指先
逃げ水が見える。灼熱の太陽が地を照らしつけ、石を敷き詰められた道にゆらゆらと光の水を生んでいる。
自分を一般人と信じて疑わないロティオが正体に気付くのはいつだろうと、少し意地悪な気持ちで彼を見上げる。彼は真摯で実直なよくできた官吏だった。一日一緒に回ればアランが彼を認める理由もわかろうというもの。
彼は暑いはずなのに涼しげな顔で制服の襟も開かず相橋へ向かっている。
「ねえ、ロティオ先生?」
「はい」
彼の返事は丁寧で、あまり崩れないながら、自分を特別扱いしすぎないところが気に入っている。
月の精霊のすることではないと内心苦笑しながらも、顔には嬉しそうな笑顔が浮かんでいた。
「今日はありがとうございました。とても楽しかったです」
彼は綺麗な紫の瞳を細めた。
「そうですか。楽しめてよかったです。お帰りはどちらですか? お送りしますよ」
紳士だ。紗江は第一区画へとつながる相橋のたもとで足を止めた。
「ありがとうございます。でも実はもうすぐここに迎えが来ます。ですからここでお別れいたしますね」
迎えなど来ないが、州城へ入って行けば彼の目の前で州官長室へ入らなければならない。だんだん正体を明かし辛くなっているなと思いながら、見上げると彼は素直に頷いてくれた。
「わかりました。申し訳ないのですが、この後も業務が立て込んでいて迎えの方が来るまで共にいられませんが、大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
彼はこちらの表情を確認すると、柔らかく笑んで州城へと向かった。軍人よりも細い肢体ながら鍛えた背中だった。紫紺色の髪が相橋から舞い上がる風に揺れた。
あの橋の下には血痕が残っている。この世の人間は命を失えば霧散するというのに、血痕だけは残る。そして抉り取られた臓器はどうなるのかと思っていたが、形ある物は霧散するらしい。臓器移植は不可能。死に掛けた人間を救うには、元の世界以上に時間との闘いとなる。
「なんて厳しい世界かしら……」
ぽつりと呟いて紗江は背後を振り返った。
彩溢れる賑やかで美しい街を鮮やかな着物を身に付けた人々が行き交う。紗江の目は自然冷たいものに変わった。
「この中……」
――この中に殺人者がいる。
先だっての死者で凶器が分かった。凶器はないのだ。彼の腹は無理やり引き裂かれた後しかなかったと応急処置をした兵が報告した。州城は騒然としている。その事実を知る者は国官のみ。人の肉を引き裂いて内臓を抉り出す。そんなことは不可能だと誰もがいう。
けれど、と紗江は思う。この身を満たす月の力。人よりも強い己の力。これはまさに、己の仕業だと言われても仕方ないのだ。
ぽつりぽつりと人が顔をあげては、不安げに州城を見上げていく。その瞳に宿る不安は、未だ見つからぬ殺人者への恐怖でしかなかった。
紗江は街の中へ歩みを進めながら人の合間で消えた。橋の袂に配置された兵がふと顔を上げる。何事もなく動いてゆく街を一通り眺めた兵は、熱さに息を吐いて視線を戻した。
州城のほとんどの人が紗江の存在に気付き始めているが、尋ねにくいのか誰も直接確認しには来なかった。月の力で中庭の木の下に隠していた着物を羽織り、カサハを被った紗江は堂々と州官長室へ向かった。州官長室前の兵士は二人。彼らは紗江を見ると扉を開けた。いつも思うが、これが偽物かどうか何故確認しないのだろう。
扉を開けてくれる兵の顔を見上げる。第三部隊の兵ではなかった。彼は視線を逸らしている。
「ねえ」
「……は」
彼は話しかけられると思っていなかった様子で、数秒躊躇った後こちらを見下ろした。
「どうして何も言わないでも扉を開けてくれるの? 私が神子じゃないかもしれないとは思わないの?」
彼は目を見開き、向かいに立っている兵へ視線で助けを求める。そんなに難しい質問ではない。反対側に立っていた兵は彼よりも年嵩のようだ。彼は口元に弧を描いた。
