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月の精霊~異世界って結構厳しいです~  作者: 鬼頭鬼灯
ガイナの神子─ 三章
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甘い待ち人

─2014年10月20日 内容を変更いたしました。


 頬を見られるわけにはいかないと、本能的に逃げ出した。使い慣れた庭園に転移できてほっとした紗江は、腕に抵抗を感じ、顔を向ける。

 巨大な影が目の前にあった。庭の外灯が背後にあり、影となってその人の表情は分からない。だが、その赤い目だけは何故か見えた。同時に全身に悪寒が駆け抜け、紗江は思わず悲鳴を上げた。

「ひゃあ!」

「な……っ」

 悲鳴に怯んだ彼の拘束が緩む。逃げよう。紗江は腕を振り切り、駆け出した。

「待て……っ紗江!」

 その鬼のような表情に飛び上がる。

「いやーっ追いかけて来ないで!」

 先程まで胸を凍らせていた感情の一切が頭から飛んだ。

 自分を殺せると言い切った彼の立場を紗江は分かっているつもりだ。けれど自分が、彼の周囲に悪影響を与えていると言われ、正直傷ついた。そんなつもりはなかったのに、いつのまにか悪者になっていて泣きたかった。

 彼の顔を見れば泣いてしまいそうで、ここ数日は彼を避けていた。

 サイの草原をいくらも駆けない内に彼の指先がカサハに引っ掛かった。強引にカサハを引き抜かれ、腕を掴まれる。

 どうしてこんなに走るのが早いのと、目じりに涙が滲んだ。夢中で彼の腕を振り払うと、彼は一瞬躊躇した後、苛立たしげに舌打ちをした。

 強引に腕が引かれ、長すぎる衣が足に絡まった。紗江はそのまま地面に衝突しそうになり、目をつむった。

「や……っ!」

「……っ」

 視界が真っ暗になる。同時に全身を彼の匂いが包み込んだ。間近で彼の大きな吐息が聞こえ、心臓が跳ねる。暖かな体温がゆっくりと離れ、紗江は眉を上げた。彼が自分を見ている――上から。

「あれ?」

 紗江は瞬く。両手が動かない。見ると両手は彼の大きな手が地に縫い付けていた。

「……」

 ほっとした彼の表情は瞬時に苛立ちに変わった。

 長い衣の上に彼の膝が乗っていて、紗江の身動きは完全に奪われていた。

「誰にたれた……」

 怒りの形相で睨みつけられる。蛇に睨まれた蛙のごとく、怖気づいた紗江はか細く応えた。

「……ココちゃんの代わりにたれました……」

「はあ?」

 紗江の目じりに涙が溜まる。彼はうっと身を引いた。両手の拘束が外れ、紗江はのろのろと起き上がる。

 目の前に屈みこんだアランの膝に触れた。何故か彼の体がびくりとした。

「……だって。だってあんなに小さい子が泣いてるのに、あの人叩こうとしたんです……。慰めてあげて欲しかった。大丈夫って言ってあげて欲しかったのに、あの人は怒った。そしてあの子を打とうとするから、つい前に出てしまいました……」

「あの人……サガンか?」

 紗江の勢いに押され、彼は尻をつく。紗江はその足の間に身を進め、膝に手を置いて彼の顔を覗き込んでいた。

「はい」

「それで不相応だと言ったのか?」

「……無理をさせ過ぎだと思ったのです。あんなに小さな子供を真夜中まで働かせた上に、泣けば殴る。でも私はそれを言う立場じゃありません。だって別に……あの二人の保護者でもなければ権力者でもないのですから……」

 自分はアランの月の神子だ。それ以上でも以下でもなく、この国にどんな権利を持っているわけでもない。

 けれどしたたかにもあたかも彼らの上であるような振る舞いをして、サガンをひれ伏させた。罪悪感が無いはずが無く、殴られたところで怒ることは出来ない。

「……それに、もとはといえば私が迂闊だったから、あの子が泣くことになったのです」

 宴であの二人に手を振った時、ほんの少しでも彼らに幸福が訪れればよいと思った。それだけだったのに、結果は真逆。

 神子の覚えめでたい彼らは瞬時に名を知れ渡らせ、ひと月も経たぬうちにガイナ王国でも繁栄の極みにある、ジ州の歓楽街にまで呼ばれるありさま。功を焦った団長による無理な演目の詰め込みで、彼らの体は疲弊の極みに陥っていた。

