一点の染み
濁りはこの身に降り積もって行く。
濡れた瞳、すらりと伸びる指先、透き通る肌、整った肢体。
体に這いまわる眼差しと奥へと忍び込もうとする触手。
この身が受け入れるべき運命なのだと、とうの昔に諦めてしまった。
血に穢れたこの身に付きまとう数多の瞳。
血濡れたこの手はもはや清められるはずもない。
ああ――……許されるのならば。
許されるのならば……あの無垢なる少女もこの手に掛けてしまいたい――。
「チビ」
開店までの僅かな時間で運びきらなければならない酒を両手に抱え、ティナは声のする方を振り返った。来客用の部屋から出てきたのはシャグナだった。彼のものではない花の香りが漂ってくる。
「はい」
少し乱れた着物の合わせを直しながらこちらへ歩いてきた彼は、ティナの腕の中の酒に目を向ける。
「ああ……酒を運んでいるのか」
「はあ」
この後も洗浄した膳の揃いを運ばなければならない。呼び止められることも迷惑だとさえ感じてしまうが、支配人を前にそのような顔は出来ない。
菓子折りを運んだ日から、少しずつティナの仕事はまともなものに変わっていた。その変化がシャグナの口添えのためなのか、他の何かの影響なのかティナにはわからなかったが、少なからずシャグナには感謝していた。
彼はティナの顔を見下ろしてふと笑う。
「お前は……本当に無垢な顔をしているね……」
意味が分からずぽかんと見返す顔に手が伸びてくる。ジンキの手に触れられた記憶が蘇り、体が強張る。彼はその反応さえおかしそうにティナの耳をそっと摘まんだ。
「な……っ」
耳元に唇を寄せ、彼は吐息を含ませて囁く。
「どうして私の部屋に来ないんだい……? ずっと待っているのに……」
かっと頬に朱が上った。褒美をやるという話だったが、そんなもの貰うためにシャグナの部屋を訪れるほど図に乗るわけにはいかない。
「め……っ滅相もございません!」
「……私の部屋に来るのが怖いのかい……?」
その通りだと答えられようはずもなく、口を開閉する。彼はくつりと笑った。
「心外だな……お前のような初心な娘に無体を働く男だと思っているの……?」
「いい……いいえ……っ」
心臓が乱れる。血のめぐりが早すぎて上手く考えられなくなる。彼は細い指先でティナの首筋を一撫でした。
「……っ」
ざわりと悪寒が駆け抜けた。恐怖に耐えられず両目をつぶったティナの耳元で彼は低くいった。
「じゃあ、明日……必ず私の部屋へ来るんだよ」
「はい!」
一刻も早く逃げ出したい思いで、ティナは大きく頷いた。
シャグナが体を近づけてまた何か言おうとした時、彼の背後から声がかかった。
「お待ちどうさま……」
部屋の中から床を滑る布の音が聞こえた。シャグナの体がすっと離れた。
部屋から出てきた女に目を見張る。
濃厚な花の香りが溢れかえる。派手な赤い唇、同じ色が目じりを彩り、長い睫の下にある琥珀色の瞳は潤んでいるのではないだろうか。ほんのりと上気した頬、乳房の膨らみが見えそうで見えない巧みな位置で大きく開いた着物の合わせ。
シャグナはいつもの笑みで彼女を振り返り、首を傾げる。
「そう……見送りを頼もうと思ったのだが……」
彼女はうっとりとした笑みを返した。
「あれ、構いやしませんよ。一人で行けます」
シャグナの腕にしな垂れかかるように触れた指先は細く美しかった。シャグナは薄く笑んだ。
「……お一人で帰すわけがないでしょう……サクヤ嬢」
結い上げられた赤茶色の髪から首筋に数束の髪が零れ落ちている。敢えてそのような形にしたのか、そうでないのか判然としなかった。
シャグナの手が彼女の背中に回った。視線を絡ませたその姿はまさに一つの合わせ絵にしか見えず、ティナは頭を下げて視線をもぎ取った。
「申し訳ございません。失礼いたします!」
「……」
シャグナが物言いたげな空気を出した気がしたが、ティナはそそくさと厨房へ向かう。心臓が狂ったように激しく動いていて、まともに対応できる自信はなかった。
頬が赤く染まっている自覚がある。厨房まで駆けこもうとしたティナは突然行く手を遮られ、つんのめった。同時に体を誰かに抱きとめられた。
「おいっ危ないなあ。大事な酒なんだから走って運ぶなよ……」
廊下から数段下にある厨房へ勢い込んで入り込んだティナが転げないよう、抱き留めたらしい。呆れた声音に顔を上げると、若い料理人の男だった。
「あ……すみません」
男の名前をなんといったか思い出せずじっと顔を見上げていると、彼はティナが駆けてきた方向に目を向けた。釣られて見ると、シャグナとあの女の人はまだ廊下の先にいた。しかもシャグナはこちらを面白そうに見やっている。
「ああサクヤ様か……。最近シャグナ様はサクヤ様に頻繁にお会いになるなあ。この間も都で逢瀬だったとか……」
何気なく呟きながら男はティナの体を支え直し、シャグナ達に頭を下げた。厨房に戻る背中に彩られた桜花蒼姫の名が瞳一杯に映り込んだ。
「逢瀬……」
「そうそう。お前この間、都への使いでお車に乗せていただいただろう。会わなかったか?」
都への使い――。
彼は反物屋の前で車を止めた。そうだ、店の男が約束の方が中でお待ちだと言っていた。あれは、あの女の人が店の中で待っていたということだったのか。
反物屋で、彼女に贈る着物を選んでいたのだろう。
ティナを都まで運んだのは本当に出かけるついで――。
「あのお二人が一緒だとこっちまで照れちゃうよなあ。色香が違いすぎる。サクヤ様に掛かれば遊女も形無しだ」
「……遊女の姉さまでは……ないのですか」
階段の真ん中で呆然と呟く。彼は振り返って可笑しそうに笑った。
「あの方は都の商人の娘さんだよ。一生働く必要のないご身分だ」
「……そうですか」
使いを頼みたいといっていたではないか。お客様に渡す菓子折りに何かあったら困るからとも。
擦り切れた襤褸を身にまとい、荒れた肌を整える余裕もない下女に過ぎない。彼にとっては益体もない使用人の一人が問題を起こさないようにと手を差し伸べただけ。
勘違いのしようもないただそれだけの事。
なのにどうして――私は失望を覚えているのだろう。
ぽたりと美しい絵画に墨が落ちたようだった。
男がまた何か言って手を差し出したので、ティナは両手に抱えていた酒を渡した。酒を受け取った男はティナの顔を覗き込み、また何かを尋ねる。上手く聞き取れなかったが、ティナは適当に相槌を打った。
「失礼いたします……」
廊下に出ると、もうあの二人はいなかった。夕日が差し込む艶やかな廊下には、彼女の香りがまだ残っていた。
「……早く御膳の準備をしないと……」
呟いて廊下を歩きだす。料理人の男の名前はやはり思い出せなかった。