「神子様のご衣裳はこの国で唯一の刺繍です。その模様を身に付けることを許されたのは月の神子様のみ。テトラ州の精霊様にも唯一の刺繍が贈られています。それらの文様は一般人が身に付けることは禁じられております」
「へえ、そうなんだ」
同じ朱金の糸を使っているから同じ模様だと思っていた。紗江は口元に弧を描いた。
「ありがとうございます。よく分かりました」
年嵩の兵が頭を下げると、扉を開けてくれていた兵も顔を赤くして俯いた。
「――いつまで他の男と話しているつもりだ。」
不機嫌な声が部屋から響く。目を上げると、アランが書類を片手にこちらを睨んでいた。そう言えば神子姿の時はあまり気安く民に話しかけるなと言われていた。神聖さが失われるからという理由は、なんだか納得がいかない。
内心を隠して紗江は口元に笑みを湛えながら部屋へ入った。部屋の中央の大きな机が州官長、その左脇が州官長補佐官。先程まで話していたロティオは立ち上がると、深く頭を下げる。
「御前失礼いたします」
紗江は鷹揚に頷いた。
「どうぞお掛け下さい。私こそ、お仕事中に失礼いたします」
「ありがとうございます」
彼はすんなりと頷き、仕事に没頭する。先生である彼と州官長室にいる彼は少し雰囲気が違う。神子としての紗江にはそっけない。
アランの机の右脇、ロティオの机の向かい側にある長椅子に紗江が腰かけると、アランは視線を書類へ落とした。
「遅かったな。何をしていた」
ロティオを前にさっきまで一緒にいましたとも言えず、紗江は曖昧に応えた。
「その辺りを見て回っていました」
書類へ落とされた彼の目つきが悪くなる。
「街へ降りていないだろうな」
「……」
紗江は話を変えた。
「お仕事はいかがですか、殿下。今日も遅くまでかかるようでしたら先に失礼いたしましょうか?」
侍女は連れて来ていないため、茶も飲めない。茶葉の場所が分からないのだ。アランはロティオを侍女のように顎で使っているが、茶を入れろとは言いにくい。帰るついでにもう一度街の中を覗いて行こうかと視線を上げる。ロティオの背後の窓は、赤く染まり始めていた。
「駄目だ。勝手に城以外のどこぞへ消えるつもりだろう」
「……まあ」
紗江は頬を押さえてアランを見る。ロティオがちらと視線を上げた。
「失礼いたします」
アランが目を上げる。扉を開けたのは軍服に身を包んだ兵だった。あまり見たことのない綺麗な顔の兵だ。白い短髪に切れ長の緑の瞳。背の高さはアランと同じくらいだ。
彼は部屋に入るなり紗江に目を向けて僅かに動きを止めた。
「気にするな。どうした」
「いえ、神子様がいらっしゃるものとは思っておりませんでしたので……」
言葉を濁した彼をどこで見ただろうと、紗江は頬杖をつきながら考える。紗江の前では報告しにくい内容なのだと分かったが、今しがた転移をするなと言われたばかりなのでどうしようもない。
「構わん。報告しろ」
「──は」
彼は文官とは違い、報告書の類は一切持たず口頭のみで報告を始めた。
「先程、新たに殺害された者と思しき着物が発見されました。死体を見た者、争う声を聞いた者など一切の目撃者はございませんが、ルトの宿屋街の路地裏で相当量の血痕と着物が発見されております。現在兵を増員して警邏と調査を執行しておりますが、民に不安が広がっております。血痕の発見時、神子による殺害であると喚く者が現れたため、兵が収拾を図っておりますが、犯人が捕まるまで神子様の州城へのお渡りは控えられた方がよろしいかと」
だから言いにくそうにしたのか。ロティオがちらとこちらを見た。
「この時刻の殺害は初めてではないか?」
アランの眉根が寄る。兵は首を振った。
「血の乾き具合からしますと、恐らく本日ではなく昨夜かと。宿屋街でも妓楼周辺の路地裏でしたので、発見が遅れたものと思われます」
綺麗な顔をした武人だと横顔をみやる。紗江の記憶が蘇った。馬車から見下ろした時、彼を見て気難しそうだと思ったのだ。ノナ州への視察に彼は同行していた。ということはアランの信頼厚い人間なのだろう。
今回の殺人事件の調査支団の筆頭官だろうか。クロスがそれだったような気もするが、と首を傾げた紗江に視線が集中する。
