精霊の頂点
その楼閣は角を曲がるとすぐに目に入った。どこよりも突き抜けた高さが目印で、赤の柱と緑の屋根は目に鮮やかだ。贅を尽くしたつくりだと言うことは、軒に吊るされた灯篭や壁に描かれている絵、玄関先の生花、水を流し続ける壺、柵から覗く庭園。全てから伝わった。
神子様は玄関先で立ち止まった。自分は中に入らないから、二人だけでどうぞと言われ、イルヤは初めてためらった。こんな高級店に子供二人で訪ねるのがいかに不相応か、イルヤはよく分かっていた。だが彼女は少し困った表情で肩を竦める。
「ごめんね。あまり人に会うわけにもいかないの……」
彼女がそう呟いてイルヤの背を押した時、店ののれんが揺れた。背中に触れていた神子様の手が少しびくりとした気がした。
いい匂いが鼻を掠めた。神子様のものとは全然違う、妖しげな色香だった。のれんを潜って現れた男を見上げ、ココが感嘆の声を上げる。イルヤは唖然とした。見上げるほど背の高い綺麗な顔をした男がそこに立っていた。着物の合わせに目を奪われる。開き過ぎだ。
だが、ココは頬を赤くしている。こういうのが色気なのかどうか、イルヤには分からなかった。
男は形良い目をイルヤ、ココ、そして神子様の順番で動かし、にや、とした。神子様が呻く声を漏らした。
どんな時も大らかな声しか出さないと思っていた神子様を振り返ると、彼女は傘で顔を隠している。
「これはこれは……またお会いできて嬉しいですよ、お嬢さん。私に会いに来ていただけたのですね……?」
神子様と知り合いのようだ。神子様は傘を少し傾げて、可愛い笑顔を作った。
「私ではありません。この二人が、こちらの方とお話をしたいと言うことでしたので……付き添っただけです」
男がイルヤを見下ろす。
「ああ……随分綺麗な子だけれど……誰のお客かな……」
イルヤは慌てて口を開いた。
「あ、ティナという名の人は働いていますか?」
彼は眉を上げ、しげしげとイルヤとココを見下ろす。
「……いるけれど……君たちはどちら様……?」
「弟と妹です」
どうか遊女になっていませんように。祈るような気持ちで男を見上げる。男はああ、と人好きのする笑顔を浮かべた。嘘くさいと思ったのは自分だけのようだ。ココは両手を組んで男を見つめている。否、神子様も物言いたげな目で男を見ていた。
「そう。お姉さんに会いに来たのだね……じゃあ呼んであげよう」
男が店の中に声を掛けると、玄関にいた別の人が姉を呼びに行ってくれたようだった。ほどなくして現れた姉を見て、イルヤは涙が出るほどうれしかった。姉はどんな派手な化粧も、派手な簪も、雅な着物も身に付けていない、かつての姉そのものだった。
「あんたたち……こんなところまでどうしたの」
話し方も変わっていない。ココが姉の胸に飛び込んだ。
「お姉ちゃん! 遊女じゃない?」
開口一番それか。姉は呆れた顔で、ココを抱きしめ返した。
「馬鹿ねえ……このお店で私が遊女になれるわけないじゃない。なりたくもないけれど……」
姉は玄関脇で薄笑いを浮かべて様子を見ていた男に頭を下げた。
「この方はこの店の旦那様よ。ご挨拶して。」
「「ええ!?」」
ココが驚きの声を上げる。イルヤは反対の意味で声をあげた。こんなだらしない恰好の男が支配人なんて納得ができない。と思いつつ、頭を下げた。
「姉がお世話になっています」
支配人は目を細めた。
「いいや……私もティナのご弟妹にお会いできて嬉しいよ……」
どういう意味だ。物言いに引っ掛かるものを感じたが、ココが頬を染めて声を上げる。
「私も嬉しいです! こんなに素敵な人が旦那様だなんて、お姉ちゃんがうらやましい」
彼は息を吐くように笑った。
「ありがとう……。私も話をしたいところなのだけれど……用事があるからこれで失礼するよ……」
「お忙しいところ、ありがとうございます」
「ゆっくり話して行くと良い……泊まらせてもいいからね、ティナ」
姉が頭を下げるのに合わせ、イルヤも頭を下げる。ココは最後まで一度も頭を下げなかった。
