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月の精霊~異世界って結構厳しいです~  作者: 鬼頭鬼灯
ガイナの神子─ 四章
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羽ある影


 のれんが揺れている。官吏と女の子を見送ったティナは、隣でシャグナがため息を吐く音を聞いても座り込んだまま動けなかった。

「……綺麗な人でしたね……」

 衣擦れの音に目を上げると、シャグナが立ち上がっている。彼の眉が不機嫌そうに跳ねたのをティナは見逃さなかった。

「それはあの官吏?」

「……女のかたのことですけど」

 あの官吏も確かに秀麗な顔をしていたが、男に対して綺麗だと賛辞を送るのは普通ではない。シャグナは恐らく綺麗と言われ慣れているのだろうが、と若干目つきが悪くなった。

 シャグナはすとんと柔らかな笑みに変えた。何が気に入らなかったのかティナには分からない。

「ああ、あの人……。そう?」

 何を思ったのか彼の掌が目の前に広げられる。手と彼の顔を交互に見ると、彼は息を吐いてティナの手をわざわざ膝の上から掴んで引いた。

「あ……っありがとうございます」

 立たせてほしくて待っていたわけではないが、そう思われたのだろう。高貴な娘でもないのに気位の高い扱いを求めたようで、ティナの頬が少し染まった。

 シャグナは気にした素振りも見せず、ティナの手を引いたまま店の方へ向かう。店番の男が頭を下げた。

「お前は物を知らないから……あの女を清く美しい聖女のように見たのだろう。違うかい……?」

 手を繋いだまま歩いて行く必要性を感じず、ティナは回廊で足を止めた。シャグナが振り返る。丁度手を離してくれて、ほっと胸を撫でた。

「でも、綺麗なお嬢様でした。漆黒の瞳など、まるで石のように艶やかで美しかったですよ」

 シャグナは目を細めた。

「私の目だって黒いよ……」

「それはそうですけど……」

 今話しているのは先程の女の子の事で、別に比較してなどいない。

「私よりもあの娘に惹かれるの……?」

 ティナはうっと言葉に詰まった。またいつもの調子でティナを翻弄するつもりだ。顔を覗き込まれると弱いティナは、視線を逸らした。

「そういう話をしているのではありません。旦那様もお美しいですが、あの方も美しかったと言うだけのことです」

 シャグナの喉が鳴った。楽しそうにくつくつと笑い、空に目を向ける。

「分かっていないねえ……」

 シャグナこそあの女の子の何を分かっていると言うのだろう。むっとして睨むと、空を仰いだまま彼の黒い目だけがこちらを見下ろす。

「あの女は……女狐だよ……。遊女になれば、面白いのに……」

 ティナはあんぐりと口を開けた。上等な着物と高そうな髪飾りをした、いかにも貴族然とした娘を相手にあり得ない提案だ。

 シャグナはまた空に目を向けた。彼女の顔を思い出しているのか、楽しそうな表情を浮かべた。

「あれは……この世の穢れを知る……手の届かない女だからねえ……」

 意味が分からず、ティナは首を傾げるしかできなかった。



***************



 太陽が沈む。世界が赤く染まる。血の色よりもずっと美しいその色が、紗江は好きだった。

 ルトの街の屋根を歩く。誰にも見つからないよう、少し歩いては転移を繰り返し、辺りを見てゆく。

 美しいこの街に、人を殺す鬼が隠れている。

 まるでかくれんぼだ。太陽が出ているうちは隠れている鬼が、夜陰に乗じて人を殺していく。捕まえろと言わんばかりの証拠をたくさん残して。

 直ぐに沈んでしまう夕日の姿を眺め、屋根の上に座り込んだ。煙突の脇に座ったのは、ただ何となくだった。どんどん影が伸びていく。紗江の体が煙突の陰に沈んだとき、見渡す限りの屋根のその上に、ぽつりと染みが浮かんだ。

 紗江のいる場所よりもずっと遠くの屋根の上。小さな虫程の黒い一点。

 小さなその影は羽を広げる。ああ、着物の袖が広がっただけだと冷静に思い直した。

 影は屋根の上に立つと、動きを止めた。じっと何かを見ている。下を見下ろして、身動きをしなかった影が動いた。小さな影。その体がこちらを向いたと感じたのは本能だろうか。

 影がこちらを見た。

 ざわりと、全身に鳥肌が立った。影が身を屈める。

「──っ」

 紗江はその影が飛び立つのを待たず、姿を消した。

 怖い。あの影は怖い。

 光の粒子になってしまえば、誰にも捕まえられないはずなのに、紗江は急いだ。急いで、出来るだけ早くその場を離れてしまいたかった。

 捕まってしまう前に、あの人の腕の中へ戻らなければ。

 あの人は今どこにいるのだろう。名を呼んでくれなければ、分からない。お願い名前を呼んで。そんな風に懇願した瞬間、紗江は彼を見つけた。

 彼は紗江を呼んだわけではなかった。ただ文句をいう中に名が含まれていただけだった。それだけで紗江は彼の場所が分かる。

 黒い馬車の中、帰宅するのか、王城へ向かうのか。窓枠に肘を掛けて外を眺めている彼のその胸に、紗江は飛び込んだ。

「……っと」

 突然の出現に驚いた声を上げた彼だが、紗江の体を抱き留める。アランの匂いに包まれ、紗江はやっと呼吸を思い出した。

 深く息を吸い込んだ紗江を、彼は訝しんだ。膝の間に紗江を抱き込み、顔を覗き込む。

「どうした。先に帰ったのではないのか?」

「……」

 彼の顔を見上げる。些細な事では動揺しない穏やかな目が、自分を見下ろしていた。

 全身が忌避している。あの影に近づいてはならない。

 紗江は自分の声が怯えていると気付かずに、口を開いた。

「アラン様……きっと、今日も人が死ぬわ」

 彼は眉を上げた。カサハを捲り上げ、彼は眉を潜めた。

「紗江?」

 ――私が。

 私が止めなければならない。

 あの恐ろしい鬼を、止められるのは自分だけ――。

 アランは馬を操る兵に声を掛けた。

「王城は止める。城へ戻れ」

「畏まりました」

 ちらと窓から中をみた兵は、いつの間にか神子が現れていることに瞬く。彼は視線を戻して城へと行き先を変えた。ほんの少し急いだ馬の速さに、紗江は安堵の息を吐く。

「今夜は常よりも兵が多い。今日は誰も殺されん」

 アランは紗江が怯えている理由を深く聞かなかった。呆れた溜息を落として、紗江を抱きしめてくれる。

「今日はどこにも行くな。俺と共にいろ」

「……はい」

 外出を禁じる彼の腕が、今はとても心地よかった。彼の腕の中で眠る夜は、これ以上ない程安心だ。

 ――だけど、私が探さなきゃ。

 きっと誰にも見つけられない。この国で空を自在に移動する鬼ごっこができるのは、彼と自分だけだ。

 一晩――この夜を過ごしたら。



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