 更には、ジ州へ来たばかりに殺害現場を見るような不幸を与えた。

 全く想像もできなかった。ただ幸せであれと、願っただけだった。

 アランにも叱られ、その上彼の部下までも惑わせていると言い放たれ――目の前が真っ暗になった。

 月の精霊は、人を幸せにするのが役目なのに。

 彼の赤い双眸を見つめているうちに、視界は滲んだ。彼が顔を強張らせたので、ぐっと歯をくいしばって耐える。

「私……みんなを不幸にするばかり……」

「おいおい……」

 彼が呆れた声で頬を撫でる。太い指はいつも紗江に優しい。

「そこまで言っていないだろう。確かにあの双子に目を掛けたのは、軽率だ。お前はあの二人のことなど大して知らなかった。目を掛けていい者かどうかの判断もできぬ内に手を伸ばしては駄目だ」

「……すみません……」

 彼の腕が腰に回り、紗江の体が跳ねた。彼は気にも留めず抱き寄せる。額に口付け、目じりにまで口づけて慰めようとする。

 紗江は俯いた。

「私ばかりを……甘やかしてはいけません……」

「何故だ」

「だって……普段の私の怠惰な生活が、皆さんに悪影響を……」

 言っているうちにまた涙が込み上げる。あの真摯で真面目なクロスまでもアランに怒らせてしまうなんて、申し訳なさすぎる。

 だが涙を見せてはいけない。せめてアランを困らせるような真似だけは避けたい。

 アランは溜息を落とす。

「俺は、お前のせいだと言いたかったのではない。実際お前は万能じゃない。神のように万人の声を聞き、公平に奇跡を恵むような真似は出来ないんだ」

「そうですね……」

 ココの言葉は胸に刺さった。まるで女神として彼女を見守り続けてきたかのように思われているのだと気付いて、情けなくも心は沈んだ。

 彼は紗江を抱きすくめる。首筋に彼の息がかかり、背筋が震えた。

「……心配した」

「ごめんなさい……」

 低い呟きに彼の安堵が滲んでいた。

 ここ数日彼は毎夜紗江を呼んだ。戻れと何度言われても、紗江は応えなかった。――応えられなかった。瞳をあげれば涙がこぼれてしまう状態で、彼の前に立つことなどできない。

 自分は意固地だ。気が強いから、弱さを見せきれない。

 クロスの目の前で、自分が殺人犯である可能性を否定されず、心は動揺していた。更にははっきりと罪を犯せば殺すとまでいわれ、震えた。彼なら精霊でも絶対に殺すのだろうと思った。

 ガイナ王国の王子として慕われ、崇拝され続ける彼のなかには確固とした己がある。

 己がこの国のために存在すると――数多の民の命を背負うべき人間であり、過ちを許されない立場だと理解している。

 その彼に買われた自分が、彼の立場を脅かすわけにはいかない。分かっているつもりだった。理性では分かっている。自分が人を殺したのなら、彼に殺されるべきだ。

 だが心は怯え、それを隠すために淡々と彼に応えるしかできなかった。逃げ出したい衝動を抑えきれず、彼の前から消えた。

 私は、この人が怖い――。

 吐息が震えてしまい、弛んだ彼の胸の中で口元を押さえる。

「お傍を離れて、申し訳ありません……」

「……俺が怖いか」

「いいえ……」

 紗江は両手で顔を覆った。怖い。けれど、それだけではない。彼は優しい。紗江を守ろうと尽力してくれている。クロスの前でただの人間だと言ったのは、神として扱われる重圧から紗江を庇おうとしたのだと分かっていた。

「共に過ごすのは辛いか」

「いいえ……」

 紗江は顔を上げる。重い質問をしているこんな時でさえ、彼は平然としている。紗江が共に暮らせないと言えば、部屋を分けることだけでなく、主を変えることさえ平気でしてしまうだろう。

 月の精霊は他人へ譲渡することだってできるのだから。

 紗江は力強い赤の双眸を見上げ、目を細めた。

「あなたは、私と共にあることでお幸せですか……?」

 アランは眉を上げた。そして平然と応えた。

「当然だ」

「……無理をして、私を妻にする必要はないのですよ」

 ずっと心配だった。この人は国のためにあろうとばかりで、自分の心は置いてきぼりなのではないかと。本当に心から愛した女性を見つけようともしていないのではないか。

 彼は眉間に皺を寄せた。

「それは、俺との結婚は嫌だということか」

「……」

 紗江は彼の目から視線を下へ移していく。高い鼻、形の良い唇、鍛え上げた体独特の太い首に、大きな体。どんなに忙しくても鍛錬を怠らない彼の指先は太い節が連なり、ペンが当たる場所だけ皮が厚くなっている。

