91.幕間 彼が生まれた日 後編
とりあえず、歩いた。
夜だからだろうか。
あの人間以降、誰とも会わなかった。
舗装された道路をしばらく歩いた彼の感想は、『凄い』の一言に尽きた。
整備された街道には等間隔で光をともす柱が建てられ、真夜中であっても周囲を明るく照らしている。
一体どういう仕組みになっているのだろう?
好奇心がくすぐられる。
しばらくすると、明かりは消えたが、夜目が使える彼にとってはさして問題はない。
ただ、その美しい明かりが消えるのは、少し残念だった。
それから五分くらいだろうか。
目の前に大きな建造物が見えてきた。
一体なんだろうか?
近づいてみる。
大きな建物だった。
人間が建てたのだろうか?
だが人間の気配はしない。
どうしようか迷う。
周囲を見渡す。
結局、彼は好奇心に負けて建物に入る事にした。
入口と思われる場所から入ろうとした彼は途中で何かにぶつかった。
ゴツン、と音がした。
なんだこれは?
見えない壁によって、彼は阻まれた。
もう一度、中へ入ろうとする。
再び彼は見えない壁にぶつかった。
苛立つ。
訳も分からず『見えない壁』をドンドンと叩いてみる。
何の知識もない彼には、それがガラスという物質である事が理解できなかった。
叩く、叩く、叩く。強めに叩く。
すると、見えない壁に亀裂が走った。
彼は笑みを深くする。
この見えない壁は、壊せる。
更に強めに叩いた。
ガッシャアアアン!と見えない壁は、音を立ててあっさり壊れた。
もう一度、手をかざす。
先程見えない壁があった箇所を、手が通過した。
中に入れるようになったようだ。
ぺたぺたと彼は館内を歩き回る。
足の裏にガラスが刺さるが、この程度彼にとっては痛くもかゆくもない。
それからしばらくして、彼の眼に本棚が映り込んだ。
おもむろに、彼は本棚から一冊の本を手に取ってみる。
何かがびっしりと書き込まれていた。
彼は知らなかったが、ここは図書館という場所だった。
本を興味深く眺め、やがて彼は理解する。
これは人間の知識―――その記録だ。
人間とは賢い生き物だ。
彼らは経験した事を忘れないためにこうして、自分の頭以外の別の場所に経験を残すのだ。
でも、彼にはこれが読めない。
何らかの規則性に従って、書きつづられているのだろう事は分かるが、読めない事には話にならない。
「…………」
それでも、彼は無我夢中でページをめくった。
すると文字ばかりでなく、絵が入ったページが現れる。
それは俗にいう、動物図鑑という物だった。
動物の絵、その下に文字がある。
これは多分この生物の名を示しているのだろう。
これはありがたかった。
絵と、文字を照らし合わせれば、なにか規則性が分かるかもしれない。
読む、読む、読む。
異なる動物の名前に、同じ文字が使われてる箇所があった。
なにか法則があるのだろう。
ではその法則は何だ?
名前で同じ文字がつかわれる理由―――すなわち発音だ。
同じ形は同じ意味。
うんうんと、頷きながら彼は次々に本を読んでいった。
動物図鑑に、植物図鑑、昆虫図鑑に、宇宙図鑑、その次も、その次も。
書いてある単語を一つ一つあさり、文字の法則性を見つけていく。
すると名前の単語の他に、単語と単語を繋ぐ文字、単語の状態をあらわす文字、更に数や規模を表す数字など、文字には様々な種類がある事が分かった。
彼は夢中で読み耽る。
ただ、少しだけ我儘を言えば、この不快な『音』だけはどうにかならないだろうか?
先程からウーウーと、けたたましい音が鳴り響いている。
自分がこの建物に入った時からだ。
『結界』が破壊されたことを知らせる音かと思ったが、それにしては人間が駆けつけてこない。
そもそも、この建物には人間がいなかった。
これだけ大きな建物なのに、なぜ人間が居ないのだろう?
だが、すぐに興味は失せ、目の前の本に再び意識を集中させる。
そうしてどれだけ時間が経っただろうか、外はすっかり明るくなっていた。
見れば自分の足元には本が大量に散らばっていた。
夢中になると、時間が過ぎるのは早かった。
文字の法則はだいたいわかった。
次は発音だ。
文字の形や文法を理解できても、それを口に出して発音するのは全くの別問題だ。
ではどうすればいいのか?
