小さな体
桜花蒼姫の支配人は紗江を裏路地まで案内すると、そのまま用事があると言って酒屋へ向かって行った。血痕の痕跡を見て、その屋根に残った小さな血痕を追っているうちに、全身を流れる血がどんどん冷えていった。
ぽつり、ぽつりと小さな血痕が落ちている屋根。小さな血痕は気にしていなければ屋根の汚れだと思う程度の小ささ。赤黒く変色した独特の色。その色は乾けば乾くほど黒くなるけれど、赤っぽさが凝った色の中に見えた。
ふと紗江は街を見渡した。大通りに面した屋根の全て。この街の全て。
「……血だ」
この街のどの屋根にも血痕があった。第七区画でも殺人があったというのなら、そちらでも似たような現象が起きているのだろうかと、見に行って安堵した。第七区画の屋根は、以前殺害された人が放置されていた位置辺りにしかなかった。殺害はルトの街に集中しているようだし、殺人犯は第八区画に住まっているのかもしれない。
だけど、この街はもう――。
アランの治めるジ州のこの街は――。
「穢れている……」
あらゆる場所に落ちた血痕。これは、殺害された人間の数に合わない。
この世は残酷だ。命を失えば姿を失う。誰の目にも触れずこの世から消えて行った人が、どれだけの数あるのだろう。
老衰で亡くなる人はどれだけ最期を看取られるのだろう。
気付かぬうちにいなくなってしまった人が、死んだのか、どこかへ引っ越したのか分からない。
他人に無関心なこの街では、人は簡単に殺せる。享楽の渦の中で、その陰で人が死んでも誰も気付かない。誰かが探さなければ、いなくなったことにも気づかれない。
紗江は暗澹とした気持ちで、呟いた。
「きっともっと殺されている……」
もっとたくさんの命が、消えている。誰にも気づかれぬまま──。
気付けば夜になっていた。月の色が白いうちはまだ大丈夫だけれど、もう帰った方が良い。屋根を転々と渡っていた紗江は、ふと見覚えのある着物に足を止めた。
美しい双子とその姉が仲良さそうに歩いていた。姉の髪に赤い花びらが彩られている。紗江が贈ったシュクハの花を分けてあげたのだろう。優しい子供たちだ。
暗い気分が少し軽くなった。少し見て行こうと、屋根から後を追って行くと、大きな店の前で姉と双子は別れてしまった。子供が歩くには遅い時間だと言うのに、あの兄弟は感覚が麻痺している。そこらを歩いている酔客が、綺麗な顔をした二人を振り返って行く。絡まれるのも時間の問題だった。
「……でも時間がなあ……」
見上げた月はまだ白い。あの月が頂点に達すると金色に輝く。その光を見たら最後、この体は光り輝いてしまう。
「仕方ないなあ……」
正体が露見している双子ならば、構わないか。
紗江は本日二度目となる、街の中へ転移した。
通りの中は屋根の上よりも喧騒が鼓膜を震わせた。煩い街だ。華やかといえば聞こえはいいが、あらゆる場所から音が上がって互いの会話も聞こえにくい。自然会話は大きな声になり、更に煩くなる。
夜の街は目を狂わせるほど色鮮やかだ。下から見た世界は無数の色を捕らえ、夢幻の世界にいるような錯覚を覚えた。
「ね、姉さま……」
唖然とした口調で呼ばれ、紗江は視線を戻した。イルヤが隣にいる紗江を見上げ、声と同じ顔をしている。紗江はにこりと笑った。
「こんばんは。宿へ帰るところ……?」
「はぃ……」
「姉さま! どうしたの?」
ココが可愛い顔を輝かせて腕に飛びつく。耳元にシュクハの花が挿されていた。昼間は後ろにまとめた髪に挿さっていたが、耳元に挿した方が華やかで美しい。イルヤは大人しくココの隣に移った。
「遅い時間だから……心配しちゃったの」
ココの頬が染まった。
「嬉しい、姉さま!」
だがいつでも見ていると思われてはいけない。紗江は釘を刺しておいた。
「でもいつでも私がいるわけではないから……今度からは夜はちゃんと大人と一緒に歩くのよ」
