滲む穢れ
第一区画と各区画は大きな橋で繋がっていた。第一区画の周囲には大きな川が流れており、人が落ちればまず助からない。広い川幅に対し、水深は浅い。そのくせ橋から川までの距離は眩暈を覚えるほど遠い。このため国が建てた橋は分厚い石で作られており、橋の両端に兵士が常駐していた。
緩く曲がった形の橋を馬車と人が行き交う。夜の帳が降りる頃、ぽつり、ぽつりと灯火が灯り始める。王家の建てた橋の灯火は不思議なことに宙に浮いている。丸い燭台の上に灯る明かりは炎でありながら、油を使用している様子はない。なんでも月の力を練り込んだ石を燃やしているのだと飲み屋で隣に座った男が話していた。
変わった男だった。質の良い着物を着ていながら、さして値の張らないつまみと酒を飲みながら店主と話をしていた。趣味のよい青い布を頭に巻いていて顔はまともに見えなかったが、節が目立つ指は男が力仕事をしているのだろうと想像させた。
大きな体は鍛え上げられている雰囲気で、人の気の惹き方が上手い話し方をする男だった。つい初対面にも拘らず多くを語りすぎた。
日頃の愚痴から始まり、最近はまっている夜遊びや巷を流れる噂話まで。話し込んでいるうちに、つい飲み過ぎてしまった。
風に当たろうと当てもなく歩いていた男は、第八区画と第一区画を繋げる『相橋』まで来ていた。橋の中央ならばもっと風があるかと歩みを進める。夜も深い頃合いだと言うのにこの橋を往来する馬車は多い。第七区画と王都から来る客足で毎夜相橋は賑やかだった。
橋と陸地の間に立っていた兵士は男に一度顔を上げたが、酔った客が歩く様など日常茶飯事で直ぐに往来する車に目を移した。
橋の頂で立ち止まった男は、深い闇が落ちる川を見下ろす。谷底を彷彿とさせる勢いの風が底から舞い上がり、男の前髪を拭き上げた。
ふと飲み屋で出会った男の話を思い出す。
『このところ夜に変な物が蠢いているようだ。用心して帰れよ』
不意にぞくりと悪寒が駆け抜け、背後を振り返った。明るい灯火に照らされた道を人々が歩き去って行く。どんな変化もない様子に安堵し、手を着物に擦りつけた。いつの間にか手のひらはじっとりと汗ばんでいた。
「どうにも、怪談は苦手だなあ……」
一人呟いて身を小さくする。
飲んだ勢いで最近聞いた怪談話などするのではなかった。元来妖怪の類はどうにも好きになれないのだが、隣に座った男にそそのかされて先日聞いた話を饒舌に語ってしまった。
なんでも、最近夜に人の臓腑を食らう妖怪がでるのだと。明るい灯火で生まれた深い闇の中に入り込むと、いつの間にか体の中に妖怪が入り込み臓腑を食らわれてしまっている。臓腑を失った者が内臓を返せと手を伸ばすと、妖怪は忽然と闇空に消えてしまうのだとか。
「内臓取られて返せっていえるわけもねえよな……」
怪談話を自分で否定してみたが、やはり妙な悪寒が肩口を這いまわる。男は肩を竦めて相橋を戻った。早く家に帰って寝た方がいい。
第八区画の賑やかな喧騒の中に紛れようと橋を降りきった時、追いすがるように風が男の周りを撫でていった。
湿気を含んだその匂いは、鉄臭く嫌な気分にさせるものだった。
「──こっちだ!」
誰かの怒鳴り声が上がり、男は顔を上げる。煌びやかな街路の一角で人が幾人か大きな声を上げていた。どうせ酔客が喧嘩をし始めたのだろう。巻き込まれるのは面倒だと男が方角を変えようとした時、槍を持った兵士達が脇を駆け抜けた。
「ん?」
目を丸くして振り返る。橋の脇に常駐していた兵士はおらず、彼らが駆けて行ったのだと分かった。
「たかが喧嘩で大げさな……」
この間に橋から転落する人間がでたらどうするつもりなのだと揶揄しながらも、男は喧騒の方向へ足を向け直す。物見高く喧嘩の仲裁でも見て行こうと、人垣が生まれつつある通りの路地を覗き込んだ。
路地は表通りを照らし出す灯火で深い闇に沈んでいた。
路地の端に黒い油のようなものがこぼれ出している。襤褸布の下にも染み込んでいると目を凝らしたところで、血の気が落ちた。
襤褸布かと思っていたそれは着物だった。上等な着物のはずだが、その布は無残に破れ、その下からあふれ出るもので薄汚れて見えていただけだった。闇色に沈んだその液体はみるみる路地に広がって行く。
「州城へ運ぶ! 車を用意しろ!」
大きく叫んだのは珍しく甲冑を身に付けた兵士だった。橋の袂にいた皮の胸当てをした兵士が通りを駆けて行く。命じた兵士は転がった体に月の力を注いでいたが、見ている者達はその行為に意味がないと分かっていた。
大きく穴の開いた胴からあふれ出る液体。その空洞を埋めるものが無くては、力を注いでも意味がない。すでに人形のように動かない体のその男は、目を見開いたままだ。既に金の燐光が体から漏れ出ていた。
「――車を!」
大きく地響きを立てて馬車が到着したとき、兵士の喉元から悔しげな声が漏れ聞こえた。衣が緩く揺れ、金色の燐光が辺り一面に霧散した。主を失った着物がぱさりと血だまりに落ち、じわじわと染め上がっていく。
兵士は顔を上げた。
「誰か! 誰か現場を見た者はないか!」
人垣が蜘蛛の子を散らすように割れていった。人が殺された場所になどこれ以上いてたまるか。同じく背を向けようとした男は、兵士の前に残った子供に気付いた。痩せた体ではあるが、身長は年齢よりも少し高いのではないだろうか。幼い顔は妙に綺麗で人を惹きつける。子供は首を傾げて兵士に言った。
「黒い目の人だよ。ぱって消えちゃったの。神子様みたいに綺麗な目だった」
兵士の体がぎくりと強張った。子供に怯んだようにしか見えなかった。思わず立ち止まった男は、その周囲にまだ残っていた人々の顔色に気付く。兵士が動揺したわけを理解した。
巷に流れる妖怪の話。忽然と現れては人の内臓を食らい、消えていく。それが人の所業であるのなら、余ほどの月の力の持ち主でなければ、そんな真似を出来るはずがない――。
「子供、このような場で神子様の名を出すことは許されん。控えよ」
車を用意した兵の一人だろうか。同じく甲冑を身に付けた兵が脇から現れ、小さな肩を撫でた。落ち着いた兵士の声で男は我に返った。
そうだ――あり得るはずがない。神子様はこの世における豊穣の神であり、慈悲の女神だ。第一王子の庇護のもと、人々に力を分け与えている神がこのような外道な行いをするはずもない。
胸を撫で下ろした男と同じく、ほんの瞬き凍りついた人々は再び各々足を動かし、殺害現場から遠退いていった。
――……だが……。
男は首を振った。重く凝る鳩尾を撫で、足早に家路を急いだ。
翌日、相橋の下を流れる川の浅瀬に血痕が発見された。被害者から抉り取った内臓を捨てた後だろうと新聞に書かれていた。
闇の触手がゆっくりと臓腑を蝕んでいく。人々の心に黒い染みが落ち始めていた。