ふと首をめぐらせる。神子様の存在感が皆無だった。溢れるほどの存在感があるというのに、と道へ目を向けてイルヤは眉を上げた。用事だと言う支配人の隣に彼女はあった。表情は見えない。
「あ……」
姉も彼女に気付いたのか、眉を上げる。神子様は姉に優しい笑顔を向けた。
「私はここで失礼しますね……。気を付けて帰ってね、イルヤ君、ココちゃん」
彼女に手を振られ、ココは手を振り返した。イルヤと姉は頭を下げる。
「またね、姉さま!」
「またね……」
彼女が降った手の中指には指輪があった。婚約を意味する大きな石の指輪は、彼女が本当に王子の婚約者である事実を感じさせた。
姉が少し悲しそうに二人を見送る。
――神子様に婚約者がいるなんて、絶対に教えない。
神子様の隣で薄ら笑いを浮かべている男を、イルヤは半目で見送った。
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「私とお茶でもしませんか……」
弟妹が感動の再開を果たしているのを横目に、桜花蒼姫の支配人はひっそりと声を掛けてきた。紗江はこの男が何とはなしに苦手だった。アランに比べれば取るに足りない男だが、見透かすような目つきがうすら寒い気持ちにさせる。
紗江は微笑で断った。
「……ごめんなさい」
「こんなところまでお一人で何をしにいらっしゃったのです……?」
面白そうに見下ろされ、紗江は視線を通りへ向ける。茶を飲みに来たのではないのだけは確かだ。
「……血痕を見に」
彼の口元がにやりと歪んだ。彼は嬉しそうに言った。
「通り道ですから……ご案内しましょう……」
「……」
紗江は男を見上げる。同じ黒い目が自分を見返すのを見るのは、久しぶりだった。この世で黒い瞳の人間はさほど記憶にない。
「そう……」
男が三人と別れの言葉を交わした後、紗江は笑顔で手を振ってそっと言った。
「あなたは悪い人ね……」
ちらと背後を見やる。ティナが悲しそうな顔をしていた。
「お褒めにあずかり光栄です……」
紗江はくすりと笑う。こんな捻くれていそうな男でも、恋をするのだと思うと微笑ましく思えた。
「褒めていないわ」
あの娘に嫉妬されるための当て馬にされたようだ。
「でもきっと、あなた苦労する」
ティナの隣で、彼女の弟が不満げな顔をしていた。姉や妹に比べ、彼の勘はかなり鋭いらしい。
「上手くやったつもりだったのですがねえ……」
ほんの少し情けない顔つきの彼は、初めの印象よりもずっと人間的で好感が持てた。
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神子がいうことを聞かないと言われ、ビゼーは反応に困った。
ジ州第一区画内に設置された軍支部内は現在緊張の空気に包まれている。部下たちが出兵の準備をしているのを眺めながら相談される内容だろうか、と多少状況に疑問を抱いたが、ビゼーは失礼に当たらないよう努めて丁寧に答えた。
「……月の精霊様というのは、本来独善的であられるものではないでしょうか。どちらの国の精霊様も、おおむね皆さま……公平であらせられません。殿下の神子様は、非常に愛らしく、身分を問わず公平であり、私にとってはありがたい方ですが……」
ビゼーは立場上、王族の外交に護衛としてつく事が多い。ガイナ王国の交流は、ゾルテ王国とルキア王国だけではない。月の精霊は数が少ないながら、大国のひとつであるガイナ王国と交流を持つ国は大国が多く、精霊とも接する機会は多い方だ。どの国の精霊も、似たようなものだと思っている。
幼い頃から神として崇めたてられ、蝶よ花よと育てられた彼らは、一様にして横柄であり我が儘だ。機嫌を損ねると大変なことになるため、反抗などしないが、一度他国の精霊に婚姻を迫られて断るのに難儀した苦い記憶さえある。