簡単だ。
知らないのなら、知っている者に聞けばいい。
狩りの時間だ。
建物から出ると、朝日が彼を迎えた。
眩しくて目を細める。
そんなどうでもいい事にも、彼は笑みを浮かべた。
以前なら、こんな事も味わう事が出来なかったからだ。
ゾンビは基本的に、獲物は音か気配で察知する為、視力が低い。
でも今は違う。
以前よりも、明らかに目が良くなっている。
周囲の景色が良く見える。
つくづく今の自分に感謝する。
周囲を見渡す。
煙が見えた。人の悲鳴があっちこっちから聞こえた。
気配など感じずとも、どこに人間が居るかなんて丸わかりだった。
人の気配がする方へと移動する。
しばらく歩くと開けた通りに出た。
地面のあちらこちらにひびが入り、所々が隆起している。
昨日の地震の影響だろう。
物陰に隠れながら、彼は周囲を見渡し―――獲物を見つけた。
視線の先。
そこには二人の人間が居た。
怪我をした少女と、それを背負って移動している少年だ。
他に人間の気配はない。
狙い目だ。
すぅっと気配を消し、ゆっくりと人間たちの背後へと忍び寄る。
茂みから一気に駆け寄り、先ずは男の方の喉元に喰らい付く。
「―――っ!?な、コッチにもゾンぎゃっ!」
喉を食いちぎられ、少年は一瞬で絶命した。
≪経験値を獲得しました≫
≪ のレベルが1から2へ上がりました≫
頭の中に声が響く。
その声を気にする事無く、怪我をした少女に近づく。
彼と、喉元を抉られた少年の姿を見て、少女の表情は絶望に彩られてゆく。
どうしてそんな表情をするのか?
彼にはまだ『感情』を理解出来なかった。
「ひぃ……いやぁ、ああ……」
震える少女に近づく。
すると、少女は悲鳴を上げて逃亡を試みた。
だが、当然逃がすわけがない。
脚を掴み、引き寄せ、組み伏せる。
昨日見た本に載っていたので試してみた。
こうすれば、人間は構造上動きが取れなくなると。
文字ではなく、図解で載っていたので彼にも理解出来た。
「痛っ……うあ、あああ……」
案の定、怪我をした少女はあっさりと身動きが取れなくなった。
やはり知識は凄い。こんな簡単に“力”が手に入るなんて。
彼は知識も“力”だと考えていた。
故に欲する、貪欲に。
そのまま少女を引きずり、先程の建物へと向かう。
抵抗されたので、強めに殴り大人しくさせた。
図書館に到着すると、彼は引きずってきた少女に本を押し付ける。
「え?……あの?」
「■■」
「え、あ、え……?」
読め、と彼は言ったのだが、少女は己の言葉が理解出来ない様だった。
仕方がないので、彼は身振り手振りで、『本を読め』と伝える。
すると、ようやく少女もそれを理解したようだ。
震えながら、少女は言われた通りに、本を音読した。
彼はそれを一言一句、噛みしめる様に記憶していく。
内容―――と言っても読めない為、丸暗記に過ぎないが―――は頭に入ってる。
あとはその発音だ。
発音さえわかれば、知識に対する理解度が格段に上がる。
二冊、三冊と読ませ続けている内に、彼は凄まじい勢いで文字を理解し始めた。
言語は日本語。
使われているのは、漢字、カタカナ、ひらがなの三種類。
それらを組み合わせてひとつの単語、文章を作っている。
素晴らしい。新しい知識が自分の中にどんどん入っていく。
どんどん自分の力が高まっていくのを感じる。
彼は感動して、次々本を読ませた。
「―――もういい。大体理解した」
そう言われて、少女がビクリと震える。
そして、驚きの表情を浮かべた。
言葉の通じないと思っていた目の前の存在が急に自分達と同じ言語を話したからだろう。
「あの……え、言葉が……分かるんですか?」
「ああ、君のおかげで理解出来た」
彼は笑みを浮かべる。
釣られて少女もどこかほっとした表情を浮かべた。
言葉が通じた事で、彼女の中に少しだけ希望が生まれたからだろう。
「あ、あの……言う通りにしたんですし、お願いですから助け―――あきゃ」
「用済みだ」
彼は躊躇なく少女の首をへし折った。
あっさりと、少女は絶命した。
用が無くなった。だから処分した。ただそれだけ。
≪経験値を獲得しました≫
頭の中に声が響く。
だが気にする事なく、『彼』は物言わぬ亡骸となった少女を見つめる。
「……えっと、こういう時は、確かこう言うんだったな」
彼はもう一度、満面の笑みを浮かべ、
「―――“ありがとう、感謝するよ”」
覚えたての言葉を使う事が出来て、彼はとても満足した。




