イルヤ
ノナ州へ帰る予定を立てた団長に姉の元を訪ねたいと尋ねたところ、彼は渋るどころか即答で了承してくれた。神子様がイルヤ達の守護をしているとでも思っているのか、あの日以来団長の態度は一変した。演技の失敗を注意することさえためらう程、イルヤ達に遠慮している。
これでは技術の向上さえ難しくなるなと、イルヤは内心困惑している。だが、団長はイルヤ達に休みをくれ、路銀まで追加でくれた。この効果は素直にうれしいと思う。
甘味を買った店の男に道を聞いた後、ココが表情を曇らせた。
「ねえ、お姉ちゃん遊女にされてたらどうしよう」
「……大丈夫だよ」
ちっとも大丈夫とは思っていないが、でまかせでも言わないとココが泣きだすのは明らかだ。ジ州で背の高い店を街の人に聞くと、どの人も声をそろえて『桜花蒼姫』と言った。最初はただの商店だろうと思っていたが、何人かに聞くうちにそれが妓楼で、しかもジ州一の高級店で、悪いことに女の体を売る店だと分かった。
弟の自分が言うのもなんだが、姉は美人だ。少し痩せているが、器量は絶対にいい。雇われた店の名前も仕事の種類も両親は教えてくれなかった。その大きな理由は、やはり最悪の結果になっているとしか言えない。
弟妹に会いに来られるのも迷惑なのではないかと不安に思う。もしも自分なら絶対に会いたいとは思わない。だが、ココは言い出したら聞かない。もしも遊女になっていたら、ココは泣きわめくだろう。そして無理矢理店から連れ出そうとするに違いない。
ああどうしよう。溜息を堪えて果物を口に入れたイルヤは、目の端に入って来た白い傘に顔を向けた。青い花柄の変わった白い傘。甘い匂い。
腰に挿した花の匂いはいつまでたっても失われず、水をやらなくても枯れないと気付いたのは一昨日だ。
ココなど見せびらかすかのように髪に挿している。よく見ないと金色の粒子は見えないから、咎めはしないが落としはしないか心配だ。
自分は腰帯の中に紐を混ぜてしっかりと結びつけている。その花からの匂いだろうかと、ココの頭を見下ろそうとして、イルヤは視線を戻した。
白い傘を差した女の人が自分を見ている。青い布を頭に巻いた変わった風体の女の人だった。髪は見えないが、その顔はとても美しい。煌めきを放っているかのような錯覚を覚えたのはこれで何度目だろう。あの方の顔を直接見たのはココだけだけれど――。
柔らかな笑みと漆黒のその瞳。イルヤが目を見開くと同時に、ココの幼い声が上がった。
「あ、み……っ」
咄嗟にイルヤはココの口を抑え込んだ。
自分の表情が青ざめるのが分かる。
こんな場所にいていい人ではない。というか、本物だろうか。よく似た他人か? と凝視すると、彼女は目線で歩くよう促した。
「こんなところで何をしているの……?」
聞き覚えのある声だった。愛らしい、耳に心地よい声。神子様だ――。
ココの口を押さえたまま、イルヤは妹を抱え込んで歩く。
「いえ……姉に会いに行こうと……」
「むうー!」
抗議の声を上げるココに、彼女は笑んだ。
「ココちゃん。実はね、私ここにいることを知られちゃいけないの。だから私の事は別の名前で呼んでくれる?」
ココが頷くのを確認して、イルヤは手を離した。ココは瞳を輝かせて神子様を見上げる。
「なんとお呼びすればよろしいですか? 女神さま?」
彼女は苦笑した。
「そうね……名前は教えられないし……」
「じゃあ、姉さま?」
彼女は眉を上げた。イルヤは慌てる。
「馬鹿、そんな気安く呼んじゃ駄目だ!」
ココは不満そうにイルヤを睨む。神子様はふふ、と笑った。
「いいわ。じゃあ二人だけは、そう呼んでいい事にしましょう」
悪戯でもするような楽しそうな笑顔を浮かべて、女神は頷いた。
神子様を姉だなどと呼べるはずが無い。身分不相応極まりない。冷や汗が浮かぶイルヤを尻目に、ココは嬉々と神子様に話し始めた。
「姉さまはどうしてこんなところにいらっしゃるの?」
「そうね……気分転換かしら」
「この街によくいらっしゃるの?」
「うん、そうね。でもココちゃん達が来るような場所ではないでしょう? だから心配で声を掛けてしまったの」
「もう一度お会いできるなんて、来てよかったね、イルヤ!」
同意を求める輝かしい目がこちらを見る。会話に入れてくれなくてよいから、自分の事は放っておいてほしい。
ココは神子様がどれほど尊い存在か分かっていない。彼女はこの国の王子の婚約者で、月の精霊の頂点だ。月の神子はこの世に三人しかいない。その上噂によると、ガイナ王国の神子は隣国の公爵令嬢だとか。身分が高すぎる。違いすぎる。気安く話せる相手ではない。
固まったイルヤを、ココは眉根を寄せて見上げる。
神子様の黒い目がココからこちらに向いた。
「お姉さんのところに行くのね。とっても悪いのだけど……お姉さんにも私の事は秘密にしてくれるかしら……」
イルヤは頬を引きつらせた。神子様ははっきりと自分を見つめている。出来るだけ失礼の無いように、会話も避けたいところだったと言うのに。
決して逸れない瞳に抗い難い意思を感じ、イルヤは躊躇いがちに頷いた。
「……はい」
ココは残念そうに眉を下げた。
「一緒にお店まで行ってあげるから……ね?」
非常に甘い笑顔で神子様はココを見つめ降ろした。甘い。背筋がぞくりとするほどに甘い笑顔だった。
ココの頬が染まり、こくりと頷く。
「……」
神子様はココの扱いを学んだ様子だった。
――僕はこんな異常事態から逃げる方法が知りたいと思う。




