まわる傘
くるりくるりと白い傘が回る。涼やかな蒼の染め色で描かれた花の模様は暑い日差しに相反して涼やかだった。
彼女は軽やかに屋根の上に舞い降りる。屋根の上で昼寝をしていたジンキは目の前の光景が非現実的過ぎて瞬きを繰り返す。
新酒を作るための投資が過ぎると口うるさい番頭に嫌気がさして、誰の目も届かない屋根に上った。酒と肴を置いて店の裏手にある木が影を作る部分で寝転がっていると、屋根の頂点に人が降り立った。
どこから上って来たのか、彼女がそこまで行く姿を見た覚えは無い。だが飛ぶなどあり得ないし、とジンキは少女がぐるりを見渡している姿を見守った。そしてこちらに気付くと、ぱっと顔を明るくして降りてきた。随分上等な着物を着た娘だ。髪の毛を青い布でまいていて、少し変わった印象だ。屋根に上るとは、相当なはねっ返りだろう。
「こんにちは、お兄さん。このお店の人?」
「まあな……。あんた、こんなところで何してるんだ?」
つまみの干した魚を噛みちぎりながら応える。彼女は魚よりも酒の方に目を向けた。
「何のお酒?」
「俺の質問は無視かよ」
「あ、私は屋根を見ているの」
「見りゃあわかるっつーの」
「じゃあどうして聞くの?」
「……これはうちの新酒」
応えるのが面倒になった自分は悪くないと思う。彼女は膝を折って首を傾げた。自分の顔のつくりをよく分かった、可愛らしい表情だ。
「味見させて?」
「いいけど……未成年じゃねえだろうな」
「二十一歳だよ」
「嘘つくなよ……ったく……」
可愛い顔をして平気で嘘をつく。どう見ても十五、六の女だった。桜花蒼姫のあの娘と似たり寄ったりだと思う。ぶつくさ言いながらも酒を少し注いで渡してやると、何のためらいもなく飲んだ。むせたりもしないその仕草は、酒に慣れた様子だった。
「ふうん。ほんのり甘くて大人の味だね。おいしいかも」
「かも、じゃねえよ。旨いなら旨いって褒め称えろよ……」
「私はもっとずっと甘いのが好きなの」
「どんな酒だ」
「桃糖酒」
ジンキはけっと吐き捨てた。
「あんな甘ったるくて無駄に材料費ばっかりかかっちまう酒の何がいいんだか」
「そう? おいしいよ。お菓子みたいで」
桃糖酒は一つの瓶に桃を五十使うような材料費ばかりかかる酒で、しかも砂糖のように甘ったるい。値段ばかり高いあんな酒を好む奴は本当の酒を知らないと、ジンキは眉を潜める。
「気がしれねぇ」
はたとなぜこんな異常な状況で自分は普通に会話をしているのか、我に返った。
「いや、違ぇよ。お前、勝手に人の店の屋根に乗るなよ。瓦が落ちたらどうするんだ」
少女は首を傾げる。
「直せるよ」
「嘘つけよてめえ……お前みたいないいとこの娘が瓦の重ね方なんか知ってるはずがねえ」
さっきから嘘ばかりを繰り返す。家出娘か?と見ると、少女は立ち上がり周りを見回す。
「俺は無視か」
「無視なんてしてないよ、お兄さん。お名前なんて言うの?あ、やっぱりいいや。私名乗らないし」
「……何なんだ一体……」
寝る気にもならず、ジンキは上半身を起こした。
「ねえ、この間この辺で人が死んだの。知っている?」
「当たり前だろ」
迷惑な話だった。宿屋街の一角で人間が殺されたようだが、その死体を見た人間はいなかった。血痕だけが残ったその裏路地は、ジンキの店からさほど遠くない場所だった。おかげで客足が遠のいて売り上げが下がる一方だ。
「どこ?」
「ああ?」
いいところの娘にする返事ではなかったが、彼女はこちらの乱暴な物言いに少しも物怖じしていなかった。黒く大きな瞳をくりくりさせて、振り返る。
「どの路地裏?」
「はー……」
ジンキは娘の隣に立ちあがる。娘から甘い香りが漂った。女の香水はあらかた知り尽くしていたが、香った覚えのない匂いだった。娘の雰囲気に似合った、派手でもなくしつこくもない甘い香りだ。
娘に分かるように路地の方向を指差す。
「ほれ、あそこに黒い屋根の店があるだろ」
「背が低い建物?」
「そ。その店と奥の赤い壁の店の間だ。ったく、人が死んだ路地なんか見て何が面白いんだ?」
「面白くは無いよ。」
娘は少しむくれてこちらを見上げる。じゃあどうしてだと聞くまでもなく、娘は言った。
「でも、これ以上人が死んではいけないでしょ」
「はあ?」
お前に何かできるとでも言う気か。彼女はジンキの顔を真っ直ぐに見上げた。
「ねえ、お兄さん。頻繁に屋根に上るの?」
「はー……そんなにしょっちゅう上るわけじゃねえよ」
もはや突っ込む気にもならない。少女はにっこりと笑った。
「そう。気を付けてね」
「あん?」
眉根を寄せると、彼女は瓦をすたすたと歩いて行く。屋根の端まで歩き切ると、こちらを振り返った。
