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月の精霊~異世界って結構厳しいです~  作者: 鬼頭鬼灯
ガイナの神子─ 三章
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陽炎


 街を歩く人々はじりじりと照りつける陽光を避けて歩く。相橋の袂――建物の影や木陰を歩く民を羨ましく眺めていた兵は、ふと顔を上げた。珍しく音がしない。曲線を描く石橋を渡る車がぱたりと止んだ。日中は夜ほど往来が激しくないとはいえ、車の行き来が途絶えたのは初めてだった。

 車の音が聞こえない代わりに、川から吹き上げる風音が耳についた。低い獣の唸り声を彷彿とさせる音は先日の殺人事件を否応なく思い起こさせる。河原に残っていた血痕は今も黒ずんで残っている。

 見たくもないがけいを兼ねるかと橋の中央まで移動した彼は橋の頂点に位置するらんかんそばに人を見つけた。銀色の長い髪が風にあおられて広がる。光を反射しているかのように彼女の周囲はきらめいて見えた。透き通るような肌、赤い唇、伏せられた瞳は川を見下ろしている。

 既視感を覚えた兵が歩みを進めると、革靴が石橋を叩いた。音に振り返った彼女は、おっとりと笑んだ。黒い瞳が弧を描いたと思ったが、本当にその表情を見たのか兵の記憶は曖昧だった。少女は振り返ると同時に兵の目前から掻き消えたのだ。

 兵は唖然と誰もいない橋を見つめる。



 眠気の残る瞼が重い。常よりも表情に覇気がないのだろうか、回廊の欄干を拭いているティナに気付いた下男や下女達が声をかけていく。声をかけられるたび平気だと応えるのも億劫で、ティナは顔を見られないであろう天井の掃除をすることにした。欄干脇にある太い柱の根元から天井まで綺麗に磨き上げるため、はしを使って天井へ手を伸ばす。毎日磨いている装飾品から埃が落ちるはずもなく、作業はさほど辛くない。

 ティナの視界に緑の庭が映りこんだ。夏の草は成長が早い。つい先日刈り取ったような気がしたが、そろそろまた妓楼中の草を刈らねばならない。番頭に言われる前に刈ってしまわなければならないなと額から流れる汗を手の甲で拭った。

「おい」

 下から声が聞こえた。梯子の横に昨日厨房でティナを支えてくれた男が立っていた。男はどこか困った表情でティナを見上げている。

「はい」

「旦那様がお前をお呼びだ」

「あ……はい、えっとどちらに?」

 つい顔が強張る。男も何故か固い表情で視線を逸らした。

「旦那様の部屋だ」

「……わかりました」

 褒美をくれるという話は本気だったようだ。今は会いたくない気持ちで一杯だが、使用人である以上支配人の顔を見ないわけにはいかない。拭き掃除を終わらせてからでは遅いだろうか。

 逡巡するティナに再び声がかかる。

「おい」

 もう行ってしまったと思っていた男はまだ梯子の横にいた。

「あ、はい。まだ何か……?」

 厨房への用事を言いつかるのだろうかと見下ろしたティナをふり仰がず、男はぼそりと言った。

「お前その……旦那様と……」

「え?」

「いや、その……。昨日は気安く触れてしまって悪かったよ」

「え?」

 意味が分からず繰り返し尋ね返すが、男はティナの顔を見ずにじゃあと足早に立ち去ってしまった。ティナは訳が分からずぼんやりと彼の背中を見送る。

 彼に触れられた記憶はティナが転げそうになったところを支えられた場面しかない。しかしあれは気安く触れるという表現をするべき場面ではないと思う。

 使用人が支配人を待たせてはいけないと思い至り、重い足取りでシャグナの部屋に向かいながらティナは首を傾げる。考えても分からないなと顔を上げたティナは、雅な絵が描かれた扉の前で渋面になった。

