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月の精霊~異世界って結構厳しいです~  作者: 鬼頭鬼灯
ガイナの神子─ 三章
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宴の始まり


 桜花蒼姫と赤萄嵐の共催は想像以上に盛大な物だった。ジ州の中でも有名な大店が名を連ねて開く宴だけあり、客の数も尋常でない。桜花蒼姫の最上階を貸し切った宴は贅の限りを尽くすべく数多の酒と膳、そしてほとんどの遊女を買い取っていた。今日は予約のない客の受け付けは出来ない。

 最高の夜景を楽しむために最上階を押さえたい気持ちは分かるが、付き合わされる従業員はほとほと迷惑な話だ。

 桜花蒼姫の女中はそれぞれ鮮やかな着物を身に付けている。上等な着物は各々が購入していたり、支配人から贈られたりするものだそうだ。着物を汚したらどうしようかと思うような人間もいない。桜花蒼姫の女中の給与はおそらく小さな商店の主人と同じくらいだ。

 女中であることを示すために腰に店の名を載せた布を巻く。着付けを確認しに来た女中頭は隅々まで目を光らせると、ティナの腰を軽く叩いた。

「さあ、初めてでもお客様に粗相が合っちゃならないよ! 今日は一等上等なお客様なんだ。旦那様のお顔に泥を塗るような真似だけはしないでおくれよ!」

「はい。頑張ります……」

 どうしても語尾がか細くなってしまう。ティナの母親と同年代であろう女中頭は、目を吊り上げた。

「今日は王都の大店様との商談なんだ。こちらの対応でお相手のご気分を悪くされたら桜花蒼姫の名折れだよ!」

 今回の宴は桜花蒼姫の遊女と赤萄嵐の酒のお披露目だけでなく、ジ州の宝石商がモノ州で大きく宝石店を広げている当主との商談を兼ねているそうだ。桜花蒼姫はジ州一を誇る上等な妓楼であるが、接待にも使われている。

 両州の関係者を一気に集めた宴の客は百を超えた。その客の中でも重鎮の隣に遊女を一人ずつ置いて宴会の始まりである。

 女中頭に頷き返したティナであったが、酒を抱えて一往復して女中が足りないという意味を理解した。十階まで移動する際、客は月の力を施した箱に乗れるのだが従業員はもちろん足を使う。月の力を施した箱はさほど多く往復できない。そして十階まで従業員が往復する時間は通常よりも長くかかる。客を待たせてしまう以上、数で対応するしかなかったのだ。

 一通り膳の配置が終わり、客が揃い始めた頃だった。桜花蒼姫の一番人気となった遊女──おうを連れてシャグナが座敷に顔を出した。上座に座り、自身の部下に何事か命じていた小太りの男はシャグナを見るなり相好を崩した。

「これはこれは当主。今日は無理を言ってすまなかったな」

 あれが今回の宴の依頼主らしい。追加を求められたお銚子を各膳に並べながらティナは彼らのやり取りを見るともなく見た。

 シャグナは色香ある笑みを湛え彼の前に膝を折る。凰姫は男とシャグナの間の位置に腰を落とした。

「とんでもございません……。ぎょくすいえき様のご依頼でしたら喜んで桜花蒼姫を貸し切りにもいたしましょう」

 男は声を上げて笑う。

「天下の桜花蒼姫を貸し切りか!そんなことをしたら私の懐はすっからかんだ!」

 既にほぼ貸切の状態だと言うのによくいう。ガイナ王国に置いて宝石商の儲けは三大王国だけでなく世界に顧客の幅を広げているため、想像を絶する。貸し切りにしなかったのは僅かな差額を惜しんだからに他ない。