「……なにか?」
アランが目を眇めた。
「話を聞いていなかったのか?」
「……途中まで」
――しか、聞いていませんでした。最後まで言わずともアランには伝わった。
「……今回の殺害は全て体を引き裂いて行われているが、お前ならできるのかと聞いたんだ」
綺麗な顔の兵が戸惑った表情でこちらを見下ろしている。ロティオなど信じられないという顔でアランを凝視している。
紗江はしばらく黙りこみ、にっこりと笑った。
「できますよ」
「――」
兵とロティオは目を見開いた。その表情は可哀想でいて、紗江にとってはほんの少し愉快だった。不謹慎だが、くすりと笑ってしまった。
「何故そう言いきれる」
アランは険しい表情だ。紗江は衣で隠れた指先を見せた。手のひらの周りに金の粒子が舞っている。
「人を殺したことはありませんが、感覚ならわかるのです。この指先に力を溜めこめば、きっと人の肉さえ引き裂けるのだろうと。……私を聴取されますか?」
兵に顔を向けると、彼は口元を引き結んだ。容疑者となるが、手を出すわけにはいかないと考えている顔だった。
紗江はアランを見る。彼は面倒くさそうにこちらを見ていた。
「そういう物言いは感心せんな。可愛げのない……」
紗江はころころと笑った。
「ごめんなさい。でもずっと思っていたの。この殺人者は、ものすごく月の力が強い。きっと守り人のように、空を自在に飛べる人なのだろうと思っておりました……」
人を殺すために、体にため込んだ力を開放していく行為。紗江とは違い、この世の人間にとって月の力は命の欠片のようなものだ。それを使って人を殺す者の心はどれほど病んでいるのだろうかと、考えていた。命を懸けてでも、人を殺したいその気持ちの元は一体何だろう。
「ではなぜ気付いた時点で俺に言わない」
紗江はアランからロティオ、そして兵へと目を移した。
「……だって、犯人にされるのは嫌だもの」
「いえ、それは」
兵の目が動揺する。紗江は笑みを深めた。
「いいえ。殿下は私に容疑がかかれば容赦なく尋問なさいますよ」
「まあな」
アランが即答する。兵も今度こそは信じられない表情でアランを見た。アランが喧嘩腰になんだと聞き返す前に、紗江は口を開いた。
「でも私の方がずっと強い。私の方がもっと上手に殺せる」
脳裏を過去が過ぎった。目の前で霧散した彼の姿。部屋の人間が自分に注目する。
「私なら、血を流すことなく……人の力の全てを吸い取り、殺すことができるもの」
「……」
アランを除いた二人が愕然と自分を見おろしたので、紗江は満足した。背もたれに深く背を預け、兵を仰いだ。
「だから、私は城へこもる必要はありません。たとえ民の全てが私を殺そうと襲いかかっても、誰も私を殺せない」
彼の白い顔は、更に白くなった。
紗江は暗い眼差しで彼の向こう側を見た。あの人の顔はいつまでも記憶に鮮明だ。
「――嘘をつくんじゃない」
紗江は口を閉じる。腹立たし気な表情でアランがこちらを睨んだ。
「力を吸い取ったことなどない癖に、分かったようなことを言うな。お前は無理やり、力を注がれただけだ。間違えるな」
紗江は口を曲げて頬杖をつく。
「同じことです」
「くだらん。ならば俺の力を吸い取れるか、試してみろ」
「殿下……」
兵が止めて欲しそうに呼んだ。
紗江は応えなかった。力を自ら吸い取る感覚は想像できなかった。力を溜める方法や注ぐ方法は本能的に分かると言うのに。この世の人間が自在にできることが、精霊である自分にできない不思議。
アランは憤懣やるかたない顔で兵とロティオに目を向ける。彼らの顔色は悪かった。
「こいつはお前達が想像したような魔物ではない。力を溜めて、力を注ぐことには長けているが、未だ飛ぶこともできぬ未熟者だ。更には、こちらの人間に触れられれば力を吸い取られる危険があるというのに、無防備に触れて回る、お人好しだ」
まるで馬鹿者呼ばわりではないか。
「しかも弱く、反応が遅い。ビゼー、剣を抜け」
「……」
言われるまま彼は腰に帯びた剣を抜いた。アランが顎を動かすと、切っ先がこちらに向けられた。
