』っていう意思を出せ。
自分が正しいと思う方向を、誰の文句も言わせないくらい精密に作りこんで、誰よりも早く強烈に叩きつけろ。それで全部を掌握して、バンド全体を引っ張れ。主導権は人に任せるんじゃねえ、自分で握れ。さっきおまえに言った足りない部分は、それでだいぶカバーできる」
「『流れは自分で作り出せ』……」
「そうだ」
鍵太郎のセリフに池上はうなずいた。さきほど彼に指摘された自分の問題点は、ここだった。
池上は続ける。
「チューバはバンド全体の土台だ。土台が変われば全部が変わる。てめえの意思次第で、バンド全部が変わるんだ。なにせ、チューバは――」
「――『第二の指揮者』、だ」
かつて自分の学校の先生に言われた言葉を、鍵太郎はそこで口走っていた。
あの残念イケメンと、初めて出会ったとき。
ひげもじゃの下で、先生はそう言って笑っていたのだ。
『世界を変えることのできる、素敵な楽器』と。
一年前の話だ。すっかり忘れていた。
鍵太郎が自分の言葉を引き継いで言ったので、池上は驚いていた。しかしやがて調子を取り戻して、「なんだ、知ってんじゃねえか」と笑う。
「肝心なとこ抜けてんのに、変なことは知ってんのな。やっぱおまえの学校変わってるわ。ま――知ってんなら話は早え」
「おーい、そろそろ移動するよー」
そう二人に呼びかけてきたのは、同じチューバパートのリーダー、清住純壱だ。
これから選抜バンドの合奏が始まるのだ。その会場に向けて、移動を開始する。
学校の枠を超えた、八十人の大編成バンド。
そんなに大人数でやるは初めてだ。鍵太郎が緊張の色を隠せずにいると、池上は不敵に笑った。
「ま、まずはお手本見せてやるよ。隣で聞いとけ、へっぽこ指揮者」
「ぐぬう……」
言われたい放題でかなりシャクだったが。
池上の上手さの秘密には、興味がある。なので鍵太郎は彼とともに、合奏場所へと向かった。
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合奏は、本番のホールをそのまま使うらしい。
二階席まである、よくある造りのホール。
馴染みになりつつある空間のはずだったが、そこは今、鍵太郎が見たこともないほどの人数で埋め尽くされている。
「……すげえ」
さすがに、八十人揃うと圧巻だった。
自分の学校ではありえない密度の中で、鍵太郎は思わずそう感嘆の声をあげた。
イスとイスの間隔が狭い。
いつもひな壇の最上段だけで収まりきれるトランペットやトロンボーンが、狭すぎてもう一段使っている。
今まで一緒にやったことがない楽器もあった。オーボエ。ファゴット。コントラバスも二台ある。
ここは、自分の知らない世界だった。
スケールがまるで違う。強豪校でもなんでもない普通の吹奏楽部で吹いている自分にとって、ここは全員で音を出したらどんなものになるか、想像もつかないところだ。
しかしそう思ってきょろきょろしていたら、池上が冷たい目でこちらを見ているのに気付いた。
「おいおい。呑まれてんじゃねえよ。これからこいつらを全部指揮下に置くんだぞ。気合いで負けんな、ケンカする気でいけ」
「まあ、そりゃそうだけど……」
「そうだもどうだもねえよ! なんでてめーはそうやって弱腰なんだ。自分からヘタレに成り下がるな。じゃないとあいつみてえになるぞ」
あいつ。そう言って池上があごで指した先には、同じ楽器の選抜メンバーである入舟剛がいる。
入舟はその高い身長のわりに、妙に気弱な人物だ。
そんな性格なので、池上とは全く合わないようだった。ただ鍵太郎からすれば、入舟はどうも単なるヘタレには見えない。
なので一応、フォローのため言ってみる。
「……でもあいつ、いいやつだよ」
「いいやつはみんな死ぬ」
「空飛ぶ豚みたいなことを言うな、おまえ……」