ココに言っても無駄なので、イルヤに向かって言う。イルヤは面白いほど顔を強張らせ、何度も頷いた。イルヤはココと違い、自分との立場の違いに委縮している様子だった。同じただの人だというのに、失礼を言ってはいけないと顔に書いている。失礼をされたところで、紗江に何ができるわけでもない。だが誰もそうは思わない。不思議な事だ。
「ねえ、姉さま。一緒に泊まろうよ。たくさんお話して? 殿下はどんな方なの?」
「まあ……」
無邪気なお願いに笑いが込み上げる。更にイルヤとココの表情が正反対すぎて、紗江は笑った。
「素敵なお誘いね……。でも夜はお家に帰らないと、殿下に叱られてしまうわ。ご飯は食べた?」
金があれば夕食をご馳走できるのだが、城に連れ帰っても過ぎた保護だとまた糾弾されるだけだろう。
――紗江。
ふと紗江は顔を上げた。アランの声が聞こえた。それもとても近い。モノ州の城と比べれば近いと言うだけだが、目を凝らすと黒い服に身を包んだアランが物陰にいるのが分かった。歩いて五分といった距離だろうか。もう少し遠いか、と首を傾げながら歩いて行く耳にまた声が響いた。
──歩いて来るな。転移して来い。
ああ、隠れているのか。と気付いた。彼の頭に黒い布が巻かれている。紗江は視線を巡らした。煌びやかな光で作られた漆黒の路地裏。ココの頭越しに見える酒屋と飲食店の間のその闇の中。見覚えのある兵がいる。彼は第三部隊所属の──。
「あ、僕夕食、買ってから宿に行きます。先に行ってください」
紗江の思考は中断された。イルヤの腰帯に飾られた花を視界の端に捕らえながら言う。
「駄目よ、皆で行きましょう」
イルヤは、ははと笑った。
「大丈夫ですよ。僕ら、こういう街は慣れているので。僕よりココの方が危ないから、よろしくお願いします」
「イル……」
ココが手を握った。
「大丈夫だよ、姉さま。イルヤああ見えて、力強いの。酔っぱらった大人の男の人なら、イルヤの方が強いよ」
あんなに綺麗な顔をして酔客をいなす力があるとは、大人になったら女の子からの人気は絶大になるだろう。
将来が楽しみね、とココに笑いかけようとした耳に変な音が聞こえた。何かが地面に落ちる音だった。誰かの荷物が落ちたのだろうか、と意識した耳にまだ別の音が届いた。布が破れる音。
「う……っ」
苦しそうな声――。酔客が傍に倒れ込んだのだろうか、と石の道へ視線を向ける。
水滴が零れ落ちた。ぱたぱたと零れ落ちたその水は、変な色だった。黒い――否、その色は。
『――紗江、戻れ!』
声が鼓膜と脳に同時に響き渡る。
水滴が零れ落ち続けている。上からだ。視線を上げると、子供が宙に浮いていた。
背中から何かが出ている。どうして彼は宙に浮いているのだろう。彼の前に黒い影があった。黒い影は大人の男ほどに背が高く、その腕が少年の胸の中央に埋まっていた。
背中から突き出ているのは、指じゃないかしら。影の腕が振られると、どさりと目の前に重そうな音を立てて体が落ちた。人形のように落ちた彼の腕が、ぱたりと開く。その胸からあふれ出す赤い液体。
「きゃあ!」
ココが悲鳴を上げた。
綺麗な顔が驚愕に強張っていた。瞳孔が開いている。口から零れるそれは何。赤い液体が彼の綺麗な顔を汚し、地面に広がっていく。彼の胸の下にもじわりと赤い水溜りが広がり始めていた。
胸――。
一際鮮やかな赤色が染め上げる、子供の胸。
無残に破けた着物の下。彼の胸は布と同じ形で破れていた。
どうして胸に穴が開いているの――?
――さっきまで、笑っていたじゃない。
ココがイルヤに駆け寄ろうとした。その襟首を掴み、紗江は彼女を投げ飛ばした。
――邪魔だ。
彼女の涙が散った。路地の中へ小さな体は消えた。
黒い影の指先から液体がしたたり落ちる。だがその手には何もない。まだ、間に合う。
子供の胸に手を当てた。光の柱が街の中央で爆発した。




