赤い祝福
闇色の目は確かに自分を見たように思う。
曲刀の手入れをしながら、ココは向かいで同じ作業をしていたイルヤに話しかけた。
「ねえ、私ってさ……殺されちゃうと思う?」
「はあ?」
馬鹿じゃないのとイルヤは顔を歪めた。同じ顔の兄にそう言ってもらうと何故か少し気持ちが軽くなる。
ココ達はジ州に呼ばれていた。神子様の御前で舞を踊った話がどこを介して広まったのか、ノナ州内の各宿屋だけでなくジ州のお店からも声がかかったのだ。双子の演舞は珍しく、更に見てくれの良い二人なので客は増える一方だった。
ジ州の街並みはココにとって鮮やかで、街を歩く人々の服装からしてノナ州とは全く違った。光を反射する宝石を使ったガラスや華やかな色の服屋、派手な外観の妓楼や道を通り抜けていく馬車の多さ。全てが目まぐるしく、そして心躍らせるものだった。
ココが通り魔を見たのは演舞をした帰り道だった。大きな宿屋だったが、ジ州の中では中規模だときいて驚いた。宿屋を出てしばらくした頃、髪飾りを売る出店の品に目を奪われ、立ち止まってしまった。その間にイルヤを見失って、ココは自分の宿泊する宿屋はどこだっただろうと辺りを見回しながら歩いていたのだ。夜も深い頃合いだったが、街は昼間以上に派手だった。昼間は見えなかった各店舗の看板が光を放ち、これでもかと灯篭を吊るした店の中には火の色を虹色に変えているところまであり、眩暈を覚えそうなほどだった。
眩しい光が照らしている筈なのに、足元には濃い影が落ちていて、路地裏の影は闇でしかない。あの時、闇の中に何かが動いているなと思ってココは立ち止まった。犬でもいるのだろうかと路地裏に入ろうとして、変な臭いに足を止めた。生臭いような、湿気たような、とにかく気持ち悪い匂いだった。ぐっと口を閉ざしたところで、妙な音が聞こえた。
ぐぅ、と何かが鳴った。
そして鈍い音を立てて大きな塊が落ちた。
水が零れる音がして目を上げると人が立っているのだと気付いた。行きかっていた馬車の影が途絶え、路地裏に光が射した。
長い影だった人は真っ黒だった。長い腕の先に丸い何かがあり、そこから水がとぽとぽと零れている。全身を真っ黒な布で覆ったその人の目の周りが肌色だったので、人間なのだと分かった。そしてその目が真っ黒で、ココはこの間会った神子様を思い出した。
影は見つめるだけのココに何もせず、飛んだ。飛んだと思って目を上げると、空は藍色でもう誰もいなかった。
その後はよく分からなかった。ココに気付いた人が足を止め、路地裏に倒れている男の人を通りまで引きずって大きな声を上げていた。その内兵士が何人かやって来て助けようとしているのだと思ったが、頭と体が別々になったようで何もできなかった。
最後に兵士が現場を見た者を探していたので、教えてあげると白い建物に運ばれてしばらく話を聞かれた。自分の出自などまで確認され、宿屋の名前を言っているところでイルヤと雑技団の団長が迎えに来た。
兵士がココの精神について治療が必要だと言うのに、団長はいらないと首を振って断りココは今日も演舞の予定だった。
赤い壁が毒々しい妓楼の控室で二人は衣装を身に付けて用意しているところだ。
「ねえーでもさあ……まだ捕まってないんだよ、通り魔。見たの私だけなんだよ?」
ココよりもイルヤの方が動揺しているのか、今日の練習でイルヤは手を滑らせていた。切り口鮮やかな手の甲に包帯を巻きながらイルヤはココを睨む。
「だからさ、ココが誰かなんて知らないでしょ、その通り魔は。顔だって隠れていて見えなかったんだから、ココを殺したって意味ないよ」
ココは布で刃を拭く。
「だよね……。……でもただ殺すのが好きな人だったらどうなんだろう……」
「もう、ココ!」
眉を吊り上げるイルヤをじっとりと見返し、ココは彼の手を掴んだ。包帯の上から月の力を彼に注ぐ。
「あ……ごめん」
「舞台に出るんだから包帯なんかしていたら怒られちゃうよ」