それらの印象をもってすれば、アラン殿下の神子様は非常にしとやかであり愛らしく、精霊との格の違いを感じさせるとさえ言える。多少の我が儘など、可愛いものだと笑える程度ではないだろうか。先日のアラン殿下との会話は、心から可愛いと思えた。
アラン殿下は不満げに見返す。
「あれが民に対してだけは公平で甘く、見た目も素晴らしいことなど分かっている」
「……」
何気なく惚気ているのだが、アラン殿下はいたって真面目な相談をしているつもりのようだ。
「そんなことではなく、どうしたらあれが言うことを聞くようになるのかと相談しているんだ。お前は女の扱いに長けているだろう」
「そんなことはないですよ……」
どちらかというと言い寄ってくる女性をあしらう術を知っているだけで、女性を従わせる方法など知らない。
自分の女性関係について根掘り葉掘り聞かれそうな予感を覚えたビゼーは、話を振った。
「何を聞いて下さらないのですか?」
彼は腕を組んで用意をしている兵を睨み据える。作業が遅いのだと勘違いした兵達が慌てたため、ビゼーは手を振って落ち着くよう伝えた。
「昨日あれが非常に怯えて帰ってきた。また勝手に街に降りたようだったが、何を見たのかまた今夜も人が殺されると怯えていた。だから共に居ろと言ったにも係わらず、今朝になればけろっとして俺と共に軍部へは行かんと言いだす始末だ。俺が四十守ってやろうというものを」
ビゼーはアラン殿下をまじまじと見返した。彼は平静な顔つきだが、分かっているのだろうか。
「何に怯えていらっしゃったのでしょう……」
「殺人犯に決まっているだろうが」
「……人が殺されるとおっしゃられたからには、神子様はその犯人を目撃されたのではございませんか……?」
「……まあそうかもな」
「殿下……」
何故。何故神子様に詳しく話を聞いて下さらない。既に目星は付けているものの、昨夜本当に人が殺されては一大事だ。
だが彼は鼻を鳴らす。
「我が国の兵が増員された夜に、殺害を繰り返されるはずが無かろう。犯人もそれほど甘く考えていないだろうし、我が軍の兵達は優秀だ。これ以上の恥を重ねるはずがない」
そうでなければならない。
アラン殿下の信頼厚い言葉に、兵達の士気は上がる。
だが、ビゼーは心配になり首を傾げた。
「いうことを聞かないとおっしゃられますが……本日も神子様は街へ……?」
彼は目を据える。
「先程双子に付けた監視から報告があった。念のため第三部隊の兵を付けておくものだな。俺の神子は今日も呑気にルトの街を散歩しているそうだ。迷惑な話だな、ビゼー。これから捕り物をしようというのに、あれが関わると面倒事になりそうで俺は恐ろしい」
第三部隊の兵だけは、神子の素顔を知っている。そんなことよりも、とビゼーは困惑しながら尋ねた。
「何故関わるなどと……」
アラン殿下は面倒くさそうに眉根を寄せた。
「あれが怯えるなんぞこれまで一度もなかった。あの震え方は本能的な恐怖に晒されたのだろうと思う。ということはだ、俺の神子は殺人犯の殺気に当てられて逃げ帰って来たと言うことではないかと……思いたくもなる」
「殿下!」
ビゼーは柄にもなく声を上げた。アラン殿下は迷惑そうに見返す。
「だから相談したのだろう。どうしたらあれが言うことを聞くのか、。」
「ご相談よりも、一刻も早く神子様の御身を兵に拘束させますがよろしいですね!」
「……だが逃げるぞ、どうせ」
転移するからな。と言われた時、ビゼーは何故相談などという珍しい行為をされたのか分かった。
アラン殿下は本気で困っているのだ。精霊ならば飛行はできても、転移は出来ない。だが彼女は神子だ。日常的な気軽さで転移する。彼女を拘束する術はないのだ。彼女自身にその気になってもらわなければ、唯人には手も足も出ない。
「俺が名を呼ぶだけで強制的に戻らせられるよう、何とかならんかと思いたくもなるな」
呑気に呟いているようでいて、その内心はどれほどのものを我慢しているのか。
ビゼーはこめかみを押さえ呻いた。
――神子は精霊よりも手に負えない。




