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月の精霊~異世界って結構厳しいです~  作者: 鬼頭鬼灯
ガイナの神子─ 二章
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切り裂かれた膜


 第一区画内にある軍支部は常よりもざわめいている。クロスは彼らの出迎えのため門前に待機していた。

 ノナ州への視察から二週間経過していた。ジ州の警護筆頭官であるアラン殿下がお出でになる。だが、このざわめきはその為ではなかった。機能性を重視した飾り気のない門前に付けた黒い車から、アラン殿下だけでなく白の装束に身を包んだ少女が降り立ったからだ。

 カサハで顔を隠している少女はいうまでもなく月の神子。門前に配置された兵士の全員が彼女に視線を集中させる。クロスは天を仰ぎたくなる内心を押さえ、門兵に開門を命じた。情けない兵卒の様を目の当たりにしたアラン殿下の機嫌は急降下である。

「申し訳ございません……。後で、私から申し付けておきます」

「……きつく言っておけ」

 神子の手前、アラン殿下は元よりクロス自身も叱責は出来なかった。アラン殿下は殺意のこもった眼差しを周囲へ飛ばし、足早に支部内へ向かう。

 クロスははたと彼の後ろについていた少女を振り返る。おっとりと周囲を見渡していた彼女は、アラン殿下があっという間に遠ざかって行くのを見て慌てた。長い衣を忘れた足取りで彼の背を追った神子は見事に転げた。

「ひゃう!」

 甲高い少女の声で我に返ったアラン殿下が振り返る。クロスは眉根を寄せた。腕の中に少女を抱え込んだのはこれで二度目となる。だが今回は以前よりも安穏とした状況で内心安堵する。滑らかな衣と華奢な体の感触が腕の中にあり、めくれ上がったカサハの下に隠れていた神子の黒い瞳がきょとんとこちらを仰いだ。

「ご無事でしょうか……」

 神子の頬がほんのり赤く染まった。

「……はい。ありがとうございます」

 恥じ入るその表情に腕が強張る。これがソラであれば抱きしめてしまっていたに違いない。――自分でよかった。

「……クロス……」

 背後から怒気を孕んだ声が響いた。クロスはさっとカサハの位置を戻し、神子を立ち上がらせた。

「今のは不可抗力です」

「そうか。妙な間を感じたがな……」

「……気のせいです」

 ソラの話を四六時中聞いている影響だ。クロスがアラン殿下の私城警護に入った際、ソラはいかに彼女が愛らしく慈悲深く無垢であるかしつこい程に話す。彼女の表情一つで庇護欲を掻き立てられるなど、彼女がまやかしを使っていない限りあり得ない。

 乱れた着物を整えた神子が顔を上げると、アラン殿下はその体を両腕に抱え上げた。私城内では見慣れた光景であるが、場所が場所だけに異様だ。軍人の巣窟で神子を横抱きにして闊歩する。アラン殿下以外には許されない行為だろう。

「自分で歩けます……っ」

「歩けていなかったではないか。転ぶくらいならば飛べばいいものを」

 言い返すために口を大きく開いたまま、神子は言葉を失った。アラン殿下は神子を見下ろし、鼻を鳴らした。

「まだ飛べんのか」

 クロスは淡々とそのやり取りを眺める。神子はあちこちに出現できる転移の術を身に付けていた。だと言うのに、なぜか空は飛べない。だから移動する際は消えるか馬車で移動するかだ。

「体を消して移動するのは簡単なのですが、実体を残したまま飛ぶという感覚が今一よくわからないんです……。一回飛べたのになあ……?」

 彼女が飛んだのは後にも先にもアラン殿下を救うために出現した、ゾルテ王国での一度きりだ。

「でも足腰はしっかりしているのですから、歩きます!」

 アラン殿下は眉間に皺を寄せた。

「黙って運ばれろ。お前に合わせると移動に時間がかかってかなわん」

「だから転移しますっていっているのに……」

「駄目だ」

「大体転んだのはアラン様が勝手に先に行っちゃうからで……」

「だから共に行こうとしているではないか」

「ええっと……」

 そこで反論の術を失うのも神子の愛らしいところだなと内心呟いたクロスは、振り返った鋭い眼差しに表情を引き締めた。

「さっさと来い」

「――は」

 普段はジ州の警護兵として勤めているクロスにとって、事態は穏当にまとめられていなかった。

 ロティオ州官長補佐官の依頼により捜査支団を編成したものの、調べたところで死因の再調査は不可能な上、死人に共通点は見当たらなかった。華道の見習いをしていた二十五歳の男が三か月前に、四十三歳の宝石商人が二か月前、大手宿屋の五十六歳当主が一か月前に殺されている。

