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月の精霊~異世界って結構厳しいです~  作者: 鬼頭鬼灯
ガイナの神子─ 三章
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満ちる月


 厨房で酒の在庫と出の早い商品名を確認するよう言われ、ティナは厨房の中へ降りる。シャグナから名を教えてもらったウォルクという男が顔を上げて声を掛けてくれた。

「どうした?」

「あの、お酒の在庫と出の早いお酒を確認したいのですが……」

「ああ、それならそこの壁前の酒全部が今日のお客様用のやつ。で、壁に元の在庫数を書いているからそれを比較すればわかる……」

 普段は料理道具が並べられている壁一面に酒が山積みにされていた。少し時間がかかりそうだ。ティナは厨房入口を振り返った。

「あの、旦那様。申し訳ございません、少々お時間を頂いてもよろしいでしょうか?」

 入り口脇に隠れていたシャグナが顔を覗かせて頷いた。

「いいよ。ここで待っているから、間違いのないように確認しておくれ……」

「はい」

 頷いて視線を戻すと、ウォルクは支配人がいると思っていなかったのか驚いた表情をして頭を下げた。

「じゃあ、俺は戻るから」

「はい、ありがとうございました」

 ウォルクは足早に厨房の奥へ行ってしまった。支配人の前ではやはり緊張するものなのだろう。

 湯気が立ち上る厨房は非常に熱い。きちんと数を数えている間にじわりと汗が滲んだ。

 戻ったティナから数を聞いたジンキは上機嫌の様子だった。

「良いね。新酒が売れてる。上手くいったかな」

「おめでとう……。在庫が足りなくなっては大変だ……早く戻ったら良いんじゃないかな……」

 シャグナがそう言うと、ジンキは眉間に皺を寄せた。

「なんだよ、厄介払いするみてえに。俺だって共催してるんだからな」

「うん……そうだね」

 ジンキは何かを思い出した素振りで、シャグナの胸を小突いた。

「そうそう、今日あいつ来るんだろ? 舞、俺にも見せろよ」

「……お客様のご要望があったからだよ……。……騒がない?」

「俺は餓鬼か」

 シャグナはジンキを無視してこちらを振り返った。

「お前も手が空いていたら、舞を見て良いからね……」

「え?」

 シャグナは目を細める。

「今日はみんなに無理をさせているからね……。舞台で舞を予定しているんだよ……手が空いていたら見て良いと、皆に言っている……」

「そうですか……では、時間が合えば……拝見いたします」

 自分の妹弟が脳裏をかすめた。

「あの……どちらの雑技団ですか?」

「灯篭花だよ。」

「……そうですか。」

 妹弟がこんな遠い土地まで来るはずもない。灯篭花は有名な雑技団の一つだったと記憶している。ジンキが身を乗り出した。

「ケイっていう舞子が一番人気なんだ。知ってるか?」

「いいえ……」

 双子の妹弟以外に興味が無かったティナは、さほど雑技団に詳しくなかった。

「すっげえ美人だぜ。腰抜かすから絶対見逃すんじゃねえぞ」

 ジンキが絶賛するほどの美人ならよっぽどだろう。シャグナが静かに笑う。

「まあ、確かに美人だね……小一時間ほどで舞台を開くから、それまではしっかり働いておくれ」

「はい」

 ティナは胸を押さえた。ほんの少し胸が痛んだ気がした。

 指南役を担当してくれている女中はティナが座敷に戻るとシャグナに呼ばれたことには一つも触れず無駄のない動きで宴席での動きを教えてくれた。とにかくお客に目を配って相手の仕草を見逃さないのが第一だった。ほんの少し手を上げられれば即座に飛んでいき、注文を受ける。空いた酒瓶を回収するだけでも大変な重労働だったが、桜花蒼姫の女中は重い瓶を重そうに運んではならない。澄ました顔でちっとも大変でないという体を保たなければならないそうだった。廊下を急いで渡る際も大きな足音は立てない。しずしずと歩いているようでいて最大限の速さで行き来する女中たちを見ていると、まるで廊下を泳いでいるようだった。

 時間が経つのも忘れて目まぐるしく階段を往復していたティナは、涼やかな風に顔を上げた。食事と酒と香の匂いでこもりきっていた空気が洗い流される。廊下の窓を大きく開いたその人の着物は薄く、透けていた。すらりと細い指先は色鮮やかに染め上げられている。シャグナの手に似ていると視線を移すが、頭から白い布を被っていて顔は見えなかった。座敷の上手にある舞台へとつながる入口に向かっている。その人の周りにも色鮮やかでいて高価そうな透ける衣を身に付けた男女が複数あった。

 ──舞台が始まるのだ。

 ティナは額の汗を拭って一つ息を吐いた。



 舞が演じられている間は酒の進みもさほど早くない。特に今回の舞台はガイナ王国で指折りの雑技団が呼ばれているらしく、どの舞も見事な物だった。遊女たちを脇に侍らせた客もこの時ばかりは手を止める。客の目に留まらないよう座敷の後方や柱の片隅から女中たちが舞台を覘いている。同じく端の方で舞台を眺めていたティナは、舞台の中央に立った女に目を奪われた。透き通るような肌、妖しげに弧を描く赤い唇、何もかもを飲み込んでしまいそうな漆黒の瞳に、白い布の下から零れ落ちる黒い髪の毛。

