嵐の後に残るもの
「その右手……」
驚愕で目を見開いたアイシャが声を引き攣らせる。
露わになったのは、ルーカスが切り落とした右手首に嵌め込まれた銀製の義手。テンの攻撃に抉られた痕が日の光を吸い込んでギラリと艶めく。指先は動かないただの添え物だが、意表を突くには十分だった。
「まさかこの手に助けられようとはな。つくづく爪の甘い愚かな弟だ、あいつは」
吹き荒ぶ狂嵐を鎮めた名君ルーカスは、生前に一つだけ過ちを犯した。それは、この怪物の首を落とさなかったこと。
ルーカスが兄の右手だけを切り落として荒野へ追放したのは、ただ一人の肉親に対する最後の慈悲だった。だが「愚かな弟」と吐き捨てるステファンに、ルーカスの思いは欠片も届いていない。アイシャは父を愚弄された悔しさから込み上げる涙を押し殺し、血走る瞳で怪物を睨みつけた。
だがその間にも、鞘に入った大剣をざりざりと引きずったステファンが一歩ずつ距離を詰める。弾き飛ばされたアイシャの剣が落ちたのは、ここからではすぐに手が届かない壁際。代わりにテンが果敢に斬り掛かるが、それも軽々と受け流されてしまう。
「こンのぉッ……!」
「ヴェルナーの爺さんのところの次男坊だな? お前の処遇は一任されていない。邪魔だ、どけ」
「あぁ!? どけって言われてどけるかよ! ――ッ、おわぁッ!?」
南部戦線でカッセルの兵をことごとく蹴散らした黒虎を、ステファンは魔力を込めた大剣でハエを払うように薙ぎ払った。砲弾のような勢いで吹き飛ばされたテンは最初に飛び出した二階の窓を派手に突き破り、屋敷の外へ放り出される。
「テン!」
「アイシャ、下がれ!」
悲痛な声で叫ぶアイシャの背後から、ロイが飛び出した。満身創痍の身体に魔力を流して無理やり剣戟を叩き込むも、それまでに受けた傷が祟って、やはり動きが鈍い。
ステファンはロイの攻撃を軽くいなしながら、呆然と座り込むアイシャへ嘲笑を向ける。
「当主が腑抜けだとあのブラント家ですらこのザマだ。ダリオの威勢の半分もない。歴代最弱の白桜騎士団とは、グリツェラ家の恥晒しめ。持て囃されただけの女の分際で、本気で狼の群れを率いれると思ったか?」
己の剣を通してアイシャが侮辱されたことに、ロイは自分が貶された以上の屈辱を覚えた。戦場を率いる小さくも逞しい背中を一番近くで見て、彼女の牙の一本になろうと誓った。その思いすらも否定された気がして、思考が怒りで燃え上がる。
「黙れ! 己の欲望を満たすことしか考えず、民を苦しめ、ニネミア様を穢した外道が! この国の恥晒しは貴様だ!!」
一方的に貶される主君を背に庇い、剣を交えた個所から光刃が飛散するほどの乱舞を鬼気迫る勢いで打ち込む。だがそれも長くは続かない。鍔迫り合いに押し負け、体勢を崩したところに象のような蹴りが叩き込まれる。骨が軋む嫌な音と共に、ロイの手から剣がカランと滑り落ちた。
「く、そっ……!」
「弱さは罪だぞ、ロイ・ブラント。弱い当主の元でなら尚更な。少なくとも、俺の騎士団にお前は要らん」
言い切るなり、続けざまに勢いよく大剣を振り切る。大きく吹き飛ばされたロイが硬い柱を砕いて崩れ落ちた。
後頭部を強く打ち付けて気を失った金獅子がぴくりとも動かなくなると、謁見の間にわずかな静寂が訪れる。だがそれも鞘が床を擦る音に遮られた。ザリザリと不穏な音がアイシャへ真っ直ぐ向かう。剣を失い牙を折られてへたり込む無力な存在を見下ろし、狂嵐はその威勢を強めた。
「戦時下で男に現を抜かしているような腑抜けた当主に何が守れる? 口先だけの女にいったい誰がついて来る? こんな弱い国に誰がした?」
「そ、れは……」
カラカラに乾いた喉から引き攣った声が漏れた。何も言い返せず、迫る脅威をただ見上げることしかできない。真っ白になった頭の中でミスティの歓声が蘇り、ガンガンと痛いくらいに反響する。
あの時、自分は剣を持たないで何をしていた?