 縦格子の奥に紫色の花が描かれている扉はシャグナの書斎である。玄関から繋がっている回廊には陽が差し込んでいる。昼間、シャグナの書斎周辺は閑静なものだった。

 ティナは一つ溜息を吐き出し、膝をついて扉を軽く叩いた。

「旦那様、ティナです。お呼びだとお伺いいたしました」

 扉の中で何かが動く音が聞こえ、ぞくりと背筋を寒くする声が応じた。

「ああ、おいで」

 呼ばれるだけで悪寒を覚えた例はなかったティナは、扉にかけた手をとめる。開けたくないなと思った目の前で、扉が勝手に開いた。

「……っ」

 濃厚な香の匂いが溢れだす。藍色の帯が目の前にあり、視線を上げたことを後悔した。崩れた裾を見た時点で予期するべきだった。大きく開いた合わせから彼の胸が覗いている。紫の花が刺繍された着物のシャグナが、気だるげにこちらを見下ろしていた。もはや着物を着る気があるのか疑わしい。彼の合わせは開き過ぎて左側は肩口まで見えていた。

「……入りなさい」

「は……い……」

 顔が赤くなっていないだろうか。ティナは俯いてシャグナの部屋に入った。座卓の上に帳面が広がっている。畳の上に置かれた硯と筆を見ると、何か記録を書いているところだったのだろう。

 廊下が覗ける丸窓はほんの少し開いている。窓の脇には大きな箪笥がある。思ったよりも狭い室内を見回したティナの耳に扉がきっちりと閉ざされる音が聞こえた。

「え」

 ぎく、と振り返ると背後にいたシャグナは薄い笑みを浮かべた。

「ん?」

 まるで自分が無粋な質問をするようだと慄きながらも、ティナは扉を指差した。

「……あの、扉を……閉ざされては……」

 使用人が上役の部屋に入る場合は扉を完全に閉ざさないのがこの妓楼の規則だったはずだ。

 彼は大げさに溜息を吐いて首を振った。

「お前は私がお前を襲う心づもりだとでも言うのかい……? 酷いな……」

「いえ……滅相もございませんが……あの、妙な噂が立っても旦那様に申し訳が……」

 昨日のサクヤ様の耳に妙な噂が入ってりんを見せられても困るのはティナだ。シャグナはティナの傍までたった数歩で近づくと、顎をすくい上げた。黒い目が意味深に笑んだ。

「……私は別にお前と噂がたっても、ちっとも困らないが」

「……いえ、あの……」

 そちらは困らなくてもこちらは困る。仕事を失って路頭に迷うのは御免だ。彼は今気づいたような顔をする。

「ああ、それとも。ウォルクに勘違いをされては困るのかい……?」

「ウォルク……?」

 誰だそれは。全く意味が分からずシャグナを見返すと、彼は反応のないこちらをしばらく見おろした後、尋ね返した。

「おまえ……ウォルクを知らないのかい」

「……すみません。お客様のお名前まで存じ上げず……」

 彼はティナから手を離した。口元を手で押さえて顔を背ける。肩が震えている。何事かと目を見張ったティナの前で、シャグナはこらえきれず噴出した。

 ティナは肩を竦めた。シャグナが声を上げて笑うのを初めて見た。常に見せる小馬鹿にした笑顔と違い、少年のようだった。

「お前……っウォルクはお客じゃないよ……。昨日厨房でお前を抱きしめた若い男だ……」

 ティナは言葉に詰まって俯いた。従業員の名前すらまだ覚えきれていないことを自ら知らせてしまった。同じ職場で働く以上、名を覚えるのは最低限の礼儀だ。

 しかしシャグナは笑い含みに言う。

「全く……抜け目のない奴だと思っていたが、名前すら憶えられていないようではまだまだだね……」

「……?」

 叱責されないのだろうかと見上げたところで、彼はティナの頬を撫でた。先程までの幼い笑顔が嘘のように消えた、妖しげな笑みが間近にあった。

「でも駄目な子だね……共に働く者同士、名を覚えるのは最低限のことだ……きちんと覚えるんだよ、ティナ」

 シャグナはこれ見よがしに名を呼んだ。自分の名を覚えていないのだと思っていた。驚いて薄く開いたティナの唇を彼はそっと撫でる。

「……返事は?」

「はっはい! 申し訳ございません!」

 黒い目が唇の形を辿った。

「……うん」

 彼はすっと体を離し、箪笥の前に重ねられていた白い包みを持ち上げた。両手で受け取らなければならない幅の包みだった。彼は今気づいた仕草で肩まで落ちた合わせを元に戻している。使いを頼まれるのかとほっとしたティナに彼は笑んだ。