「冗談じゃねえんだよ。宮園では中途半端に優しいやつは、みんな辞めていったんだ。あいつみたいなやつだった」
「……」
想像以上に過酷な宮園の状況を聞いて、鍵太郎は絶句した。
県下トップを走り続ける、宮園高校。
そこは自分の学校とは、まるで違う論理で動いているのは知っていたが――まさか、そこまでだとは思わなかった。
だが池上はそんな鍵太郎の表情を見て、唇の端を釣り上げる。
「そういうとこだ。宮園ってのは。――くだらねえだろ? くだらなさすぎて、笑えてくるぜ」
「おまえ……」
「今の宮園は、本当にくだらねえんだ」
笑いを引っ込め、彼は真剣に、鍵太郎に告げてきた。
「清住が言ってたろ。宮園はここ最近、いつも東関東止まりだ。そのくせ、周りの学校を見下してる。『うちの学校はこの県のどこよりも強い』ってな。バッカじゃねーの。そんなん言ってるからその先の戦いに勝てねーんだよ」
「池上……」
「くだらねえ。くだらねえ。くだらねえんだよ――金賞を取れないくせに自分より下の学校を見下して嗤ってるやつも。人の失敗を嗤って自分の立場を守ってるやつも」
「その、嗤われてる、のは……」
千渡光莉のことか。
そう言おうとした。だが、池上からほとばしる、深い怒りなのか、悲しみなのか――そういったものに当てられて、うまく言葉が出なかった。
咳き込むように息をする。
池上は、もう鍵太郎に言っているのか、独白をしているのか、よくわからなかった。
「このままじゃ、宮園はだめだ。だから変わらなきゃいけない。そのために、オレは――」
池上がそう言いかけたとき、周囲から急に音が引いた。
なんだろうと思って鍵太郎がみなの見る方に目をやれば、そこには舞台に向かって歩いてくる、中年の男性の姿がある。
少し髪が薄く、年相応に体型も太めだ。指揮台まで歩いて来たそのおじさんは、自分を見つめる学生たちに挨拶してきた。
「みなさんこんにちは。そしてはじめまして。私は富士見ヶ丘高校の顧問、長岡修三といいます。みんな、しゅーちゃんって呼んでね!」
「先生、学外の方が引いてます」
いきなり崩れた自己紹介に冷静に突っ込んだのは、清住だ。
彼は富士見ヶ丘高校の生徒だ。長岡のこんな言動にも慣れているらしい。
ああそうだ、と鍵太郎は思った。富士見ヶ丘の演奏会で、指揮を振っていたのはこの人だ。
まさかこんな人だとは思わなかったが。教え子に突っ込まれた先生は「うぉっほん」と咳払いをし、改めて言ってくる。
「……失礼。今回の選抜バンドはうちの学校が主催のため、私が指揮を振ることになりました。みなさんの学校とは勝手が違うところもあるでしょうが、そこは臨機応変にやっていきましょう」
『はい!』
「うむ、よい返事です」
生徒たちの返事に長岡はにっこり笑って、ケースから指揮棒を取り出した。「チューニングはしてありますね? ではまず、『海の男たちの歌』から始めましょう」とスコアをめくる。
いよいよ、合奏だ。準備をする鍵太郎の横で、池上が言う。
「おい、へっぽこ。おまえはさっき言ったな。チューバは『第二の指揮者』だって」
「う、うん……」
「オレたちは指揮者になれる――思い通りにこの場を動かせる力を持ってる。これからおまえに教えるのは、そんな方法だ。自分の力で、このくっだらねえ世界を変えてみやがれ!」
その言葉とともに、指揮棒が振り下ろされた。
トランペットのメロディーが、朝の穏やかな海を描き出す。そこに鐘が鳴って――そして、荒々しい海に船が出た。
『海の男たちの歌』。
大編成の選抜バンド。その大きなうねりの中で、鍵太郎は池上が、その先頭に走っていったのがわかった。
彼自身が言っていた。「自分が正しいと思う方向を、誰の文句も言わせないくらい精密に作りこんで、誰よりも早く強烈に叩きつけろ」――その、言葉の通りだ。
