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月の精霊~異世界って結構厳しいです~  作者: 鬼頭鬼灯
ガイナの神子─ 四章
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光弾く花弁


 着慣れた自分の着物に身を包み、庭の草を刈っていたティナは玄関辺りから普段とは違う声を聞いて顔を上げた。黒い柵の向こうを横切る人の数は、いつも通りだ。ただ、通り過ぎる人、通り過ぎる人、皆が桜花蒼姫の方を振り返って行く。

「……?」

 不思議に思って彼らの視線の先を窺ってティナはぽかんとした。女の子が柵の向こうからこちらを覗き込んでいたのだ。青い花模様の布と耳に飾った高価そうな飾りが目に鮮やかな女の子は、ティナと同い年か少し上に見えた。

 庭のぐるりを見回している彼女がこちらを向いた時、心臓が跳ねた。通行人が振り返る理由が分かった。彼女には人目を惹く何かがあった。白い肌に黒く大きな瞳、可愛い鼻に赤い唇。興味津々で輝く彼女の瞳がティナを捉えると、にっこりと笑んだ。

 こんな店先でうろうろするなんて、ティナと同じように売られに来た娘だろうか。

 それにしては上等な着物を身にまとっていて生活に困った様子はない。

 ティナはぺこりと頭を下げると、また草刈りに没頭した。女中の仕事を最後までやりきらなかったティナは当分女中へ上がることは出来ない。支配人にそう言われてどこか安堵した。性的なやり取りを見ずに済むならその方が嬉しかった。

 だが番頭の機嫌はすこぶる悪い。今日も炎天下だが、草刈りを命じられている。元々草を刈ろうと思っていただけに、ティナは別段嫌な気持ちでもなかった。

「おい、チビ」

 シャグナがチビと呼んで憚らないので、誰もがティナをチビと呼ぶ。振り返ると、店番をしている男が手招きした。

「……? はい」

「手袋と鎌を置いて来い。州官様がお前の雇用確認にいらっしゃった」

 言われる意味が分からず、ティナは首を傾げながらも男の後に続いた。柵を見やると、もうあの綺麗な女の子はいなかった。

 玄関まで招かれて、ティナはまず先程の少女に気付いた。青い花模様の布を頭に巻いた女の子は、近くで見ると煌めきを放っているような美しさがあった。その隣にいる男は紫紺の髪を一つに束ねた官吏だった。ティナの胸が高鳴る。自分が焦がれていた官吏の立場を手に入れたその人が、特別な輝きを持って見える。長い前髪の下にある瞳は切れ長で、神経質そうな印象だった。紫の瞳がティナに気づき、淡々と頭を下げた。

「あなたがティナさん?」

「はい……」

 こちらに背を向けて座っていたシャグナが手招いた。

「おいで……ティナ」

 どきりと胸が鳴った。官吏の前でチビと呼ぶわけにはいかなかっただけだ。分かっているのに、何故か頬が染まった。彼はティナの反応に笑みを深くして、手を差し出した。勝手にティナの手を引いて隣に座らせる。

 状況が呑み込めなかった。目の前には官吏と綺麗な娘、隣にはシャグナだ。何が始まるのかと身を縮こめると、官吏の目元が僅かに笑んだ。

「ああ、大丈夫ですよ。怖い事はありません。貴方の雇用状況を確認するだけですから、私の質問に正直に答えてください。よろしいですか?」

 ティナはシャグナの顔を仰ぎ、彼がくつりと笑うのを見ると恥ずかしさで俯いた。

 官吏は時間がないのか、質問を始めた。手元の書面を繰っていく。

「あなたの今のお仕事はどんな内容ですか?」

「えっと……下女です」

「そうですか。遊女の仕事を強要されるようなことはありませんか?」

「え? ないです……」

 こんな痩せぎすの子供を桜花蒼姫が遊女にするはずもない。彼はただ業務ですからという表情で続けた。

「これは単なるお知らせですが、あなたは未成年ですから、たとえ希望されても十六歳まで遊女登録は出来ません。更に、遊女は強要による登録は無効とされており、犯罪です。もしも遊女をしたくないにもかかわらず、強要された場合は州城もしくは近くの兵へ訴え出てください。貴方の身柄を保護し、店に対し所定の処罰を下します」

「……」

 目が点になった。淡々と渡された本は、ガイナ王国の就業に関する法律を記載した冊子だった。彼はその冊子の中の一部を指示して説明してくれる。

 知らなかった。その内無理やり遊女にされるのだと思っていた。唖然とするティナを官吏が訝しげに見る。

「大丈夫ですか?」

「あ、はい」

 ティナの反応を勘違いした彼は、シャグナを見やる。

「無理強いはされていませんね?」

 シャグナは非常に優雅に、全くの乱れなく頷いた。

「もちろんです……」

 ちらりとこちらを見た目に、何故かぞくりとした。

 官吏は息を吐いて続ける。

「では、雇用条件についてですが、賃金の支払いはどのように?」

「え?」

 ティナは絶句した。賃金など貰った記憶はない。官吏の眉間に皺が刻まれた。

「住み込みでも無賃金での就労は禁止されていますよ」

「え……」

 そうなの? と叫びたかった。シャグナを見上げると、彼は憂いのある溜息を落とした。

「この娘は店に紹介された際、千ルーガを先に支払っております……。これは三か月の見習い期間としての賃金となりますので、毎月の支払いはまだ始まっておりません。今月末より支払いの開始となります……」