 シャグナは男に合わせて微笑み、優雅に頭を下げる。

「本日は桜花蒼姫をお選びいただき、心より感謝いたします……。ご要望がございましたらお気軽に手前どもへお言いつけ下さい」

「そうかそうか。何でも聞いてくれるなら嬉しいのだがなあ」

 男は下卑た笑みを浮かべてシャグナの手を握る。シャグナの細い指先を太い指が一つ一つ撫で始めた。

 全身を寒気が走った。思わず視線を逸らしたティナの横にいた若い女中は澄ました表情で作業を続けながら小声で言った。

「あのお方はずっと旦那様をご所望なんだよ……」

「……そんなこと……できるんですか……」

 手が止まる。それを目線で咎めながら、彼女は応える。

「できるわけがないだろう。ここは女郎屋だ」

 ティナは自分が何に衝撃を受けているのか分からないまま作業を再開する。何故か手が震えていた。

 ティナの動揺に気付いた女中は呆れた声音で話を続ける。

「何を驚いているんだい。ここは旦那様の色香にやられたお客さんも多いんだ。遊女どもの心を奪うような男だよ。男が心を奪われちまったって驚きやしないよ」

「あ……はい。そうですね……」

 同調しながらも、心は驚愕したままだった。遊女を邪な目で見る男たちが気持ち悪いと思っていたのに、その嫌な目がシャグナ自身にまで纏わりついている。怖気が走る。

 まるで凍えた時のように息が震えた。

 ティナ達の目の前で、男はシャグナの袖口の中へ手を滑らせていく。

 ――それ以上は触らないで。

 ティナが眉根を寄せて顔を向けた時、シャグナはそっと男の手にもう一方の手を重ねた。甘い笑みで男の耳元に唇を寄せ何事か囁く。男は喉元で笑うと手を離した。

「君が遊女でないのが残念だ」

「誠に」

 シャグナが応じるのを待っていたように、二人の会話を邪魔せず眺めていた凰姫が合いの手を入れる。

「ほんに、ハルヴィス様は旦那様ばかりお気に入りでいらっしゃいますなあ。せっかくあてらがおりますのに、ちいとも触ってくらはりません。妬いてしまいますわ」

 男は大げさな仕草で両手を広げ、凰姫に笑顔を向ける。

「おお、すまなかったな。凰姫はいつ見ても若く美しい。今日は煌泉印の当主がいらっしゃる。お前には当主の相手を頼むから、よろしくしておくれ」

「ま、ハルヴィス様はあてに興味がないんですのねえ。詰まらない」

「そんなことはない。今にも襲ってしまいたいくらいだが、今日は煌泉印の当主にご用意した宴席だ。お前を買いたくても買えないんだよ」

「まあ、では……」

 男が凰姫を自分の傍らに引き寄せる。シャグナは二人をいつもの顔で眺め、するりと立ち上がった。

「それでは……今宵もどうぞごゆるりとお過ごしください」

「ああ、またよろしく頼むよ」

 ティナはほっと胸を撫で下ろす。退室する際シャグナがちらとこちらを見て愉快気に笑った。その表情はいつもと全く同じで、彼にとって先程までのやり取りが取るに足りないものだったことを意味していた。

 呆然と動きを忘れたティナの頭を、隣にいた女中が軽く小突いた。

「もう、ぼんやりしないでおくれ。次の膳に行くよ」

「……はい……」

 ティナの声は情けなくか細かった。



 酒の追加を終えて一階へ降りたティナは、小さな声に顔を上げた。

「チビ」

 灯火を灯しているとはいえ薄暗い階段脇にシャグナが佇んでいた。一緒に降りてきた女中を振り返ったが、彼女はシャグナに頭を下げて厨房へ向かう。

「おいで、チビ……」

 シャグナが手招きする。先程の記憶が蘇り、顔を赤くしたら良いのか青くしたら良いのか分からず頬が強張る。

 シャグナはティナの表情など気にも留めず背を向けた。厨房へつながる廊下とは反対の、書斎の方へ向かう。彼は書斎の手前で足を止め、壁にもたれかかった。

「どうだい……女中はできそうかい?」

「あ、はい……」

 言葉が出ない。彼はくつりと笑った。

「さっき、指南役に小突かれていたようだけれど……?」

 ティナは腰に巻いた布をぎゅっと掴んだ。

「申し訳ございません。手が遅いと注意を頂いておりました」

 彼の視線を感じる。彼は息を吐いた。

「そう……お前には少し、刺激が過ぎたかな……」

「ぅいえ……っ」

 先程のやり取りの話だと思うと動揺で声が狂ってしまった。衣擦れの音がする。

「やはり止めておこうか。お前には早すぎたようだ……」

「いいえ!」

 ティナは勢いよく顔を上げた。本当はもう二度とあんな場面を見たくもないが、これは立派な仕事だ。シャグナと男の間に入った凰姫は決して思ったことを話したのではない。客の気を惹き気分良くさせるのが彼女の仕事であり、今夜ティナに振られた仕事は酒を運ぶことだ。それくらいできるはずだ。