「褒美だよ。見てごらん」

「えっ」

 片手に納まる程度の小さな置物でも貰うのだろうと高をくくっていた。上質な紙で包まれた品を取り出し、ティナは眉を上げる。着物だった。藤色の地に乳白色の刺繍がされた着物は上等なものだと一目でわかる。ティナは着物を掲げた腕をだらりと落とした。

「おや、気に入らなかったかい?」

 シャグナが口元に拳を当てて尋ねる。ティナは首を振った。

「いえ……このような上等な御着物を頂くわけには参りません……」

 下女如きがこんな着物を着る機会などそもそもないだろう。そう言って返そうとしたティナに彼はああと声を漏らした。

「そうそう。言い忘れていたのだけれど……今日は女中の仕事もお願いするから」

「はい?」

 彼は眉根を寄せて丸窓の隙間に目を向ける。

「番頭が煩くてねえ……。今日は赤萄嵐の若様とうちで共同の宴を予定しているのだけれど……女中が足りないんだ。以前から番頭はお前を店に出せと煩かったんだが……」

 目を白黒させるしかないティナを彼は眉を落として見下ろす。

「まあ……化粧をさせなければ良いかなと、思って……」

「どういう……」

 彼はティナの顔を覗き込んだ。

「空いた酒を下げて頼まれた酒を運ぶだけだ。……いいかい? お前は遊女じゃないのだから、お客さんに触れられないように気を付けるんだよ。話もしてはいけないよ……会話の腕があるわけではないのだから」

「はあ……」

 ティナが女中として出ることは決定事項のようだ。会話については遊女との格差があるため分かるが、宴の席の客が女中に触らないなど絶対ないとは言い切れない。

 彼はにっこりと笑う。

「私の店の客は分かっていると思うのだけれど……万が一触られるようなことがあったら私に言うんだよ……? それなりのご対応をしないといけないからね……」

 どういう対応なのか皆目見当がつかなかった。事態を飲み込み切れていないティナを見おろし、彼は自然な仕草で髪に触れる。あまりに当然のような態度だった。彼は一つに束ねた髪を指先で梳きながら呟く。

「亜麻色の髪に水晶のような青い目ね……」

 ティナの目は青かったが、そんな表現をされた記憶は無かった。戸惑うティナにシャグナは吐息を落とす。

「赤萄嵐の番頭がそう言っていたよ……。ジンキの対応をわざわざ謝罪に来たのはいいけれど……あの表現はどうかと思うな……」

 確かに過ぎた表現だ。

「……たしの…ものだと言うのに……」

「――え?」

 耳が拾った言葉は上手く聞き取れなかった。彼はいつもの顔でティナを見下ろして応えなかった。

「この着物は今夜の宴に着なさい。女中頭にはもう話が行っているから、しっかり務めるんだよ……」

「はい」

 もう尋ね返せる雰囲気ではなかった。ティナはシャグナが扉を開いたのをこれ幸いと即座に部屋を後にした。

 廊下を足早に渡りながら、ティナはまだそこで囁かれているような錯覚のある耳を押さえる。聞き間違えに違いない。それに正しかったとしても、その真意は定かではない。

『私の獲物だと言うのに……』

 ティナは熱っぽい目じりを擦った。

 懐かない子供を懐かせて遊ぼうとしているに違いない。

「ああ……もう嫌……」

 治まりそうもない鼓動を抱え、ティナは苦しい吐息を零した。



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