幸せを祝す民の声に心が弾んだのは、本当に正しかったのか?
シオンに身も心も預けて幸せを享受することは、間違っているのか?
わからない。それまで築き上げた全てを吹き飛ばすような暴風に晒され、アイシャの心が激しく揺らぐ。
与えられてばかりで。守られてばかりで。「それでいい」と言ってくれる人たちの優しさに甘えてばかりで。死を越えた先で今度こそ戦うと誓って握ったはずの剣が、今はあんなに遠くにある。
人道も倫理観も無視して暴論を振り回すステファンは、一つだけ正しいことを言った。
(私は、弱い)
やがてアイシャの膝先まで辿り着いた影は、悠々と大剣を振り翳した。
「女は女らしく、褥で男の鞘にでもなっておけ。ここにお前の座る椅子はない」
振り下ろされる剣圧を浴びて一歩も動けずにいるアイシャの眼前に破砕の鞘が迫る。だが何かの衝撃でわずかに軌道がずれ、失意でへたり込んだ両膝の間の床を砕いた。
中庭へ続く扉の方から清廉な、だが怒気に満ちた足音が響く。
「狂嵐、今日はもういいだろう」
指先から魔力の弾丸を飛ばしたシオンが威圧的な声で告げた。底のない怒気を表すように、菫色の瞳が荒れ狂う魔力で内側から煌々と輝く。
「下見と言ったな? ならもう十分のはずだ。さっさと飼い主の元へ帰るといい」
「ほう……? 俺がいつ誰かの使いだと言った?」
「テンに手を出せないとなれば、大方ヴェルナー公か、もしくは彼の支持が必要な兄上に飼われているんだろう? それか同盟協定を結んだルプスレクト家か……まぁ誰でも構わない。鞘から剣を抜かないのも様子見を言い渡されているからだ。よく躾けられているじゃないか。大仰な銀の義手も、その主人に貰ったのか?」
鉄鎖を厳重に巻きつけた大剣と剥き出しになった右手を見据え、シオンが嘲るように鼻で笑う。アイシャへ向けていた関心を逸らされたステファンは、巨体をゆらりとシオンへ向けた。
「そこまでわかっていながら俺をみすみす逃がすのか? 相変わらずの腰抜けだな」
「相手がわかっていれば脅威ですらない。国盗りの協力を餌にまんまと首輪をつけられたようだが、今のうちに逃げ出した方が身のためだぞ。兄上は自分に弓引いたグリツェラ領国を放免するような慈悲は微塵も持ち合わせていないからな。お前が当主の椅子に座ったとたん、授けた首輪で絞め殺すだろう」
眉をひそめたステファンは、ややあって大剣を肩に担いだ。そして未だ立ち上がることもできずにいるアイシャを冷めた視線で見下ろす。
「どの道お前のような軟弱者が治める限り、グリツェラ領国は破滅する。さっさと身を引いて、あのクソッタレ皇子の苗床にでもなっていろ」
「っ……!」
「それ以上彼女を口汚く罵れば脳天をぶち抜くぞ。今すぐ消えろ、目障りだ」
怒気を孕んだシオンが指先に魔力を集めた。それはステファンが持つグリツェラ家の魔力量を優に上回り、防ぎようのない威力をまざまざと物語る。
「フン。半血とはいえ、女神の系譜はこれだから厄介だ」
「望むならその身に流れる七聖家の血を思い出せるよう跪かせてやろうか」
「俺は馬鹿な弟のように敬虔ではないのでな。その時は遠慮なく噛みつかせてもらおう。それまでせいぜいこの見てくれだけの雌犬を愛でて楽しむといい」
男に守られるだけの脆弱な姪へ最後に嘲笑を投げ捨て、ステファンは正面扉から我が物顔で外へ出た。嵐が去った桜の館にようやく呼吸できるような空気が満ちる。シオンは警戒を解き、急いでアイシャへ駆け寄った。
「アイシャ、深手は負ってないな? ああ、よかった……!」
震える声が彼の安堵を物語る。そして今にも崩れ落ちそうな肩を抱き寄せようと手を伸ばしたのだが、表情を硬く強張らせたアイシャが膝で床を擦り、後退った。指先が宙を切った理由がわからず、シオンが不思議そうに首を傾げる。