早い。パート練習のときも思ったが、今はそれよりもさらに早くて、精度が高い。
鍵太郎が思っているタイミングより、コンマ何秒か早かった。
ほんのわずかな差であるが、その早さは確実に、周りの人間に影響し始める。
荒波の中を、全員を導くように方角を指差す。
それはまさに『奏者側の指揮者』だった。
ひょっとしたら、前にいる長岡よりも影響力が強いかもしれない。そんなことを思わせるくらい、池上の指示する方へバンド全体が動いていくのだ。
卒業した先輩しかまともに同じ吹き手を知らなかった鍵太郎は、そのやり方に衝撃を受けていた。
チューバは低音楽器、伴奏楽器という特性上、性格的にディフェンス寄りの人間が集まりやすい。
自分も、先輩もそうだ。選抜バンドの他の面子も。
だが池上は、超オフェンス――攻撃的にもほどがある、そんな吹き方をしていた。
この楽器で、こんなことができるのか。そう思ったとき、曲の切れ目になって長岡が一度演奏を止めた。
そして、こちらを見る。
正確には鍵太郎の隣、池上の顔を。
「きみは――宮園さんの子か」
「ええ、なにか?」
本当に、ケンカを売らんばかりにふてぶてしく笑って、池上は長岡にそう返した。
自分を食いかねないほどの、その凄烈な笑み。しかし長岡は、上機嫌に笑ってそれを流す。
「いいねえ、きみ。宮園さんにもきみみたいな子がいるんだね。少し見習ったほうがいいよ、清住」
「はーい」
少し口をとがらせて、清住が返事した。
そのやりとりが高次元すぎて、鍵太郎は口を挟むことができない。
しかし、これができれば、ひょっとして。
自分が望まない今の状況も、変えることができるのではないか。
その方法を求めて選抜バンドにやって来た鍵太郎は、その予感に震えた。
だが――
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「……おまえのやり方ってさ。……その。それで、大丈夫なのか」
合奏の休憩に入って、鍵太郎は池上にそう言った。
隣で聞いていて、彼の音は本当にすごいものだと思う。
だがそれは、彼の振るう力は――宮園を変える、と言うわりに、質そのものが宮園の色に染まっている気がした。
人の音を強引に引っ張る。
ただひたすらに、支配的。
周りに指示を与え、導いていく様は圧巻だったが――それは鍵太郎にとっては、宮園高校の顧問を連想させるものだった。
一度だけ、その顧問と話したことがある。
正論と言いようでこちらを押しつぶしてくる、そんな威圧的な態度がひどく、印象に残っている。
だからわかる。あいつのそれは、池上のそれを上回っている気がする。
同じ方法で、果たして対抗できるのか。
合奏で少し疲れたのだろう。鍵太郎の問いに、池上はやや緩い口調で返してくる。
「……大丈夫か大丈夫じゃないかじゃねえよ。やるしか、ねえんだ。それだけのことだ」
「なあ。なにがおまえを、そこまで駆り立てるんだよ」
先ほど話していて思った。
彼を支えているのは、現状への憤りと怒りだ。
そしてその中心には、彼女がいるような気がした。
池上は、千渡光莉を責めていない。
むしろ――
「……あのさ。千渡とおまえって、どういう関係だったんだ」
「……どういう関係だったと思う?」
「その。付き合ってた、とか」
試しに言ってみたら、池上に大爆笑された。
わりと真剣に考えていたので、恥ずかしいのをこらえて言ってみたのに。
鍵太郎がむくれていると、池上は「わりぃわりぃ」と全然悪く思ってない口調で言ってきた。
「勘ぐってもらったとこ悪いが、そうじゃない。むしろあいつはオレのことなんて、覚えてねえと思う」
「……なんだ、そりゃ」
