狂気
やめてくれ。止めてくれ、止めてくれ――!
アランは内心絶叫した。遠い。距離が遠すぎる。
紗江は無防備にも黒装束の男に目もくれず子供の前に跪き、力を開放した。光の柱が上がる。
「やめろ!」
叫んだが、彼女には届かない。四方から駆けだした兵の足が竦む。光が強すぎる。眩しすぎる。何より、兵に彼女を守れる自信はないのだ。
あの強すぎる力を前に、誰もが委縮する。そうならないように、あれは人間だといい聞かせてきたと言うのに、全てが無駄だったのか。
力の全てを注ぎ込む。民にだけは甘い、神子。
脳裏を絶望の映像が過ぎる。
――失う。
失いたくない。あの甘い笑顔に一生触れられなくなる。耐えられない。
黒い影が光の中で屈みこんだ。そして紗江の体に触れた。
心臓が凍った。
彼女の体にまでもあいつの手が――。
彼女の命を失う瞬間を想像したアランは、咄嗟にその動きが理解できなかった。
彼女の腰に手が触れた。その手は彼女の内臓を抉ることなく、表面をなぞって行った。
ゆっくりと、じっとりと。
指先に力を込めて、彼女の感触を味わうように。
体を這いまわる。彼女の体が強張る。
彼女の胸に到達した手のひらは、殺意とは違う意思を持って動いた。
ねっとりと、いやらしく這いまわる黒い手。
――女として見ている。
認識した瞬間、ばちりと何かが切れた。
――殺す。
アランは抜刀した。彼女の光が薄れた。
アランは彼女の傍で唯一動いた部下に、怒声でもって命令を加えた。
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――ミツケタ。
思わず口の覆いを下げた。光の渦の中で、恍惚の笑みが浮かんだ。
ああ、やっと見つけた。こんなに傍にいたんだね。気付かなかったよ。
やっと出会えた。私の――私だけの女。
彼女の髪が光の渦の中で広がっている。なんて美しい髪だろう。
餓鬼の胸の上に乗った指先。血に染まって、震えている指。
ああ、なんて可愛いんだ。餓鬼が死ぬと思って、怖いんだね。
なんて優しい子だろうね。
――興奮する。
目の前にしゃがみ込んでも、彼女の瞳は餓鬼にくぎ付けだった。
もうこの餓鬼はどうでも良いじゃないか。こっちを見てよ。
もう一度その黒い目に私を映し込め。
そして私に見とれ、恐怖に狂えよ――。
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腰に何かが触れて、紗江の体が本能的に跳ねた。
「……っ」
腰に手が添えられていた。血に染まった掌と、美しい形の掌。両手が腰に添えられていた。
「は……っ」
月の力を開放するための集中を奪う行為に、息が漏れた。苦しい。顔を上げると、目の前に顔があった。黒い布で頭を撒いた男だった。美しい顔の男は漆黒の目を見開いて紗江を見つめている。手のひらがずるりと上に上がってくる。体の形を楽しむかのようにゆったりと撫で上げる手が、胸の形をなぞる。
「や……」
「ああ……柔らかいね……」
黒い目が情欲に染まった。恍惚としたその瞳が潤み、口の端がにいと上がった。
「私のものにおなり……」
手のひらが脇を撫で上げ、鎖骨をなぞり、首に巻きついた。
黒い目が唇に注がれる。男は自分の唇を舌で舐める。肌の全てを味わうように、手のひらが耳の裏を撫でて両頬を包み込んだ。
「は……っ」
苦しい――。紗江は眉根を寄せた。
男の目がぎょろりと開き、口から笑い声が漏れ聞こえた。
「いい顔……もっと苦しんでよ……」
片手が後頭部に回った。血に染まった掌が首筋から喉元をねっとりと撫で降ろし、左胸の上に乗った。
「おまえは抱いてから殺してあげる……」
吐息が絡んだ。濡れた唇が自分の唇を塞ごうと動く。
「いや……」
黒い目に自分しか映っていなかった。全身に悪寒が走った。
「ビゼー、殺せ!」
アランの声が聞こえた瞬間、紗江の体から黒い触手が剥がれた。白刃が目の前を裂いた。兵の剣が影の顎に向かって振り切られる。影は柔らかにのけ反り、そのままの反動で一回転すると空に舞い上がった。
紗江の脇を力強く駆け抜けたアランが宙に舞い上がる。紗江は目を見開いた。命を削る――光の燐光が見えた。
「――…め」
――やめて。
剣が横一文字に闇を切り裂く。白刃は影を引き裂いた。だが、影は宙を回転した。
切っ先に衣を割かれた影は楽しそうに笑う。切り裂かれた自分の胸を見おろし、くくく、と声を漏らす。
「すごい。血が出てる……」
布の間から滴る己の血を指先で拭い取り、恍惚と赤い舌で舐める。黒い目が全てを見下した色でアランを見た。彼の光が瞬いている。苦しい。紗江の瞳に涙が滲んだ。
――やめて、無理をしないで。
「ああ……お前、王子……? 飛べるんだ……」
彼は興奮していた。興奮を抑えられないのか、両腕を絡めて自分を抱きしめる。彼の喉から笑い声が漏れ続けている。
「悔しそうだね……王子様……」
アランの顎から汗がしたたり落ちた。
「──ちっ」
アランは、だん、と地上に降りた。息切れをしている。消耗している。
影は哄笑を上げる。
「長時間は無理だよね……普通の人間だもの――お前は」
影は残酷な音色でアランを侮蔑した。怒りに、体が震える。
にたりとアランを見おろし、彼は唇を舐める。
「あの女の体は柔らかくて気持ち良かったよ……」
「黙れ」
アランは剣を強く握り込んだ。
「今度は中がどんな具合か、たくさん喘がせて確かめなくちゃ……」
漆黒の瞳は、確かに紗江を見下ろして笑んだ。
「──」
頭が真っ白になった。震える。血が、冷える──。
アランが剣を一振りすると、四方から弓矢が放たれた。影は笑いながら闇夜に舞い上がった。
瞬く燐光に包まれた子供の口からひゅっと呼吸が聞こえた。
血濡れた指先は動かない。
力を失った空洞を体内に感じ、紗江は項垂れた。わからない。
何がどこから狂ったのか、何もかもわからなかった。
月が雲に覆われて、光が届かない。
凍える――。
彼を救わなければならないのに――冷えた体が動かない。




