場末のカウンター席
「よお兄ちゃん。飲まねえのか」
はっ、とした。一人の男のダミ声がやけにはっきりと聞えてきたと思ったら、すぐ後には俺の周りをやかまし過ぎるくらいの喧騒がわっと包み込んだ。
「あ……あ……?」
「おいなんだ。聞こえなかったのか? こいつを飲まねえのかって聞いてんだ」
声のする方に首を振る。木でできた立派なカウンターの隣席には、赤ら顔で片手に酒を持った男が座っていた。
白いひげをぼうぼうと生やしている。小じわが顔全体に刻み込まれていて、潤んだ瞳は小さい。見るからに馴れ馴れしそうな雰囲気だが、どこか愛嬌があるように思えてしまう。
「兄ちゃん、大丈夫か? そんなにボーっとしてるとせっかくの泡が吹き飛んじまうぞ?」
言って、黄金色に輝く炭酸水をぐびっと豪快に飲み込んでいく。ごくん、ごくんという音と共に揺れる突き出た喉仏。男が幸せそうに吐息を吐くまで見ていた俺はそこでやっと、自分の手元にも同じ酒があることに気づいた。
「あ゛ーーー! うめぇなーーーーー! アンジュ! こいつは上等だぜ!」
男が顔を盛大に綻ばせながらカウンター越しに笑いかける。少し離れた場所に立っているマスター然とした女性は、たりめーだろ! と顔に似合わない声量と勢いで男に返した。
ここは一体どこだ? 俺はいつからここにいるんだ? いったい今は何時だ?
腕時計を見ようとして左手首に視線を移す。時計がない。しかし、着ているのは見慣れたスーツ。どうなってるんだ?
「あの……」
「あ~ん?」
男に聞こうと声を出したところで、男は赤らんだ耳に手を添えて身をにじり寄せてきた。
「聞こえねーなぁ~。もっとドでかい声でしゃべってくれ!」
「あの!! ここはどこなんですか!!」
大きな耳へ叫ぶように怒鳴る。男はそれでも気にしていないように、少し笑いながら姿勢を戻すと、旨そうに一口飲んでから言った。
「げひひひ。お前、自分の来た店の名前もわかんねーのか。呆れたねぇ。とんだあんぽんたんだぜ」
むっとした。が、口をつぐんだ。
「おいおい。とりあえず一杯飲めよ。そうすりゃ店の名前くらい思い出すってもんだぜ」
男は能天気に笑みを浮かべ続けている。
癪に障ったが、言われるままに酒を口に運んだ。飲みなれた苦味と強い泡。口の中から、一気に腹へ潜り込んだ。
「いいねぇ~~~! いい飲みっぷりじゃねーか! そうだ! せっかく飲むんだから、そんな辛気臭ぇ顔してちゃなんねぇよな!」
盛大に笑いながら、まるで乾杯するようにグラスを掲げた男もまた、ぐびりともう一口を頬張り始めた。
腹の中から湧き上がる熱気を感じながら、振り返って店内を見渡す。木目の内装。意外と広い奥行き。幾つも並んだテーブル。そして映るのは、それぞれに笑い声を飛ばしまくるナニモノかの姿。
「な、に……? なんだってんだ……!?」
「あ~~~?」
俺の独り言に男が意味不明な相槌を上げる。それでも、そんなことどうでもよかった。
振り返った先にいる奴ら全員が、物々しい武装に身を包んでいた。アニメやゲームで見かけるような衣装。肩を守るプロテクターや、胸を守る防具。重軽装それぞれに特化した服装。そして武器。剣はもちろん、傍らにどでかい斧を立てかけている奴もいる。
「気にすんなよエド。別に珍しかねーって」
エド? 俺のことか?
「俺はエドじゃない。有島 拓斗だ」
「あーーーーーー。じゃあタクト。へへへ! そんなに面食らってんなよ。ほら、酒飲め酒!」
突き出される酒にたじろぎながら、俺は姿勢を戻して自分の杯をあおった。さっきより増したように感じる苦味が、俺に妙な違和感を飲み込ませる。
「酒はァ、いいぞぉ。楽しく飲まなきゃな!」
いつの間にか回された腕に左肩をバンバン叩かれながら、俺は眉間に皺を寄せて酒を飲み続けた。
それしか、できることが思いつかなかった。
「……疲れたんだ。もう、全てに疲れたんだ」
「な~~~~~~~~~~んだよタクトぉ! お前疲れてんのかよォ!!」
やることも思いつかず、流されるままに何杯目かのグラスをテーブルに叩きつける俺に対して、ジドは磨きのかかったダミ声で唸り上げた。
「何に疲れたんだよォ。言ってみィ?」
「もうたくさんなんだよ! 仕事はメチャクチャ忙しいし、家じゃ全然落ち着かないし! 大人ってなんなんだよ! そんなに自分ひとりで全てを背負わなきゃいけないのかよぉ!!」
ガチン!! と、グラスが音を立てる。そして俺の顔も、カウンターの台に沈む。
「俺が一体何をしたんだ……。なぜ生きてるんだ。頑張るってどこまで頑張ればいいんだ。迷惑をかけることはそんなにいけないことなのか」
「哲学だねェ~~~~~~~~! お前思い切って学者にでもなっちまえよ!」
「茶化さないでくれ!」
お気楽もお気楽なジドに向かって叫ぶ。ジドは面白おかしそうに意地悪そうな笑みをたたえていた。
