恋心
楽の音が淑やかに響き渡る庭園は闇色に沈んでいる。足元だけを照らし出す灯篭は、歩く客の顔を浮かび上がらせないよう細心の注意を払われて取り付けられた。庭の中に作った小川が心地よい水音を立てて、川の中を覗き込む男と女の距離を近づける。躍る魚に目を奪われた女とそれを見つめる男。遊女と恋仲のような一時を楽しむ客の影を遠目に見やり、彼は両手を交互に袖の中に隠した。
彼は玄関から入って来る客と、庭を行く客を見守るためにその闇の中に居た。客の浮いた気分を沈めぬよう、姿を見せないように振る舞う内に、彼は気配を掻き消す術を身に付けた。
本館の壁際に凭れかかった彼の頭上には、花が練り込まれた提灯が吊るされていた。提灯の明かりは弱く、それはただの飾りだった。ぼんやりと灯るそれの下に深く落ちた闇の中に目を向ける者はない。
その提灯を吊るした屋根の上に、闇色の男が舞い降りたのは、夜も深い、月が煌々と金色に輝く頃だった。男は屋根に屈みこみ、軒下を覗き込んだ。
屋根の上に物音を感じた彼は、ちらと顔を上げた。だが彼はなにも無かったかのように視線を庭に戻す。その頭に声が降る。
「何してるの」
彼は長閑に応じた。
「仕事だよ……」
「客の逢瀬見るのが?」
「……遊女に何かあってはいけないからね……」
遊女を庭で襲われてはたまらないと彼は言った。男は鼻を鳴らす。
「どうせやるんだから、どこでやっても一緒じゃない?」
無邪気な物言いに、彼はくつりと笑った。
「物事には則というものも必要なんだよ……。手を出したくても手を出せない、その焦れを楽しむのが……いいんだよ」
「そんなもの?」
分からないと言わんばかりの声に彼が目を細めた時、ぽたりと何かが地面に落ちた。軒下に落ちた液体に目をやった彼は、視線を庭へ向け直した。そして吐息を漏らした。
「もう、よさないか……」
「だって腹立った」
「……」
男は楽しそうに笑う。
「あ、でもさ。今回の獲物が手に入ったら、多分もうやめるよ」
「……獲物……?」
彼の声が僅かに曇った。男はそれに気づかず声を弾ませる。
「綺麗な女、見つけたんだ。すごく綺麗だった。欲しい」
彼は橋を渡る男女に目を据えた。
「欲しい……? 恋仲として……?」
男はくくくと声を漏らす。
「恋仲? それもいいかも。しばらくは」
「……その女も、手に掛けたいのかい……?」
「うん」
彼の声が沈んだ。
「お前は……お前を汚そうとする輩から逃れるために……その力を使っていたんじゃないの……」
「……」
「その女が、お前の何を脅かすのだい……」
「……」
「……命を奪うよりも、共にありたいと願えば良いじゃないか……」
男は立ち上がった。
「でもさあ、あの女、別の男の所有物なんだよね。絶対普通じゃ手に入らない」
「……所有物なんて……」
言い過ぎだろうと言いかけ、彼は口を閉ざした。彼はしばらく黙りこんだ。そして、穏やかに言った。
「……手に入らないものもあるよ……」
男は舌打ちする。
「詰まらない事、言わないでよ。簡単でしょ。殺しちゃえば手に入る。あの女の全部は、すぐに手に入る」
「生きていてほしいと……思わないの……」
男は低い笑い声を漏らす。
「お前は好いた女にはそんな風に思うんだね。面白いね」
普段は男に合わせて笑うところだった。だが彼は、今回だけは笑わなかった。言葉を探して、溜息を漏らした。
「……ねえ、それは。それは……天上人のこと……だよね……」
男は屈託なく応えた。
「うん」
彼は淡々と世界を見ている。
「……誰も手に入れることはできないよ……」
「できるよ」
彼は初めて強く言った。
「やめておくれ」
男は素直に驚きを声に滲ませた。
「なんで? お前も、好きなの?」
「……戻れなくなるよ……」
男はきょとんとあどけない表情を浮かべた。
「どういう意味?」
「この世には、手を出してはいけないところがあるんだ……」
男の口がにいと吊り上る。
「いいじゃない。誰もが必要とする女を、この手で壊すんだよ。すごく興奮する。早くやりたい」
くくくく、と笑い声が響く。彼は眉根を寄せた。
「この世を敵に回しても……欲しいのかい……」
男は無邪気に答えた。
「うん」
「皆がお前を許さないよ……」
「いいよ。それも面白い。あの女と一緒に死ぬのもいいかも」
「……私も、お前を憎まなければならなくなるんだよ……」
男は楽しそうに笑う。
「お前さあ、はっきり言わなかったけど、あの女に会っただろ。俺らの前で話さなかったのは、自分の腹の内が透けるかもしれないって、怖かったんだろ。お前の演技なんかすぐに分かる。お前はあの女に会ったとき、興奮したんだ。組み敷いて、着物を引き裂いて、ぐちゃぐちゃに抱きたいって思ったはずだ。なのにお綺麗な仮面をかぶって、興味ない振りしたんだろ」
彼は答えない。
男は笑い声を漏らした。
「手ぇだしちゃいけないんだから、余計に欲しいよな。あんな女、初めて見た。あの女を抱いてるのがあの男だと思うと、すげえ腹立つ。殺したい」
「……」
「でもあの男の前で殺さないと楽しくないから、勿体ないけどあの女も殺さないとね」
彼の口は物言いたげに開いて、そして閉じた。
「でも今日は失敗しちゃった。せっかく目の前にいたのに、どうして盗って来なかったんだろ。つい触るのに夢中になっちゃった。いい体だった。欲しい」
彼は目を見開いた。直ぐに表情を取り繕い、袂の中で拳を握った。彼の拳は微かに震えた。
「何をしたんだい……」
男は彼を嘲笑した。
「お前が触れもしなかったあの女を、少し穢してやっただけ」
「……それ以上は……およし」
男の声は楽しそうに揺れる。
「嫌だよ」
「お願いだ……」
男は声を上げて笑った。
「お前の願いでも聞いてあげない」
彼は男をふり仰いだ。
「……この世界から、あの方を奪ってはいけないんだよ――」
男は闇夜に舞い上がった。男は目を見開いて笑っていた。
「お前も狂えよ……。楽しいなあ。この世を絶望に落とすのは、最高にくるよ……っく、ははははは!」
哄笑が辺りに響き渡る。