「夜は屋根に上っちゃ駄目よ。きっと殺人鬼があなたの心臓も取って食ってしまうから」
「はー?」
「じゃあね」
娘は手を振ると屋根のその外へ足を踏み出した。
「だあ! おい!」
店先で怪我をされてはたまらない。慌てて屋根を走って行くと、店の玄関先で番頭がのどかに水を撒いていた。番頭がこちらを見上げ、眉根を寄せる。
「またそんなところにいらっしゃるんですか。屋根が傷むから止めてくださいと言っているでしょう」
小言を聞いている場合ではない。
「おい、今女の子落ちて来なかったか?」
「夢でも見ましたか?しっかりしてくださいよ、若旦那。全く……今日は桜花蒼姫の支配人もいらっしゃるのに……」
ぶつぶつと小言を言いながら、番頭は水を撒く。
狐につままれた気分でジンキは顔を上げた。照り返しが激しい街のどこにも彼女はいなかった。
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軍部への出仕に同伴させようとするアランから逃げるのは大変だった。普段は軍部へは余り同伴させたがらないと言うのに、今日に限ってしつこく連れて行こうとしたのは昨夜の自分が原因だ。
怯える紗江をただ心配してくれる。何も聞かず抱きしめてくれる。
思い出すと頬が勝手に赤くなった。
紗江は足取り軽やかに屋根を渡る。庭で寛ぐ紗江の為に作られた日傘は、軽く使い勝手が良い。本来なら侍女が日よけを持つらしいが、侍女の傍にいない紗江の為にと用意された。
先程屋根で遭遇した男は妙に口が悪いが、嫌いではない。先日出会った桜花蒼姫の支配人よりもずっと小気味良い。彼の物言いはアランの口調にほんの少し似ている。面白いと思う。また会えたら楽しいかもしれない。
「アラン様の方がもっとずっと怖いから、あの人はちっとも怖くない」
軍人たちに対する彼の口調と威圧感は半端ない。傍にいるだけで肌が痺れる。自然紗江の口数も減る。自分に怯えられるのが嫌なのか、彼は軍人の前の自分を紗江に見せないようになった。
転移を繰り返しながら、色とりどりの着物が溢れる街を眺める。妓楼と宿屋がひしめくこの一帯はさすがに昼間に営業している店は少ないながら、客足は多い。きっと反物屋があるからだろう。遊女に着物を贈る客を見込んでいるのか、ルトの街の反物屋は宿屋街の中に点在していた。
果物を切って細かく砕いた氷と混ぜた甘味に目を奪われる。外に出ないようにと金を持たせてもらえない紗江にとっては、店での買い物は羨ましい行為だった。今も小さな女の子が甘味を買っている。あんな小さな子供でも買えるものが買えない切なさは無い。
見ていると欲しくなる。早く移動しようと視線を逸らした紗江は、視界の端に映った赤色に視線を戻した。
「んん?」
何気なく見過ごしそうになったが、この一帯は妓楼や酒場ばかりだ。大人が行き交う街中に、子供が二人。
可愛い花模様の着物を身に付けた女の子の髪に赤い花が挿さっていた。簪代わりに挿された花は、彼女の明るい髪色に似合う見事な物だ。金を払った男の子の方を見やる。地味な色の着物を身に付けた少年の帯にも赤い花が挿されていた。花を身に付ける男の子は珍しいながら、彼の雰囲気にはとても似合っている。二人して幼い癖に綺麗な顔をしているからだ。大人になるのが末恐ろしい、三兄弟の末の二人だ。彼らの姉に会ったのは昨日。
どうしてまだジ州にいるのだと、紗江は天を仰いだ。それも殺人が繰り返されるような危険な街を、子供だけでうろつくなんて危険極まりない。
彼等の団長に帰還を命じたはずだ。そう、アランによって紅扇団はノナ州へ戻ったと教えてもらっていた。
まさか姉を探しているのだろうか。そう言えば姉に会いに行こうと話していた。
金色の粒子になったまま、紗江はしばらく人の会話を聞ける。だから丁度良くココを打たれる前に前に出られたのだが。
屋根にしゃがみ込んで子供の声に聞き耳を立てる。
「ねえおじさん、桜花蒼姫ってここからどのくらい?」
紗江は内心呻いた。ココは無邪気に店員に尋ねている。店員は一瞬ココの顔を凝視し、首を傾げながら指をさす。
「この先の角を曲がって真っ直ぐに言ったところだが、お嬢ちゃんには早すぎないかい? 別嬪さんだが、桜花蒼姫は子供を置いてくれないよ」
笑って言われ、ココは無邪気な笑顔を返した。
「お姉ちゃんに会いに行くの」
店主の目の色がいやらしく光った。
「ああそうかい。お嬢ちゃんの姉ちゃんなら、いい女だろうなあ。羨ましいよ」
何を羨んでいるのか。全く。子供に見せて良い目つきではない。
二人が礼を言って道を進んでいく。
紗江は傘をくるくると回した。路地裏を見に行こうと思っていたのに、思い通りに行かないものだ。
紗江は仕方なく、双子の後姿を追った。