「神子様……?」

 ティナの口から言葉が漏れた。

 上座に坐していたハルヴィスとその隣にいた男が声を上げた。同時に宴会に集まっていた客が大きな拍手を送った。部屋を揺らすほどの音でティナはあれが本物の神子であるはずが無いと気付いた。

 透けた衣から肌が見えそうで見えない。指先という指先は鮮やかに彩られ、手首と足首にはまった金輪の装飾から高い鈴の音が響き渡る。

「ケイだ」

 声に顔を向けると、ジンキがティナに笑いかけていた。いつの間にか戻っていたジンキは期待に満ちた目で彼女を見つめる。ジンキやシャグナから美しいと称されるに相応しい女が舞台で軽やかに飛び上がった。弧を描く衣がしなやかな肢体と共に宙を一回転すると、まるでそこに満月が描かれたようだった。

「綺麗な人ですね……」

 ジンキが声を出さないように笑う。

「だろう。あいつあんな色香で男だぜ」

「えっ」

 大きな声を出しそうになり、ティナは自分の口を押えた。ジンキは嬉しそうにティナの表情を見下ろす。

「信じられねえだろ。でも男じゃねえとこの演目はできねえ。体力がいるからな」

 ケイは舞台の上で飛ぶように身体を駆使して舞を踊っている。天女のような優雅な舞にティナは言葉も忘れ彼に魅入った。

 月の神子を題材とした演舞の内容は、この地へ降臨した神子が苦しむ民を無償の慈愛で救い上げるというものだった。ティナが想像していた月の神子が、そこにあった。甘く美しい笑みで分け隔てなく力を分け与えてくれる。そしていつしか世界は苦しみから逃れ、桃源郷へと移り変わって行く。

 胸がちくりと痛んだ。

 固く石ばかりを含む大地。宝石の取れない土地に生まれた者はその恵みを頂くことは出来なかった。子供を産むことさえためらうほど困窮した生活を送る民があると言うのに、ティナの目の前には富に溢れた人々しかいない。誰もかれも贅の限りを尽くし、貧しさなど知らない顔をしている。

 舞い手に見とれている様子のジンキは何気なく呟く。

「そういやこの間、王子が神子をノナ州へ連れて行ったらしいぜ」

「……本当ですか?」

 神子はノナ州の民を哀れと力を分けてくれたのだろうか。ジンキは口の端を上げた。

「すげえらしいぜ、本物は。視察の最終日にあっさりノナ州全体に力を振りまいちまったらしい」

「……全体に……?」

 ノナ州は端から端まで馬車で二十日かかる。畑一つに複数人が分かれて月の力を注いでやっと野菜が育つ大地。

「ああ。なんか国の方針があるみてえで、作物に適した大地にするまで徐々にやっていくらしいけど、今大地に生えてる作物は全て昨年以上の出来になるらしい」

「……そ……うですか……」

 ティナは舞台に目を向ける。細く長い指先が羽のように優雅な動きで力を分け与える場面だった。

 ではノナ州は――弟や妹は苦しんでいない……。

 女神の祝福を受け、ノナ州は確実に豊かになって行くのだ。農作物だけで生活が成り立つように月の神子の加護を受けられる。

 だけど――私は……?

 雇われたわけではなかった。桜花蒼姫に買い取られた自分は未だ両親との連絡も取れず、彼らの知らぬところで生きていく運命にある。ずっとこのまま、下女としてこの妓楼に仕え続けるしかない――。

 神子の頭から白い布が取り払われ、美しい笑顔が人々を見下ろした。

 どうしてこんなに違うのだろう。

 どうして神子様はもっと早くに来てくれなかったのだろう。

 どうして神子様は――私を助けてくれないの……?

「……神子様……」

 大きく両手を広げた舞子が風を孕んで舞い降りる。長い黒髪が羽のように彼の背中に流れ落ちた。舞の終わりを告げる彼の双眸は、背筋を寒くするほどの艶やかな色香を湛えていた。

 上座に座っていた小太りの男が酔った勢いで彼の腕を引く。男の腕の中に取り込まれた彼は、慣れた様子で甘い甘い笑みを男へ向けていた。

「ったく、あいつほんとうぜえ客だな……っておい?」

 客が舞子を不躾に触る様に眉を潜めたジンキがこちらを振り返り、目を剥いた。

 ティナの頬を熱い滴が零れ落ちていた。

「……」

 ティナは何も言葉にできなかった。

 男の腕の中で笑う神子は、あまりにも猥雑に見えた。

 予想していた事態に待機していた男手が客の腕から舞子を引きはがす。神子は男の耳元から首筋まで指を滑らせ、何事か囁いて離れて行った。

「なんだよ、泣くほど感動する舞台だったか? おい、大丈夫か」

 ティナは片目を押さえて首を振った。仕事に戻らなければならない。ジンキが心配をしてくれているようだったが、彼を振り切ってティナは階段を降りて行った。


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