 あえて共通点を上げるのであれば、殺害された時刻が深夜であること。発見者に寄れば全員心臓や腹などに穴が開いており、内臓を抉られていた。凶器に当たる物の発見は愚か、鋭い刃を使用したような形跡はない。そしてどれも酒を飲んだ後の頃合いであったことだが、同じ居酒屋を使った記録はない。

 悪い事には先日また人が死んだ。

 捜査支団に口を出さなかったアラン殿下ではあったが、もはや報告を受けるだけでは事態を収束させられない状況であった。

 そこに何故神子を連れてきたのかは、クロスの知るところではない。

 ガイナ王国旗と軍旗が壁に掲げられた指揮官室中央に座り、アランは一連の報告を口頭で聞いていた。先日の殺害現場には目撃者があったが、それが子供である。聴取内容の信憑性が格段に下がる上、子供の精神への療養が必要となりあまり喜ばしい事態ではなかった。

 アラン殿下の隣の机を陣取った神子は酷く退屈そうに頬杖をついている。ソラからの情報によれば最近ジ州の高等学院に通うようになったらしいが、何故軍支部に来たのだろうか。今の頃合いは丁度講義を開いている。退屈するくらいならば州城へ行った方が良かっただろう。

「それでお前は子供の話を聞いたのか?」

 話を振られ、クロスは神子から視線を外した。アラン殿下は書類に目を落としていてこちらの動作は気にかけていない。

「車の手配が必要だと聞いてこちらの支部より車を回したところでしたので、死体を見ることはかないませんでした。ただ子供が言うには黒い瞳の人間が消えたと言っておりました。状況を見る限り月の力を使って逃走したものと考えられます」