 シャグナは面白そうにティナを見下ろしている。

「一度お引き受けした仕事はきちんと最後まで致します!」

「そう……?」

 顎に指を添えて首を傾げ、シャグナが何事か考える素振りをしたとき、厨房の方から大きな足音が響いてきた。

「あ! てめえ、こっちにいたのか! 探したぞ!」

 乱暴な声を上げて足音荒くこちらへ向かってくる男に目を丸くする。思わず一歩下がった。赤銅色の髪が目に鮮やかな、赤萄嵐の若旦那――ジンキだった。

 彼はシャグナを睨みつけ、視線を向かいにいたティナに移した。彼の眉が上がる。

「なんだ、嬢ちゃん。今日はまともな服だな」

「あ……の、えっと」

 どんな挨拶をすればよいのか咄嗟に思いつかなかった。シャグナが両手を組んで少し前に出る。

「なんだい、ジンキ……」

 ジンキは眉を吊り上げる。

「なんだいじゃねえよ。酒の売れ行きに合わせて蔵を開くかどうか決めるっつっただろーが」

 シャグナはああ、と頷く。

「そうだったね……つい気が逸れてしまった……。厨房に行かないと分からないな……お前も来ておくれ」

 ティナを手招いてシャグナは先を進む。立ち止まっていれば二人が振り返りそうだ。ティナは仕方なく俯きながら二人の後へ続いた。

 ジンキはティナなど気にもかけずシャグナに話しかけている。

「お前さあ、今日の客…玉水溢のボンだろ。いい加減うざくねえの。腐るほど金があるくせに、今回の共催も出し渋りやがって」

「……ジンキ、私はお客様に感謝こそすれ……そんな感情を抱いたりしないよ……」

「うへえ。商魂たくましいなあ、お前。つーか分かってるんだろうな。上が動いてるぞ」

「……ジンキ、私は店の者の前でそういう話はしたくないな……」

 ジンキの前だとシャグナは年相応の雰囲気に変わるようだ。ジンキの勢いに押されているようでもある。

 二人の背中を見上げていたティナをジンキが振り返った。

「こいつは分かってねえよ、絶対」

「うん……でもね……ジンキ」

 シャグナも困ったようにこちらを振り返った。首を傾げると、ジンキが短く声を上げた。

「そうそう、今日嬢ちゃんに会ったら渡そうと思ってたんだ」

 懐から手のひらに隠れてしまうほど小さな物をこちらに放り投げる。両手でそれを受け取ったティナは眉を上げた。

 丸い陶磁器の容器には赤い花の絵が緻密に描かれている。使用されていない証拠に金色の帯が巻かれていた。帯には流れる文字で香露と書かれていた。

「え……」

 ジンキを見返すと、彼は肩を竦める。

「まー……この間はちょっと悪かったなと思って。俺の番頭も煩いし……」

「何?」

 シャグナが手のひらを覗いてきた。そしてジンキににっこりと笑いかけた。

「香露なんて……どうしてジンキが私の店の者に贈るの……?」

 ジンキの眉間に皺が寄る。

「うるせえな。別にいいだろ。お前の女じゃあるまいし、許可なんかいらねえだろうが」

「……どうかな……」

「はあ?」

 ティナが去り際に香露なんて買えないと言ったことを気にしてわざわざ用意してくれたのだ。とても高くて手が届かない品を見つめ、ティナの胸は素直に喜びに華やいだ。

「うぜえな。こいつは喜んでるんだからいいだろーが!」

 ティナははっと顔を上げた。頬が上気している気がする。勝ち誇った表情のジンキと、何を考えているのか分からない笑顔のシャグナがこちらを見ている。

 ティナは不穏な物を感じ、おずおずと両手を差し出した。

「えっと……あの、やはり私には不相応ですので……」

 ジンキが苛立った目でティナを睨みつける。

「ああ?そんなもん返されたってやる女なんかいねえよ」

 シャグナがティナの手から香露を取り上げた。

「そうだね。不相応ではないけれど……今度私から別の香りのものをお前に贈ってあげる」

「お前な……後で贈るんだったら今やればいいだろうが」

 ジンキがシャグナの手から香露を奪い返し、ティナの手に戻す。シャグナは笑顔でジンキをしばらく見返し、ふうと息を吐いた。

「全く……これだからジンキは嫌なんだ……。何も考えていないくせに……」

「ああ? 聞こえてるぞ、おい!」

 シャグナはこちらに背を向けて再び厨房の方へ歩いて行く。どうやら香露は貰っても良いようだと、ティナは陶磁器の小さな容器を見つめ、にっこり笑った。

「お前は本当に……」

 ティナを振り返ったシャグナが意味の分からない言葉を吐いた。



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