表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月の精霊~異世界って結構厳しいです~  作者: 鬼頭鬼灯
ガイナの神子─ 四章
84/112

青い布


「死ぬ……」

 州城の薄暗い廊下を朦朧と歩きながら、ロティオは呟いた。このところまともに家に帰れていない。先日など州城まで兄が訪ねてきた。本当に鬱陶しい。ロティオを心配してきたのではない。ただ酒の飲み過ぎで浮かれた兄は深夜でも話し相手をしてくれる自分のところに来ただけだった。酒を飲むと兄は饒舌さに拍車がかかる。

 最近アラン殿下が婚約者とした月の神子様について執念深く愚痴をこぼしていたが、それ程神子様というものは素晴らしいのだろうか。婚約式の日も仕事にけりをつけるまで時間を要した為、ロティオはぎりぎりに式場へ入った。すでに満員御礼の教会内の二階の端から覗くしかできなかったロティオは米粒のような神子の顔をよく覚えていない。

 その後のアラン殿下の私城で開かれた宴でも、神子はカサハを被っていたため顔は見られなかった。

 手元から書類が滑り落ちる。腕に力を入れる意志すら朦朧としているようだ。

 アラン殿下の意向に反して州官達は結果をもたらせていなかった。一日で過去の宝石関連の数値修正を求められたと言うのに、調査官は戻らなかった。――いや、戻れなかった。

 ジ州は広い。花街として有名な第八区画と都のある第七区画が商売上繋がっている。この二区間での石の調査であれば楽なのだが、鉱山はジ州の郊外にあるため移動に時間がかかるうえ、過去三か月分の再調査となると容易く終わらなかった。

 調査官を使い尽くしても結果が出せず早二か月が経過しようとしている。更に己の管理不行き届きまで発覚した。移民の申請があった者へ就業の申告義務を書簡にて通達するのだが、この業務が数か月滞っていた。申告の住居へ住まっていない者への変更指示と警告もしなければならない。正直、そこまで目は届かない。だが戻って数日でその不手際に気づいたアラン殿下はその追加措置まで当然要求する。

 州城はこれまでの安穏とした平穏から急激な業務過多による人員不足と疲弊で満ちていた。州官長補佐官である自分がなぜ、宝石商の一つ一つに直調査をしながらも各商店の従業員調査まで兼ねなければならないのか。それもこれも、これまで殿下の目が離れたのをいい事に手を抜いた各省の官吏のせいだ。

 自分は頑張っていて、よくやっていると称えられ、いい気になっていたロティオは若干自己嫌悪に陥っている。州官長が戻るや否や次々と指摘されてゆく各官吏の間違い、不手際、管理不行き届き。

「死にたい……」

 もはや願望となりつつあるその言葉を吐いたロティオは、隈の目立つ顔に光を感じ、視線を向けた。州城には中庭がいくつか存在する。短く切り揃えられた緑の草の合間には可憐な白と桃色の花が顔を覗かせ、朝日が射した庭園は楽園に見えた。

 東塔から中央塔へつながる一階の外回廊に爽やかな風が吹く。

 夏場とはいえ朝夕は涼しい。心地よい風の中少し休憩するのも悪くない。自分は割と死にそうだ。

 回廊から数歩草の上に歩みを進めた彼の意識はそこで途絶えた。業務過多による無理を強いた疲労に重ね、一向に成果を見いだせない己に焦っていた彼はここ数週間まともに睡眠をとっていなかった。安らかな眠りをむさぼり始めた彼は、草原へ顔から突っ伏し、倒れているようにしか見えない醜態を晒していた。


「…………?」

 どれほど時間が経過しただろうか。ロティオは体の異変に少しだけ覚醒した。だが眠い。瞼はまだひらけない。

 温かい。全身がほわりと癒される。暖かな何かが額から広がって行く。

 溜まりきった疲れが癒される心地よさに、ロティオは寝返りを打った。気持ちがいい。睡眠は重要だ。

 顔に光を感じる。夏の太陽は明るさを増すのが早い。

「……ぇ、……いじょう……?」

 何かが聞こえた。自分の周囲にはない、妙に愛らしい音だ。

「……ん。ど……ようかな……」

 前髪が揺れる。風に揺れた前髪に何かが触れ、ロティオは薄く目蓋を上げた。視界一杯に黒い何かがあった。朦朧とした意識ではそれが何かよく分からず、瞬く。

 その黒い石はキラキラと光っているようだった。それが瞬いて、やっと瞳だと気付く。瞳はロティオと視線が合うと離れて行った。焦点が合う距離まで離れたその人は、可愛らしい笑顔を浮かべた。

「起きた?」

 鈴を転がすような愛らしい声で尋ねてくる。

 ――夢か。

 こんなに美しい少女に起こされるような夢を見るほど自分は飢えたつもりはないのだか、と瞬く。

 少女の周囲は何故かきらきらと輝いて見えた。黒い目に白っぽい髪の毛。天使が降臨したか――と自嘲気味に笑ったロティオの耳に、はっきりと声が聞こえた。

「大丈夫? ロティオ先生」

「――はい」

 思いのほか冷静な反応を返せた自分を褒めたい。

 ロティオは草の上で寝ていたことなどなかったかのように、しゃっきりと上半身を起こし、傍らに座っている少女に顔を向けた。

 覚醒した目は正確に彼女を捕らえた。銀糸の髪に黒い瞳の見目麗しい女の子。銀色の髪が草の上にまで届くほど長い。見間違えるはずが無い。最近州城に学びに来ている――ミコトだ。