紗江は頬杖をしたまま、ぼんやりとその剣を見る。綺麗な剣だった。光を反射して良く切れそうだ。両刃の剣。両刃は手を添えて力をくわえられないから扱いが難しそうだ。
ゆったりと顔を上げると、綺麗な顔の兵は淡々とこちらを見下ろしている。そういえば、今ビゼーと呼ばれていたなと記憶していると、アランが僅かに笑った。堪えられず笑った風情の彼は、咳払いをして表情を引き締める。一体何事だ。
「分かったか?」
「そうですね……」
ビゼーの声は呆れたものだった。何が分かったのか分からない。首を傾げると、剣を納めるビゼーの背後でロティオが笑んだ。
「剣を見たら普通怖くなって身を引くものですよ」
「え」
紗江は顔を上げる。
「今のあなたの間では、いくらあなたが転移のできる神子様でも、あっさり殺されていますね」
「……!」
頬に朱が上った。氷の王子様のような顔をしていたビゼーまでが、ふっと笑った。
「強がりなお方なのですね……」
紗江は内心絶叫した。そんな言い方をされると、自分が悪ぶっている子供の様だ。
アランはまだ笑いが込み上げるのか、拳で口元を押さえながら笑い含みに言う。
「可愛いだろう、俺の神子は」
「――!」
――やめて! みんなの前でそんなこと言われたら、私すごく格好悪いじゃない!
紗江は声を出すわけにもいかず、両手で顔を覆った。消えてしまいたい。
「だから、お前は当分街へ降りられない。分かったな?」
「そんな……」
それを言うためだったのか。
紗江は顔を覆ったまま項垂れた。
彼には紗江の思惑など筒抜けだった。誰よりも強いと印象付けて街へ降りないようにと言われないように仕向けたかった。
「人に触れられれば力を奪われるような弱い生き物が、街中を自由に歩き回れると思うな。全く、何を言い出すのかと思えば……」
紗江は膝の上で拳を握る。
「でも、月の力が強い人なのは絶対です。誰にも見られずにあの路地から相橋まで心臓を運ぶなんて闇夜でも血痕が残るはずだもの。あ、屋根は調べられましたか? きっと屋根に血痕が残って……」
「いつ殺害現場を見に行った……」
「……」
無言で見つめ合う。その間をビゼーが引き受け、報告した。
「その点もご報告をと思っていたのですが……クロス特務曹長が調べさせたところ、神子様のおっしゃるように血痕が残っておりました」
紗江は瞳を輝かせた。
「ほら。だから軍の方たちだけだと大変じゃないかしら? 飛んで逃げる人を追いかけられないでしょう?」
「お前なあ……、いいから黙れ。わかった。もういい。先に城へ帰れ」
煩い蠅でも払うかのように手を振る。紗江は口元を尖らせ、立ち上がるとくるりと背を向けた。
「なによ。ちっとも捕まえられないくせに!」
「な……っ」
アランが声を上げるが、紗江の体は金色の粒子に切り替わった。
ほんの瞬きで金色の粒子と化した少女の残り香だけが漂う室内には、沈黙が落ちる。
二人の私的なやりとりを初めて目にしたビゼーは、ぼそりと言った。
「なんと申しますか……非常に可愛らしい方ですね……」
街に降りたいがために悪ぶってみたり、捜査に口出しをするなと言われれば拗ねてみたり。およそ月の神子として民に崇められている神の姿とは思えない、ただの少女だった。
アラン殿下は頭痛がするのか額を押さえている。
「あれだから民の前では口を開かせられん」
「なるほど……」
あれはあれで違う意味の人気を勝ち取る気がしたが、それは目の前の婚約者が嫌なのだろうなと内心呟く。邪な目で見られるのは嫌だろう。
「いいのですか? 街へ降りられるかもしれませんよ。もう夕暮れで、遅い時刻ですが……」
ロティオが窓の外に目を向ける。アラン殿下は窓の外を見やり、深い溜息を落とした。
窓の外には赤く染まった空が広がっていた。血のようなその色に、ふと神子が唯一顔を強張らせた瞬間を思い出す。
命を吸い取るか、注ぎ込まれたかの違い。
あの時だけは、彼女の雰囲気が違っていた。
「……」
壊れそうな何かが、目の前にあった気がしたのだが──。




