優しい愛情
灯篭だけで照らし出された庭は薄暗かった。情緒ある風情を醸し出すための演出が、今のティナにはちょうど良かった。暗い闇の中にうずくまった自分を見つけられる人はいない。
泣き顔でお客様の前に出ることは許されない。指南役の女性は心配しているような、呆れているような顔で言った。部屋に下がるよう言われ、ティナはぼんやりと庭の端を歩いていた。告げ口のようで嫌だがと前置きをして、彼女はティナが途中で辞したことをシャグナに報告しなければならないと言った。業務を途中で下がる以上、支配人か番頭の耳に入れておかなければならないのだそうだ。番頭でなく、シャグナに報告すると言った彼女は、きっとティナが番頭に嫌われていると知っているのだろう。
部屋に下がる気にもならず、涼やかになった風が吹く庭と本館の隙間に座り込んだ。宴会で慌ただしく人が出入りする厨房側ではない、玄関近くの庭の隅。シャグナに見つかりたくなく、彼の部屋とも反対側の店の裏にティナはいた。時折玄関から人が出入りする音が聞こえる。
衣擦れの音が聞こえるたび、ティナは息を殺した。
涙はほとりほとりと頬を伝い落ちる。どうやったら家に帰れるのだろうとばかり考え、気分が沈む。
酔客とその連れらしき人の声が聞こえた。これから帰るところのようだ。自分もあの玄関を出て普通に帰れればどんなにいいか。
慣れない仕事のせいか、眠気が襲ってくる。どれほど長く蹲っていたのか、うつらうつらとしていた頭に、何かが触れた。
「……?」
木の葉でも落ちたのかと思った瞬間、鼻先を掠めた香りにティナはびくりと肩を震わせた。
「こんなところにいたの……」
目を上げると風通しのために開いていた窓からシャグナが身を乗り出していた。彼は暗闇の中でも美しいと分かる顔に笑みを浮かべている。
「……旦那様」
呆然と呟き、ティナは慌てて立ち上がった。
「も、申し訳ございません……途中で、仕事を抜けるような真似を……」
頭を下げると、窓枠からだらりと落ちるシャグナの手が視界に入った。彼の指先には紫色の花があった。木の葉が触れたようだと思ったのは、これで頭を突かれたせいだ。
彼は窓枠に凭れかかりティナを面白そうに見下ろす。
「こんな庭の隅で泣くなんて……見つけて欲しいと言っているようなものだ……」
「え……いえ……」
見つけて欲しいなどとは思っていなかった。慌てて目を擦る。彼はくつりと笑う。
「弱った女を口説くのは性じゃないんだ……チビ」
口説けと言った覚えは無い。困惑して目を上げると、彼は頬杖をついた。その目はいつもよりも少し冷たい。
「ジンキなどが見つければイチコロだ……。そうそう……お前はジンキの前で泣いたのだったか……」
ティナの頬に朱が上った。彼の言いぐさでは自分が狙ってジンキの前で泣いたようだ。
「そんな…つもりは……」
「ジンキはお前を心配して、私のところまで来たよ……。たかが従業員一人に……お優しい事だねえ……」
胸が跳ねる。たかが、と彼は言う。ティナの存在など高が知れていると、笑う。彼は怒っているのだ。役に立たない自分を。
ティナは唇を噛んで俯いた。
「……お役に立てず、申し訳ございません」
「ほんとうに……お前は面倒ばかりを起こす……」
花が頭に触れる。言われるとおりだ。返答のしようもなく、黙り込む頭にため息が聞こえた。
「……どうして泣いたの」
「え……?」
どきりと胸が鳴った。理由は言えない。シャグナにとってはくだらないと一蹴できる程度の感情だ。
彼は黒い瞳をティナに向ける。見つめ続けられるのは耐えられなかった。
「……益体もない……ことなので……」
彼は目を細める。
「そう……お前は、益体もない事で仕事を放りだす子なんだね……」
「……」
反論の余地はなかった。このまま仕事を奪われるだろうか。ほんの少しばかり持ってきた金では一週間と生きていけない。他の店で雇ってもらうには、どうすれば良いのだろう。
切り捨てられることばかりを考える自分の顔に視線を感じる。彼はじっとティナを見つめていた。
「言い訳もしないのだね……」
「……その通りですので」
「お前は本当に……可愛げのない娘だ。泣き顔を見せて……辛いと言い寄ればいいものを……」
ティナは眉尻を下げる。そんな真似を誰にするというのか。
彼は困った顔のティナを見て、くつくつと笑う。
「男というのはね……とても単純だよ。ちょっと弱さを見せて、縋られれば有頂天になるものさ……。それがお前のような……可愛らしい顔の娘なら特にね……」
「──」
ティナの顔は瞬時に真っ赤に染まり上がった。可愛いだなどと、この男の口から出る言葉とは思えなかった。
「ねえチビ……私の部屋に来るかい?」
「え?」
意味が分からず尋ね返すと、彼は蠱惑的な眼差しでティナを見下ろした。
「一杯慰めてやろう……優しく……芯から蕩けるほどに……」
ざわりと全身を悪寒が駆け上がった。ティナは大きく首を振った。
「いいえっ結構です!」
「そう……? 残念……」
ちっとも残念そうでない口調で言うと、彼は身を乗り出した。後退しそうになったティナの肩を掴む。
「動かないで」
思いのほか力強く抑えられ、ティナは凍りついた。間近にシャグナの顔があり、彼の香に包まれる。耳元に冷やりとした感触を覚えた後、彼の体が離れた。
耳の上に触れると、冷たい花の感触があった。
「え……」
彼はティナの顔を一度確認すると、顎に手を掛け上向かせる。感情の知れない黒い目の中にぽかんとしている自分の顔が映っていた。
「今度、他の男の前で泣いたら許さない」
「──」
ぞくりと背筋が震えた。冷えた声音だった。甘いシャグナの声とは全く違う、低い怒りを含んだ声。身動きを忘れる。
彼はにこりと笑んだ。
「返事は?」
ティナは反射的に頷いた。
「は、はい……」
「いい子だね……」
彼の顔が降りてくる。目を見開くしかできないティナの唇に、彼の吐息が触れる。視界一杯に広がる漆黒の瞳にどうすることもできず固まる。彼は触れるか触れないかの距離でティナに魅入ると、ふっと笑った。
「目を閉じれば褒美を上げる」
頭が真っ白になった。
「……」
彼の喉がくつりと鳴った。そして彼の手がゆっくりと離れた。シャグナはいつもよりも楽しそうに笑いながら部屋の中へ消えた。
ティナは呆然と呟く。
「な……ん……」
目を閉じないで良かった。褒美をもらうようなことをした覚えはない。
頬が熱い。
涙はいつの間にか止まっていた。