 天使かと見紛うほどの後光は、太陽の光を受けて銀色の髪が光を反射したのだろう。素晴らしい目覚めだ。

 ミコトはにこ、と笑った。

「よかった。これが廊下に落ちていたから、もしかして先生が倒れられたのかと思って心配しちゃいました」

 彼女の笑みは非常に無垢だ。ロティオは釣られて笑った。

「すみません。少し休憩をしようと思ったのですが、寝入ってしまったようです」

 彼女はロティオが落としただろう書類を綺麗に整えて渡してくれる。しかし書類を廊下に落とした記憶はあるが、そのまま寝入るとは愚の骨頂だ。礼を言って書類に欠落が無いか確認している間、彼女は向かいに座り込んでこちらを見つめていた。風が吹くとふわりと甘い香りがする。どこかで香ったことがあると思ったが、女性の香に詳しくないロティオは思い出せなかった。

「先生は最近、授業をされないのですね」

 他意なく尋ねられ、苦笑する。

「そうですね……最近は街へ直接降りて確認する業務が多くて時間を作れないんです。ごめんね」

「街へ降りるんですか」

 業務内容を話してもいいが、彼女にはよく分からないだろうと思い、詳しくは言わない。

「はい」

 彼女の瞳が少し輝いた。

「じゃあ、ロティオ先生はジ州で背の高い建物がどんなお店か知っていますか?」

 ロティオはふっと笑った。無邪気な質問だ。

「知っていますよ」

 最新の建築技術を駆使したジ州で屈指の最高級店だ。今日の予定に組み込まれている。彼女の瞳は更に輝きを増した。

「今日はそのお店の近くに行ったりされますか?」

「ん……? まあ……そうだけど……」

 質問の意図を計りかねて彼女を見返す。

「これから街へ行かれるのでしたら、私もご一緒してよろしいですか?」

「え? 授業は受けないの?」

 確かまだ夜明け近い時間だったはずだ。彼女はにっこりと笑った。

「はい。授業は一時間くらい前に始まっちゃいましたから、今日は諦めます」

「え、一時間前!?」

 ロティオは勢いよく立ち上がった。不味い。寝過ぎた。まだ草の上に座り込んでいる彼女がこちらを見上げる。

「アラ……殿下が既にいらっしゃっているので、補佐のお仕事は大丈夫だと思いますよ」

「あ、そうなんだ。よかった……」

 アラン殿下がいらっしゃらない場合は執務室で州官長の業務を確認せねばならず、その認証待ちが増えていたらまずいと思ったが、来ているのならば問題はない。

 彼女は期待に輝く瞳で立ち上がった。

「お邪魔はしないので、一緒に行ってもいいですか? 官吏の皆さんのお仕事がどんなものか見たいのです」

 可愛らしく聞くものだと彼女の顔を無言で見つめ返し、ロティオは肩を竦めた。

「入っちゃ駄目といった場所は入らないでくださいね」

「はい」

 にっこり笑った彼女を引きつれて州城内を移動する途中、すれ違った官吏にアラン殿下の所在を念のため確認する。確かに州城内にいると確認を取ってから、ロティオは州城の門へ向かった。話しかけた官吏だけでなくすれ違う官吏たちがちらちらと少女に目を向ける。確かに可愛いが皆が注目するほどこの少女は有名なのだろうかと、隣を見る。

 ご機嫌そうに歩いている少女は、ごく一般的な着物を身に付けた普通の女の子にしか見えなかった。

「お待ちください。――業務ですか?」

 州城門を出るとき、門兵が声を掛けてきた。これまで呼び止められた経験がなかったロティオが怪訝に振り返ると、門兵は自分と彼女を見比べ物言いたげにする。いつもは一人の自分が明らかに一般人の少女を連れ歩くのは目立つようだ。ロティオはふうと嘆息した。

「第八区画の市場調査です。彼女は見学ですよ」

 門兵は何故か確認するように少女に目を向ける。少女がにっこりとほほ笑み返すと、彼は視線を州城内へ向けた。

「では、護衛兵を……」

 ロティオは眉根を寄せた。

「必要ありませんよ、そんなもの。軍の訓練は受けています」

 たかが市場調査程度に護衛兵を使っていたら兵士の数が足りなくなるではないか。大体、ロティオは軍人ではないものの官吏である以上一通りの訓練を熟しており、その辺の輩であれば余裕でいなせる。ガイナ王国の官吏は文武両道でなければならないのだ。

「しかし……」

 少女がにっこり笑ってロティオを見上げた。

「ロティオ先生がいれば安心ですね」

 釣られて笑い返すと、兵は戸惑いながらも敬礼した。

「御身、お気をつけください――」

「……どうも」

 新兵でもないだろうに、妙に丁寧な言葉遣いをするものだ。訝しみながらもロティオは彼に背を向けた。

「わあ、太陽が明るいですねえ」

 彼女は嬉々として太陽を見上げ、満面の笑みを向けてくれた。

「そうですね」

「夏に直接街を歩いてのお仕事は大変でしょう」

「仕事ですからね」

 そういえば死にそうなほど疲弊していたはずだが、平気になっている。それどころか力が漲っているようだ。自分の掌を握って開く。視界の端で少女が髪に青い花の模様が入った趣味のよい布を巻き始めていた。

 太陽の光を避けるためなのだろうと、尋ねもしなかった。



 活動報告にてご報告いたしましたが、第81部『約束』を『甘い待ち人』と改め、内容を変更いたしました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