団長はこのところ忙しさに苛々している。いつもは目上の人達がココやイルヤの怪我を直してくれるのだが、今日は誰も気付いてくれていないようだった。
月の力を使うと、自分の体が疲労するからかもしれない。幼いココにとってイルヤの治療は理由もなく気落ちさせる要因となった。
包帯を解いて肌を見ると直し切れていない微かな線が残っていた。ココの両手も実のところ傷跡が多く残っている。ココは口元を曲げる。
「あーあ。ティナ姉がいたらこんな怪我あっという間に直してくれたのに……」
優しかった姉を思い出すと、あっという間に涙腺が決壊した。
「仕方ないだろ。ティナ姉はジ州に奉公に出ちゃったんだから。お休み取れるまで戻れないってお父さんたち言ってただろ……。え!」
イルヤは手の甲に生ぬるい液体が落ちて初めて妹が泣いていると気付いた。ココは床に座り込みほたほたと涙をこぼし始める。
「もう嫌だなあ……しんどいよ、イルヤ。お姉ちゃんに会いたい。なんでお姉ちゃんと一緒にいられないの……?」
「馬鹿、泣くなよ! これから舞台なんだから、赤い目で出られないんだぞ!」
自分が悲しい思いを吐露しているのに、冷静な兄が恨めしい。
「だって……お父さんもお母さんもいつも家にいないんだよ……。お姉ちゃんがいてくれたから私、頑張ってたのに……」
すごいねと自分を褒めてくれる姉がいたから頑張れたのに、その姉にはちっとも会えなくなった。これまで姉がしていた畑仕事も自分たちの仕事になって、姉に良く教えてもらっていたはずのそれも上手にできない。褒めてくれる人もおらず、励ましてくれる人もなく、何のために頑張っているのか分からない。何もかも嫌になる。
イルヤは焦った顔で両手をばたつかせた。
「ほら、ティナ姉もジ州にいるんだよ。探そうよ! 仕事が終わったらさ、ちょっと休みをもらって姉ちゃんに会って行こうよ!」
「でも……ココ、殺されちゃうかもしれないんだよ……」
兵士が身辺警護が必要だと言っていた。なのに、団長はそんなものを付けたらココ達にけちが付くと突っぱねていた。
イルヤは眉を下げる。
「大丈夫に決まってるだろ……僕が一緒にいるんだから」
ココはとうとう声を上げて泣いた。
「イルヤなんかいたって一緒に殺されちゃうに決まってるよ……!」
声を聞きつけた団長が乱暴に扉を開いて入ってくるまではほんの僅かだった。
「うるせえぞ!」
針のような形に切って固めた赤髪の団長は既に鬼の形相だった。
「お客様の店で喚くんじゃねえ、ガキが! クビにするぞ!」
「申し訳ありません!」
イルヤが床に手をついて頭を下げる。その様がどうしようもなく悲しく、ココは頭を下げさせようとするイルヤの手を跳ね除けて泣いた。
「黙れと言っているだろうが!」
団長から手のひらが飛んでくる。打たれるのは日常茶飯事で、ココは動物的に頭を抱え込んだ。
「……なっ」
「……」
強かに打たれるはずの頭に衝撃は無かった。おかしいと目を開けたココは、視界を埋める絨毯の端に白い布を見た。絨毯に広がる白い布を辿って行くと、朱金の刺繍が見えた。そして白いカサハが揺れた。
「え……」
カサハで隠れた顔の口元に弧を描き、彼女は団長に向き合った。
「はじめまして……サガン様」
団長は髭の生えた口元をあわあわと動かし、妙に高い声で応えた。
「み……え、神子様……?」
突然の出来事にココ達は動きを忘れ、団長は数歩後退した。開きっぱなしだった扉に彼女は指先を向ける。金色の粒子が舞い、扉が静かに閉じた。沈黙が落ちる。
神子は一歩も動かず団長に首を傾げた。
「はい……いかにも、私はガイナ王国の神子。……あなたは紅扇団の団長サガン様でしょう……?」
「は……はい……」
無意識だろう。団長は膝をついて床に手を合わせる。
神子はその様を見おろし、おっとりと語った。
「……先日は素晴らしい舞台を拝見させていただき、とても有意義な時間を過ごさせていただきました」
「滅相もございません……」