「自分でも甘ちゃんだって思ってるよ……。結局は要領の悪い自分が悪いんだってことも……。だけど、だけど……。俺は一体何になればいいんだ! 俺は一体、何に、何に……」
言っていて、惨めだ。そして、何になればいいかなんて答えがないことくらい、自分でもわかっている。
だけど言わずにはいられない。そして言った分だけ、目の奥から涙が溢れて、止められない。
「悩んでるなぁコイツ」
「ああ。ぜってー禿げるな。コイツもう終わりだ」
「禿げねーよ!!」
いつの間にか左の席を陣取っている爬虫類男とジドに叫び返した。急に身を起こしたせいで、軽くめまいがした。
「禿げてたまるか! 俺の髪は俺のもんだ! ぜって―誰にも渡さねぇ!!」
「バァーカ! お前の髪なんかいらねーっつーの!」
「俺なんか最初からねーぞ!? ほれ、触ってみここ」
「うるせー! リザードマンなんかに俺の気持ちがわかってたまるかぁ!」
鋭利な爪で示しながら自分の頭を差し出してくるリザードマンに叫び返す。ゲラゲラ笑いこけるジドは、その様子を見てまた一段と笑いあげた。
「もうたくさんなんだよ! 責任とか自立とかさぁ……。もうやだぁ……。やだよぉ……」
「ばーか。泣くんじゃねーよ」
「そうだぜ? なあアンジュ」
心のどこかで惨めさを感じながらも、さめざめと流れる涙とプライドも何もない言葉に、俺はどこか胸が軽くなる思いだった。
大人になってから、こんなに素直に言葉を吐き出せることなんて、今までにあっただろうか?
ほとんどなかった、と思う。必ずどこかに誰かがいるか、逆に独りぼっちで話を聞いてくれる人なんていない。愚痴を言えば苦笑いして受け流すだけだし、そもそも心情を吐露して受け止めてくれる人なんか、俺の周りにはありえなかった。
いつも一人だ。俺は。
ガキの頃からお世辞にも上手いことやれたわけじゃなかった。輪に入ることが苦手で、繋がりなんて希薄もいいところだ。それは大人になってからも変わらない。そして能力があるわけでもない。何かに突出して重宝されるならまだ居場所を見つけられたかもしれないけれど……。それを言えば、必ず「君は努力をしたのか?」という答えられない正論が口を開けて待っている。だから何も言えなかった。そして封じられた唇は、俺に見えない圧を掛ける。
「辛ぇなぁ。そしてこれからも、辛いことは待っている……と」
ジドの声が、やけに響いた。
そうだ。だから俺は、海を見に来たんだ。
そして、見ていて、俺は。
俺は……………………それから、どうなったんだっけ。
「バオ。おめー、どう思う?」
「んー。俺は生まれた時から戦士だったから、自立とか責任とかあんまり考えたことねぇな」
右から、左。リザードマン、バオっていう名前だったのか。
「ほら、俺戦士じゃん? こんなナリだけど怪物と戦うじゃん? 一発やられたら死ぬじゃん? あっけないじゃん? だからそんなに深く考えたことねーなぁ」
「……所帯とか、持つだろ……?」
涙の流れる顔を持ち上げて、バオに問いかける。
バオは俺を一瞥したけど、笑わずにカウンターへ背中を預けたまましゃべり続けた。
「持つけど、なー。カミさんも一人で十分やっていけるヤツだし、ガキもそれなりにやるんじゃねーかなんて思ってるしなぁ~」
「責任感ないね!」
カウンターから声が飛んできた。アンジュ、さんだ。
「あるわ! だからこうして生き残るように頑張ってんだろ!」
「ひゃはははは! ちげーねぇ!」
凛とすましたアンジュさんに睨みを利かせるリザードマン。それでも、アンジュさんは動じない。
俺より全然若く見えるのに、すげーなぁこの人。
「アンジュ~。お前も旦那がいないと頑張れない性質か?」
「見くびんなよリザードマン。私がそんなか弱く見えるのかい?」
「あっはっは! だから好きだぜアンジュ~!」
大きな口をがっつり広げてバオが笑った。牙ヤバい。めっちゃ尖ってる。
「まぁ~おめーもよ? 責任とか独り立ちとかいろいろ言われてアレだろうけどさ、ようは好きに生きていきゃいいんじゃねーのか? ヒューマンのお前には法と秩序ってもんがあるんだろ? 逆らわなきゃいいって聞くけどな」
「そうもいかないんだよ。あたしら人間はさ」
アンジュさん……。同じ人間だったんだ……。
「なんか言った?」
「なんも言ってないっス」
あぶねー。言ってないのに怒られるところだった。
「アンジュ―。お酒ちょーだい」
少し酔いが醒めたところで、バオの向こうから女性の声がした。
「お! レガリア! 元気だったか!」
「魔法少女! お酒飲んでいいのかよ!」
「うっさいジド! 私の故郷じゃ立派に成人だわ!」
負けん気の強い声に、抱いていた魔法少女のイメージが崩壊する。
あれ? 少女?
「そこのヒューマン。血の海に沈めっぞ」
「ごめんなさい。なんでもないです」
爆笑の旋風が、俺を中心に巻き起こった。