 その後に続けた言葉は子供ならではの思い付きであり、報告をする必要を感じなかった。黒い瞳の人間は多いとは言わないが珍しくはない。

「何故そのような時間にその子供はいたんだ?」

「宴の舞い手をしているそうです。あの日も夜の宴席に呼ばれた後に宿へ戻るところだったと」

「ふん。子供に夜の舞い手をさせるか。一人で帰っていたと?」

 クロスは首を振った。

「いいえ。途中まで双子の兄と共に帰っていたのだそうですが、商店の品に目を奪われているうちにはぐれてしまったのだとか」

「……双子」

 何故かアラン殿下は低く呟いて、隣にいる神子に目を向けた。神子は憂鬱そうに溜息をこぼす。

 アラン殿下は質問を続けた。

「で、その子供の名は」

「……はあ、ココ・アルゼとのことですが……」

「ココだそうだ」

「……聞こえております」

 神子はふさぎ込んだ声音で応え、カサハの下で額を押さえる。

「……私のせいだとおっしゃいたいのでしょう……」

 アラン殿下は彼女に対して珍しく冷淡に応えた。

「そうだ」

「……は?」

 報告の為に招集された二名の下士官だけでなく、クロスまで眉根を寄せた。アラン殿下はこの事態の原因が神子にあると言ったように思う。

 彼はあからさまに嘆息をして書面を捲る。

「その子供、逃亡者の目は神子のような目だったと答えたそうだな」

「──え」

 クロスは眉を上げた。報告した覚えが無かった。赤い双眸がちろりとこちらに向いた。

「子供の証言と詳細を省くのは感心せんな、クロス。何故省いた」

「それ……は…」

 咄嗟にまともな理由が見つからなかった。彼は眉間に皺を寄せて頬杖をつく。

「神子の存在をおとしめるものだから。そうではないか」

「は……」

 赤い双眸に怒りが滲んだ。

「だがお前。本当に神子が民を殺していたらどうする。お前の報告が無かったために、見当違いの捜査を繰り返しまた民が命を失う可能性は考えなかったのか」

「しかし……」

 まさかこの少女が人を殺せるはずが無い。己をさらおうとした子供の願いさえ哀れと叶えてしまう。そんな慈悲深い神子が、民を無残な方法で殺すなどと考えられようか。

「下らん思い込みは捨てろ。――ジ州は豊かになりすぎたようだ」

 アラン殿下は苛立った声音で書類を卓上に放り捨てる。クロスは顔を上げた。

「王立軍にしてもそうだ。毎夜浮かれ騒ぐ豊かさにおぼれ、民の安寧を守るべき軍人たちが神子一人に目を奪われ己の職を忘れる。民自身も隣で人が殺されていると言うのに我関せず己の用事を優先させる。現に、死んだ男を助けるために力を注いでいたのは兵一人だったとか」

「……」

 彼はクロスの二つ隣に立っている兵士を顎で示した。

「今回の子供の発言はゼトルヴァ伍長が報告書に記載していた。分かるか、クロス」

 彼の言いたいことがクロスには分からなかった。目を見開いたクロスを彼は怒りが揺蕩う瞳で見据えた。

「神子というまやかしにお前達は惑わされ過ぎだ。神子一人が降臨しただけでこの国は安寧の地に変わるとでも思っているのか?」

「──」

 神子は物静かに主の言葉に耳を傾けている。残酷な言葉だと思う自分は、既に狂い始めているのだろうか。

 彼は酷薄な言葉を繰り返した。

「お前たちの浮かれようは目に余る。一人、一人と神子に近い者からその目が曇っていっているようだと俺は思う」

 クロスは頬を強かに打たれた心地だった。その通りだと、心根が肯定した。永遠に咲き誇り続ける城の庭園。常世と呼ばれるその庭の片隅で女神が眠りに落ちている様を何度見たことだろう。月夜には金色の蝶々と戯れる女神が金の粒子を散りばめながら踊る。桃源郷を思わせるその景色を見るたびに、己の心は安穏と曇っていった。神子があるだけで幸福だと感じてしまった。その実、日々の問題は何も変わらず起こり続けているというのに。

 刻一刻と兵士たちの気勢は削がれて行っているのだ。問題を問題とも思わぬような――自分と同じ瞳を曇らせた人間が王立軍に増えていく。

「夢を見るのは止めろ。神子はこの国の民全てを救いきれるほど万能ではない。更には、これは神ではなく神に最も近い人間である。――神子とて人を殺せる」

 クロスは拳を握った。アラン殿下は隣の神子に聞こえるようにはっきりと言い放った。

「神子が民を殺したのであれば、俺は法に基づいてこれを殺す」

「殿下!」

 思わず声を上げたクロスの視界の端で、白いカサハが揺れた。

「……もしも私が民を殺した暁には、この首を躊躇わずお切りください」

 彼女はゆっくりと立ち上がり首を傾げる。

「ですが昨夜は……私はアラン様と共におりました。私は此度の犯人ではございません……」

 アラン殿下は冷たく言った。

「だが双子がこの地にいるのは他でもないお前の責任だ」

 神子は衣擦れの音と共に深く頭を下げた。

「申し訳ございません……」

「お前のまいた種だ。お前が摘み取れ」

「……畏まりました」

「殿下? 何を……っ」

 神子に捜査の一端を担わせるような真似は出来ないとクロスが身を乗り出したとき、神子の形が崩れた。白い装束の端々が金色の粒子に変質し、瞬きの後にはその姿は掻き消えてしまった。

 アラン殿下は眉根を寄せ、俯く。その顔色が平生よりも悪く見えるのは気のせいだろうか。

「……死んだ男が最後に行った店を調べ直せ。これまでに死んだ人間たちが立ち寄った店と、会話をした人間の特定を急げ」

「……」

 返答を躊躇ったクロスを強い眼差しが射抜いた。

「――お前が忠誠を誓ったのは誰だ」

 クロスは息を飲んだ。すとんと己の眼がかつての冷静さを取り戻すのが分かった。

「支団の編成をいたします」

 クロスは大きく敬礼を返し退室する。

 忠誠を誓ったのはガイナ王国第一王子――アラン殿下ただ一人。


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