血濡れた手のひら
剣が鞘を打つ音で、ビゼーは背後を振り返った。アラン殿下が剣を納めたところだった。燐光に包みこまれた少年は、生きている様子だ。彼の脇で座り込んだ神子は項垂れ、表情が見えない。
尋常でない量の己の月の力を使ったはずのアラン殿下は、荒い息を吐きながら声を張った。
「撤収せよ! 民に負傷者が無いか確認を怠るな! ビゼー、その子供を州城へ連れていけ。ソラ!」
投げ捨てられた少女が少年の元へ戻らないように抱えていた若い兵が顔を上げた。青ざめた兵にアラン殿下は言い付ける。
「その娘も州城へ運べ!監視を付けるのを忘れるな……っ」
彼の喉が奇妙な音を立てている。乾いた喉を何かが凝って呼吸を邪魔しているような音だった。おびただしい汗がこめかみから顎へ流れている。唇の色が紫に変色していた。
「殿下、ご無理を──」
「黙れ、早く動け!」
ビゼーは言葉に詰まり、子供を抱え上げる。
彼が急ぐ理由はよく分かっていた。街は騒然としていた。酔客で溢れかえるこの街に長居することは危険だった。勘違いをした民が徒党を組んで神子に襲いかかっては、いくら王族の威光をかざしたところで守りきれない。
そんな恐怖を覚えるほどに、民の驚愕と不安は交錯していた。始終を見ていた民は問題がない。だが野次馬として過程を知らず状況を覗き込んだ民にとっては、神子が人を殺したようにしか見えないのだ。
野蛮な噂に染め上げられた民が、神子を糾弾するまで時間の問題だった。
屈んだ拍子に見上げた神子は、目を見開いたまま呆然としていた。腕はだらりと地に落ち、力も入らない状態であるのは明らかだ。彼女が動かないのは、動けないからだ。
彼女の腹に太い腕が回る。普段ならば両腕で抱え上げるところを片腕で持ち上げるのは、それが困難だからだった。今屈みこめば、アラン殿下は立ち上がることさえ出来ない。
無理やり立ち上がらせられた神子の腕が反動でアラン殿下の首に触れる。血のついた彼女の手がぴちゃりと音を立てた時、彼女の掌が発光した。
「――っ!」
アラン殿下は驚愕に目を剥いた。力なく垂れるだけだった彼女の手が、彼の首を掴んだ。見開かれた彼女の漆黒の瞳は人形のようにどんな感情もなかった。
背筋が凍った。まさか――アラン殿下の月の力を奪っているのではと、ビゼーの体が強張った。
アラン殿下の口から苦しそうな声が漏れる。
周囲に散った兵達の動きが止まった。きん、と耳鳴りがするほどの緊張が走った瞬間、彼の声が漏れた。
「や……っめろ!」
彼女の細腕を引きはがし、彼は怒鳴った。
「いい加減にしろ! 俺の許可なく力を注ぐことは禁じたはずだ! 何度勝手をすれば気が済むのだ、お前は……っ、お前は! お前は……っ」
彼の言葉はそれ以上続かなかった。彼の顔が歪んだ。苦しそうな息が喉から洩れているが、彼の顔色は平生と変わらぬ状態に戻っていた。彼の苦しそうな声は、彼が必死に感情を殺そうと努力しているからだった。
いつ失うかも分からない恐怖と日々向き合いながら生きている彼にとって、この状況は残酷に過ぎた。子供を救うだけでも神子を失うかもしれない恐怖を味わったというのに、その後に神子がしたことは己を救うための力の解放。
彼女の膝から力が抜けた。人形のようにだらりと崩れそうになった彼女の体を、アラン殿下は両腕で抱きしめた。
「俺の元にいろ」
黒い瞳は彼を見上げ、静かに深く閉じた。神子はまだ、この世にあり続けている。
ビゼーは声を張った。
「――動け!」
兵が速やかに命令を遂行し始めた。