「宮園中学も大所帯だったもんでな。全員の顔と名前なんて、覚えきれなかったよ。オレはただ、ひな壇の一番下から、一番上で吹くあいつを眺めてただけなんだ」
別に、親しく話してたわけじゃねえ。
池上がそう言ったので、鍵太郎は怪訝な顔になった。
じゃあ、どうして。
そう訊くと、彼は首を振った。
「……さあな。ただ、あいつが失敗の責任取って髪切ってきたって聞いたとき、オレは本格的に思ったんだ。『ああ、ここは本当にくだらねえんだな』って。さっきみたいな吹き方をするようになったのは、それからだ」
「……だったら」
「勘違いすんなよ」
段々調子を取り戻してきたのか、池上は鋭く言い放った。
「千渡光莉は間違いを犯した。あいつは『全力を尽くさなかった』。それはあいつの落ち度であって、そこは責められるべきなんだ」
「……なんだよ、それ」
言われたことの意味が分からなくて、鍵太郎は眉をしかめた。
光莉が全力を尽くさなかった――そうは、見えないのだが。
彼女はいつも全力だ。それはいつも怒鳴られている鍵太郎自身が、よくわかっている。
中学のときはそうではなかったのだろうか? いや、彼女の様子からしてそんな感じでもない。
ならば、彼女が自覚していない部分で、なにか――そんな風に思ったとき、池上は鍵太郎を見据えて、言ってきた。
「逆に聞きたい。そういうおまえと千渡は、どういう関係なんだよ」
「え、どんなって……」
クラスメイト。
なぜかいつも顔を真っ赤にして怒鳴ってくる、音楽に厳しい友人。
鍵太郎にとって、光莉はそんな感じではあるのだが――池上にはむしろ、彼女と最初に出会ったときのことを言いたかった。
「千渡は、俺が吹奏楽部に引っ張ってきたんだ。なんか入りたそうだったけど、迷ってたみたいだったから」
あのときは、彼女が事情を抱えてるなんて知らなかったが。
けれど声をかけて、よかったと思う。
そうでなければ彼女は、ずっと過去から逃げ回ることになっていたはずだからだ。
続けたおかげでこうして池上という、問題を解決する糸口になりそうな人物にも間接的に出会えたわけだし――と、思って池上を見れば。
彼は鍵太郎が初めて光莉のことを話したときと同じように、少し顔を伏せていた。
「……そうか。おまえが……」
「そうだよ。だから――」
鍵太郎が言いかけたとき、池上はまた、がばりと起き上がった。やはり彼とはタイミングが合わない。
そういう意味では、池上はやはり宮園の人間で――
だからこそ、鍵太郎に言ってきた。
「なあ、ヘタレよ。おまえにひとつ頼みたい」
「ああもう、なんだよ!?」
「あいつがまだ苦しんでるのなら……おまえ、あいつを支えてやってくれないか」
そういう彼の顔はやはり真剣で。
鍵太郎はそんな池上に、顔をしかめて言った。
「……なんだよ、おまえやっぱり――」
「違えよ。バーカ」
そう言いつつも、池上の目はこちらを見つめ続けている。
鍵太郎はそんな彼に、ひとつ文句を言ってやりたくなった。
彼に最初に教えられた、その言葉をそっくり返す。
「楽譜には誠実かもしれないけどさ。おまえは人に誠実なのかよ……」
「……」
池上はなにも言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
それでも自分に目で訴え続けた、そんな彼に根負けして、鍵太郎は口を開く。
「……わかったよ。もとよりあいつの事情を聞いてからは、そう思ってたところだ。教えてくれた礼に――その頼み、聞いてやるよ」
「……ありがとう」
そこで、休憩が終わった。
長岡がまた指揮台に上がる。それを見て、池上は言った。
「……ああ。この選抜バンドも、たいがいくだらねえもんかなと思ってたが――おまえに会えたおかげで、ちっとはマシに思えたな」
これで、少しはオレもマシに吹けそうだ。
そう言って彼は、再び楽器を構えた。