 真面目で、堅実で、強く、自分にだけいつも甘いご主人様。毎日甘く囁かれ、その腕に抱きしめられ、共に寝るときは何故か触れる以上の行為は求めず、あくまでも真摯にこの体を緩く抱いて眠る。

 嫌いになれるはずがない。

 紗江の唇は、勝手に動いていた。

「私は――……好き……」

 呟いて紗江はぼんやりと彼の指先を弄ぶ。心なしか指先が固くなった。顔をあげると、アランが目を見開いていた。

「――あっ」

 紗江は我に返った。逃げ出そうと立ち上がり、紗江は悲鳴を上げた。

「待て」

「ひゃうっ!」

 動物的な速さで彼に押し倒されていた。紗江の両手首を草原に縫い付け、覆いかぶさった彼の目は、猛禽類を想像させるものだった。全身が総毛立つ。

「あ、あ……アラン様……?」

「好きだと言ったか」

「い、いえ……」

 紗江は首を振った。聞き間違いです、すみません。と言おうとしたが、彼は口の端を上げる。

「俺はお前が好きだ」

「え……っ」

 目を見開いて彼を見返す。だが彼の表情は告白をしているような顔ではなかった。むしろ自信に満ち溢れ、今にも取って食われそうだ。目の色が、獣だ――。

「お前がずっと好きだった。月の宮でお前に出会った瞬間から、お前の事しか考えていなかった。誰にもやりたくない。誰にもお前に触れさせたくはない。お前の全てを俺のものにするためなら、どんなことだってやろうと思った」

 紗江の全身は恐怖か、快感か、よく分からないもので泡立つ。全身を駆け抜ける悪寒に震えが走った。

 彼はにやりと笑む。

「震えているな。やはり俺が怖いか。ん? ……俺と結婚など、嫌か」

 紗江は反射的に首を振った。

「いいえ……っいいえ、まさか!」

 結婚でもなんでもしますから許してください。半泣きで訴えると彼から漂う気配が更に妖しくなった。その瞳の色が濃くなった気がした。紗江の心臓は、はち切れんばかりに早鐘を打った。

「アラン様……」

「お前は俺が好きか。お前は俺のものになってもいいと思うのか?」

 両手を拘束して聞くことではないと思います――。

 しかし自分の頬は熱を持ってしまっていた。頬が真っ赤に染まっている自覚がある。素直すぎるこの体が憎い。

「……」

 紗江は答えを躊躇い、潤んだ瞳で見返すしかできなかった。

 彼の喉が上下する。そして開いた彼の唇から震える吐息が漏れた。

「紗江……頼む。俺のものになってくれ……。俺を好きだと……言ってくれ……」

 彼の瞳は潤んでいた。酷く切なげに紗江を見おろし、懇願さえしているような口調だった。

 ――彼は自分が告白するのを待っていたのだ。

 今更になって気付いた。

 なんて甘い人だ。

 見つめ返した視線は熱っぽく、紗江の意識を絡め取る。

 ぞくりと震えが走り、紗江は恥ずかしさで爆発しそうだと思いながら目を閉じた。彼の吐息が近づいた気がする。だが、きっと言わなければならない。

 鼓動が乱れ、息まで乱れ、もうどうにでもなれと紗江は叫んだ。

「す……っ好きに、決まっています!」

 叫んだ瞬間、息が止まった。見開いた視界一杯に赤い目があり、彼の唇が口を塞いでいた。

「は……っ? んぅ……っ」

 驚いて開いた口の隙間から容赦なく熱い舌が入り込み、全身を密着させられる。押し倒された拍子に彼は紗江の足の間に膝を立てていた。そのまま体を押し付けられる。

 恥ずかしい。夜の庭園とはいえ、そこかしこに兵がいるのに。

「や……っん、う」

 やめてと言おうとしたが、僅かな隙間を作るのさえ嫌だと言うように深く口づけられた。彼は紗江の腰に腕を差し込み、後頭部に手を添えて、これ以上ない程体を密着させながら何度も口づけを繰り返した。

 紗江の意識が朦朧とするまで、さほど時間はかからなかった。



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