「アイシャ……?」
「……ミスティに行かないで、ここにいるべきでした」
確かに幸せを感じたあの時間を悔いるほどの自己嫌悪が、胸の内に渦巻く。
アイシャが桜の館に留まっていたところで、狂嵐を前に何ができたわけでもない。だが、少なくともこんな後ろめたさを抱かずに済んだはずだ。自分のために戦ってくれた彼らが目覚めた時、どんな顔でどんな言葉をかけたらいいのだろう。
口の中に広がったブルーベリータルトの甘さも、彼の腕の中で見下ろした愛する民や街も、身体の芯から蕩けるような口付けも――今は全部、思い出すだけで苦しい。
「あなたに愛されると、私は弱くなる。……弱いのは、嫌です」
一方的に突き放した声は、今にも泣き出してしまいそうなほど震えていた。
言葉を失うシオンに力なく背を向け、アイシャは物陰に隠れた使用人たちに声をかけて負傷者の救護を始める。
狂嵐が過ぎ去った後も立ち込める曇天は晴れることなく、想い合っていたはずの二人に暗い影を落とした。
第四章 来たる狂嵐 -完-
<あとがき>
嵐の後に残ったのは、不穏でした(ΦωΦ)(デェーーーーン!!!!)
はい、すみません、これにて第四章は完結となります。
前半の砂を吐くほどの甘々を、最後の最後にステファンおじが塵芥にしてしまいました。何てことをしてくれたんだ!!(←書いた人)
と、とりあえず第四章の振り返りを……。
第四章はですね、カクヨムの溺愛コンに参加するために6万字に抑え込んでいたあれこれを大放出した加筆から始まり、サイドキャラたちにも焦点を当てながら書けて、とっても楽しかったです。
時すでに遅すぎたテンくんの片想いも、腹黒顔面最終兵器ロイさんも、最強メイドソフィアさんも、みんな愛おしいですね。これから背筋が異常発達するであろうグリツェラ領国民もおもろかわいくて気に入ってます。
それを全てぶち壊した、ステファンおじ。
女性読者が多いであろうロマンスファンタジーで女性蔑視をすな!
ヒロインの母ちゃんまで手籠めにすな!
幸せな愛されヒロインを全否定すな!
こんな地雷原みたいなステファンおじですが、敵キャラとして私はわりと気に入っていまして(おじの思考や行動を肯定しているという意味ではなく)。
ただ甘いだけでは満足できない人間なので、ヒロインにはたくさん壁にぶち当たってもらいたくなってしまう。その壁も剣山が生えてるような殺傷能力の高いものであればなお興奮します。そう、ステファンおじのように。
だって一度はボロ負けした相手に仲間と一緒に立ち向かって勝利を掴むのは最高のカタルシスでしょう!? えっ、ロマンスファンタジーでやらんでも? それは、うん、本当にごめん!!!!!
でもでも! 刃物姫をここまで読んでくださったということは、あなたもボコボコに叩きのめされたヒロインが不屈の精神で立ち上がって最愛の人から愛される極上の甘辛い幸せを愛でる性癖フレンズでしょう!? そんなあなたに朗報です!(やかましい)
辛いことがあった後は、甘い時間が待っています。
メンタルをメッタメタのバッキバキに折られたアイシャちゃんを全力でヨシヨシする第五章は、鋭意執筆中です!
これからも加減知らずの飴と鞭に打たれて強く美しく研ぎ澄まされていくアイシャちゃんをお楽しみに✨
ただ、しばらくは公募の締切に追われていると思うので、作品ブクマはそのままに、気長にお待ちいただければ幸いです。また、少しでも面白いなと思っていただけたら、評価で応援していただけると大変嬉しく思います。
また物騒で甘やかな刃物姫の物語をお楽しみいただけるよう、がんばります!
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!