 そうなの? と聞き返したかったが、何とかこらえた。シャグナの立場が悪くなってもいけない。

 千ルーガはティナを連れてきた男に支払われている。男が両親に渡すと言っていたから、それでティナへの支払いと変換されるのだろう。

だが、たかが下女の試用期間に千ルーガは高すぎると思う。半年は余裕で生きていける金額だ。

 疑われやしないかと官吏を窺うと、彼は金額には全く頓着していない様子だった。ティナの様子を見やり、不満げに溜息を落とした。

「そうですが。では支払予定と賃金の明細表の提出を怠らないでください。ですが感心しませんね。ご本人への説明は雇用の際にきちんとするべきです」

「失念しておりました……」

 ゆったりとこちらを見おろし、シャグナは口角を上げた。

「ごめんね」

 その悪戯がばれた子供の様な表情に、ティナは口を開けた。この男、絶対わざと言わなかったに違いない。

「ティナさんも、実際に賃金が支払われなかった際は州城へ訴えられますから、お忘れのないように」

 言いながらティナの手元の冊子を捲って雇用に関する法律を見せる。高等学院で優秀だと褒められていたが、法律に関する知識はほとんどなかった。法律を学ぶための本はとても高価だったからだ。

 自分の未来が開けた気がして、ティナの頬は緩んだ。ずっとやり取りを眺めるだけだった少女がティナの顔を覗き込んだ。

「ガイナ王国の法律はとっても整備が行き届いているから素晴らしいわ。性を売る妓楼の法律など目が回りそうなほど細かくて、お店を持つ人はとてつもなく賢くないと店を開けないようになっているの」

 耳に心地よい愛らしい声だった。官吏は眉を上げ、隣でシャグナが苦笑している。制服は着ていないが、この女の子も官吏の一人だったのだろうか。

「お褒めにあずかり光栄です……」

 妓楼を持つのは難しいとは知っていたが、細かな内容まではしなかった。

「そうですか……」

 彼女は黒い瞳を細める。

「でもね、悪い人は沢山いるから気を付けてね。多くを知っておかなければ、だまされている事実にさえ気づかないものよ」

 自分と同い年くらいだと思っていた彼女は、今や随分年上の女性に見えた。見てくれは若いのに、その声は深く穏やかだ。

「私はだましたりしませんから、ご安心ください」

 シャグナが官吏にというよりは、少女に向かって言った。官吏は咳払いをして続ける。

「そうですか。私どもも桜花蒼姫を調べ上げるような日が来ないことを祈っております」

「心しておきましょう……」

 官吏はいくつか細かな就業に関する注意点を告げ、書類を束ね始めた。もう彼の仕事は終わったのだろう。彼の脇で佇んでいた少女が、おもむろに近づいて手を取った。滑らかな肌は白く、ティナと比べ物にならないほど美しかった。

 驚いて見上げると、彼女はティナの心の底までを覗き込むような深い色の瞳で見つめる。けれど表情は秘密ごとを話すような笑顔だった。

「……ねえ、ティナさん。あなたの願いを聞いても良いですか?」

 シャグナが僅かに目を見張った。彼のそんな表情は珍しく、ティナは首を傾げる。今は水を浴びたいが、彼女の質問はそんなところではないだろう。質問の意図も分からないし、応える必要もないと思ったが、彼女を拒否するのは理由もなく嫌だった。

 ティナは少し考えて、目の前の官吏の姿に視線を移した。

「私は……勉強がしたいです……。でも仕事があるので」

 無理だと言うことは分かっている。官吏の紫色の目がこちらを見た。

 視線を戻すと、彼女はにっこりと笑っていた。黒い瞳は先程よりも潤んでいるように見えた。

「ガイナ王国の官吏は腐敗を知りません。軍兵達も、決して民を裏切らない。ガイナ王国を支える官吏達は誇り高く、そして尊い。あなたが……官吏の一翼を担われる日がいつか来ると私は信じています」

「え……?」

 無理だ。勉強する時間もない自分に官吏など目指せるはずが無い。

 否定する間もなく、彼女は手を離した。

「行きますよ」

 官吏に促され、彼女は背を向ける。呆然とするティナをちらりと振り返った彼女は、強く言った。

「諦めれば全ては終わるもの」

 彼女の耳元に挿された花弁が光を反射した。それはガイナ王国を模した花。

「──」

 開いた口から空気が漏れた。隣に座っていたシャグナが、何故か嘆息した。



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