団長の目は驚きのあまり見開いたままだった。
「お忙しくしていらっしゃるようですね……お体はいかがですか……」
まるで日中に開かれる茶会の会話だった。団長は戦きながらも頭を下げる。
「はい! お陰様でお客様の呼び声高く……っ神子様にはどのように感謝を申し上げればよいか……っ」
神子はじっと団長を見つめる。しばらく黙りこんだ彼女は、淡々と繰り返した。
「そうですか。……私のお蔭だと、おっしゃっていただけるのですね」
「もちろんでございます!」
「そう……」
神子は衣で覆い隠されていた指先を持ち上げ、団長の背後を優雅に指し示した。
「では……もうノナ州へお帰りなさい」
「――は?」
団長が目を丸くすると、神子はくすりと笑い声を漏らした。
「今すぐにとは言いません。……ですが、あなた達はとても疲れている。……もとより素晴らしい演技をされる雑技団だったでしょう。焦る必要はないと思うのです」
「は……」
神子の声が何故か木霊を伴って耳に響いた。空気を揺らすような反響に、ココは神子の顔を見ようとしたが彼女はこちらに背を向けている。
「ノナ州での見事な舞はジ州へ呼ばれるに相応しいものでした。きっと私に出会わずとも、遠からずこの地へ舞台を移していたことでしょう。……ですが、それは今ではないのだと思います……。『神子の覚えめでたい』という飾り文句のない紅扇団へ送られるべき賞賛では……と、私は思うのです」
ジ州で目まぐるしく宴席を熟している団長にとってはあり得ない提案だった。うなぎ上りの人気を、今止めるわけにはいかない。団長の顔はまだ帰れないといっていた。
「それ……は……」
神子は再び団長の表情をしばらく眺めた後、身を屈めて彼の顔を覗き込んだ。
「……私が何故、ここにあると思いますか……」
団長は応えられない。神子は質問を繰り返す。
「私が何故、お戻りなさいと言っているか分かりますか……」
「……」
それでも答えない団長に恐らく彼女は笑った。背後からでも彼女のまとう空気が笑ったと伝わった。
「私の名を使うことは許さないと……言わなければなりませんか……?」
ひゅっと団長の喉が鳴った。彼は青ざめ、深く頭を下げた。
「――畏まりました。」
「……お分かりいただけましたか」
団長から身を離し、彼女は優しく言った。
「私は、私の名を使ってはならないとは申し上げません……。ですが、どうぞあなたとあなたの団員たちを大切になさって下さい……」
「……はい」
深く頭を下げる団長を高い位置から見おろし、神子は柔らかな声音で言った。
「お分かりいただけたようですから……私を打った非礼は咎めないことにしましょう……」
イルヤがぎくりと体を強張らせた。団長の顔色は蒼白になっていた。
「私はこの子達と話をしたいと思います……退室していただけますか」
「はい! 失礼いたしました……っ!」
ほうほうの体で部屋から逃げ出た団長を見送った神子は、くるりとこちらを振り返った。
イルヤは深く頭を下げる。ココは涙で濡れた顔でぼんやりと神子を見上げた。
「ココ、頭を下げて」
ココは頭を下げなかった。下から見上げた彼女は、カサハの下に隠れているその顔が良く見えた。
――神子様だ……。
怒っているのだと思った。団長に怒っているように、自分も叱られるのだと思った。なのに、彼女の顔はちっとも怒っていなかった。
綺麗な漆黒の瞳がココを見下ろしている。その瞳はあの通り魔と似ても似つかなかった。姉を思い出させる深い優しさを湛えた瞳が、ココを見ていた。
目の前にいるその人こそが、ココの女神だった――。
「……ごめんなさい」
口が勝手に謝罪の言葉を吐いていた。ココは顔をくしゃりと歪める。止まったと思った涙がまた溢れ出た。先程よりも酷く涙がこぼれる。
「ごめんなさい、神子様……」
あの兵士の言う通りだ。人を殺した人を、神子様のようだなどと何故言ってしまったのだろう。彼女は優しい笑みを浮かべた。
「謝らなくていいのよ……」
あの殺人鬼は凍ったように感情のない冷たい目をしていたのに、どうして神子様と同じ綺麗な目だったと思ったの――。
「助けて。……助けて、神子様……」
あの殺人鬼が今にもやって来て、ココの腹に穴を空けるのではないか。ずっと言えなかった言葉が口を吐く。
「怖いよ……。私、殺されるの……嫌だよ……。お腹に穴開けられるの……やだよ……」
「……ココちゃん」
ココはびくりと肩を竦めた。これまで触ったこともないとても滑らかな手触りの布が全身を包み込んだ。甘い香りが漂い、神子に抱きしめられているのだと分かった。
触れるほど近くにある神子の瞳が何故か潤んでいた。潤んだ黒い瞳を細めて彼女はココの額に口付ける。
「……っ」
急に全身が温かくなった。体を金の粒子が包み込んだ。
「わっ」
隣にいたイルヤの全身も光の粒子に包まれる。
さっきまでの嫌な気分が不思議と軽くなる。ゆっくりと離れた神子に合わせて自分の手を見てみた。切り傷の跡が残っていたはずなのに、どこにもなかった。それどころか溜まった疲れも全く感じていなかった。
神子はココの前に膝を折る。彼女はカサハを捲り、とても柔らかな笑顔で首を傾げた。
「大丈夫……。怖い事なんて起こらない。あなたは守られているから……」
「……?」
ココは神子と反対側に首を傾げる。その様子に彼女は甘い笑みを見せた。
「王立軍は、犯人を捕まえるまであなたを守り続けます」
ココの胸が重く沈んだ。
「でも……団長が断ってたから……」
神子は眉尻を下げた。
「うん。でもね……サガン様よりも殿下はもっと偉いの。殿下がお命じになれば……断れる人なんて、王様以外いないのよ。今も殿下の命を受けた兵達が貴方達を守ってくれているの……」
「殿下……が……」
神子は頷く。
ココはきょとりと瞬いた。
「神子様じゃなくて?」
「――」
神子は口を閉ざした。
ココは漠然と神子が見てくれていたのだと思っていた。その証拠に団長に打たれそうになった場面で彼女は現れてくれた。神子様は民の全てを見ていて、全てを救おうとしてくれている――ココも必ず救ってくれる。
期待に応えてくれると思っていた彼女は、目を伏せた。神子の声に苦いものが滲んだ。
「……ごめんなさい……。私は殿下のものだから……。私は殿下のお傍を離れるわけにはいかないの……」
「……そうなんだ」
単純にココは失望を覚えた。神子は落胆したココを、それでも優しい目で見つめた。
「でもね、殿下は貴方をちゃんと守ろうとしてくれているわ。だから安心してね」
「……うん」
安心できる情報を教えてもらっているのは分かったが、胸は晴れなかった。自分に神子の加護が無いのだと思うと、何故か神子に突き放された気持ちになった。
「ココちゃん……」
「……」
口元を曲げて俯いたココの頭を彼女は優しく撫でた。
「……これをあげる」
ココの視界に真っ赤な花が入り込んだ。甘い香りが鼻を撫でる。顔を上げると、神子は黒い瞳を細めてココを見下ろしていた。
「この花には、私の力が込められているの。花弁の一つ一つにとてもたくさんの力が籠っているから、きっとあなたの役に立つ」
「……いいの?」
ココは神子が贈っている花籠の噂話を知っていた。ゾルテ王国に贈られる花籠は赤い花が一杯詰まっていて、その一片一片に莫大な月の力が注がれている。花びら一枚を大地へ落とすだけでその年は十分な収穫を結ぶ奇跡の花。喜びで頬が綻ぶ。上気した頬を確認すると、神子は安堵したようだった。
「……大丈夫?」
ココは頷いた。柔らかな手のひらがココの頬を撫でた。
「いい子ね……」
彼女はほんの少し悲しそうに笑った。
「……ごめんね……」
どうして、と瞬いた後には目の前には誰もいなかった。
ふわりと風が沸いた。きらきらと金色の粒子が瞬いている。
「あれ?」
黙り込んでいたイルヤが声を上げた。振り返ると、イルヤの髪にも一輪の赤い花が贈られていた。
ココの手の中にある花から、神子と同じ甘い香りが漂った。




