闇色の瞳
ノナ州一華やかな宿屋は式場などとしても活用される巨大な広間を併設している。州内の婚姻だけでなく各商会の会議なども行えるように設けられている数ある広間全てが、今は開け放たれている。仕切りとして用いていた壁を取り払い、一間とした宴会場の上座に座るのはガイナ王国王子とその婚約者であり月の神子である少女。長椅子の肘掛に肘を付いて頬杖をついている少女を盗み見る。
彼らの両脇には甲冑を着込んだ兵士が付いており、会場全体に兵は五万といた。宴会場の前方には巨大な舞台が設置されており、これから雑技団による演目が始まる予定だ。
「桃糖酒をご用意いたしましょうか?」
彼女の傍に侍る女が気遣わしく尋ねると、彼女は僅かに身じろぎした。
「何でもいい……」
少女の見てくれでありながら、毎夜酒をたしなむと言う話は真実らしい。主然とした彼女の振る舞いも月の精霊の頂点に君臨する者であれば当然の態度なのだろう。
ノナ州を治める州官長はアラン殿下の脇に座り何やら媚びへつらった物言いで財政について話しているが、要は神子の力を垂れ流せという内容だ。
用意された酒を躊躇いなく喉に流し込もうとした神子は、ぎくりと動きを止める。酒に何か入っていたのかと顔を向けたビゼーだが、彼女は恨めし気な声で侍女にひっそりと語りかけた。
「ねえ……おねがい。髪飾りはいらないと思うの……重いの……」
侍女は周囲を憚りながら小声で応える。
「なりません。今宵の宴は殿下と神子様の歓待でございます。髪飾りも付けぬような姿をお見せするわけには……」
ビゼーは己の耳を疑った。聞き間違いかと耳をそばだてると、神子の甘える声が聞こえる。
「カサハで隠れちゃってるのに……?」
「駄目で。」
「でも……着物も重すぎて動けないの。お酒を飲む腕も上げにくい位に重いのよ。ねえ知っていた? 誰も着ないでしょ、この服……。だから知らないのでしょ……ね……」
ビゼーはこれ以上聞く必要はないと判断し、聞き耳を中断した。神子の着物は正装だった。移動の際に身に付けていたアラン殿下によって下賜された薄布の合わせではない。
昼の出来事で機嫌を損ねているのかと思ったが、この気だるげな様子は髪飾りと衣の重さで身動きできないためらしい。
そんなことよりも先程からそわそわと神子の様子を窺っている下士官の一人が目につく。青い髪の男は伍長でありながら、殿下の覚えがめでたいという若造だ。確か名をソラといった。
ビゼーは眼光鋭くソラを睨みつける。
「おい、お前。先程から目に余るぞ」
ソラは腰に力を入れて敬礼を返した。
「は! 申し訳ございません。」
何に対して謝罪しているのか分かっていない顔つきだ。ビゼーは現在神子の斜め後ろについている。ソラはその周囲に配置された兵の一人だが、この男はさり気なく神子に近い場所を頻繁に選び取っている。
よもや神子に懸想しているのか。
これから演舞が始まるというのに浮ついた気分でいられては困る。演舞の最中に舞い手から襲撃される可能性とて想定している厳重な警護の中に一点の曇りもあってはならない。
ビゼーは一つ息を吐き、殿下の横に配置されていたクロス特務曹長に目配せをした。彼は目配せだけでこちらの意向を理解し、近くにいる兵に殿下の横を変わらせると神子の脇へ配置を変えた。殿下には申し訳ないが、彼は武人である。武人と着物の重さ如きに嘆いている神子であれば警護すべきは後者となる。
「おい、貴様。来い」
「……はい」
ビゼーが顎をしゃくると、ソラは肩を落として後に続いた。
宴が始まるざわめきの波を抜け、通路へ出る。宴会脇の通路は薄暗い。宿の使用人と演舞に呼ばれた踊り子たちが慌ただしく通り抜けていた。客の前で叱責するわけにもいかないビゼーには都合の良い場所だった。
若造は叱られる準備万端の項垂れ具合だ。ビゼーは彼の向かいに仁王立ちして両腕を組んだ。
「貴様先程からどういうつもりだ。今宵の宴は殿下と神子様のための物であって、我々は気を弛められる立場ではない」
「申し訳ございません……」
「何故落ち着きなく神子様を窺う。神子様は殿下のもの。下らぬ感情を持っているのではあるまいな」
万が一にも神子に触れようものなら切って捨ててくれる。
ソラは大きく動揺した表情で首を振った。
「まさか! 俺……っ私はそのような大それた思いは抱いておりません!」
「では理由を言え」
みるみる勢いを失い、ソラは項垂れた。
「……神子様は……正装が特にお嫌いなのです」
ビゼーの眉根が寄った。
何を言い出すのかと遮るよりも早く、ソラは捲し立てた。
「カサハもお厭いになっておられ、城では殿下に賜られた着物で身軽に過ごしていらっしゃいます。神子様は城の者すべてにお優しくあられ……誰もに丁寧な接し方をされます。あのように椅子に横たわられる姿などこれまで一度も見せた例はございませんでした。長の移動がお体に触られたのではと……つい……心配が過ぎてしまい……」
あのような態度になってしまったのだ。と言いたいらしい。
ビゼーは眉間を指先で揉んだ。
「お前は殿下の城の常駐兵だったか……」
アラン殿下の私城には配置されない以上、神子の日常をビゼーは知らなかった。この男から聞くだけでいかに神子が溺愛されているかが伝わる。そしていかに彼女が傍若無人に暮らしているのかも。
「はい。申し訳ございません。神子様の御身を守るべき立場である以上、神子様の警護に専念するべきであります」
「分かっているのならば、初めからそのようにしろ」
「――は!」
厳めしく言い放つと、ビゼーは顎を動かして戻るよう示した。
昼間の彼女の転移はビゼーにとって暴挙以外の何でもなかった。彼女は隊列を組んで警護をしている意味を分かっていない。勝手に脇道の畑に転移した上、一般人と会話をするなどと誰が予想できただろう。アラン殿下が突然車を止めさせ、隊列を戻せと命じた時は何事かと殺気立った程だ。
――そう。普通、隊列は戻らない。
戻るという予定外の動きが入るだけで警護に隙が生まれる。絶対にしてはならないことだ。戻ってみれば彼女は呑気に子供と話しているし、アラン殿下が特に彼女を咎めた様子もない。
――甘い。甘すぎる。
目の前を歩く若造にしてもそうだ。何故ここまで神子に甘くなれるのか、ビゼーには理解できなかった。彼女はこの国の財政を支える要であり、失ってはいけない宝だ。己が主人であれば過ぎるほどの警護を理解せよ。守りからすり抜けてはならぬと、きつく言い付けているところだ。
「全く……理解しかねる」
苛立ったまま呟いたビゼーは向かいから歩いてきた女に目を見開いた。漆黒の瞳に漆黒の髪。
――……神子。
頭が理解するよりも早く、腕が動いていた。
「待て」
「――っと」
腕を掴まれた女の声を聞いて、ビゼーは眉根を寄せた。男だ。掴んだ腕も筋肉質だった。
白の薄い衣を身に付けた男は目の周りに色気のある化粧を施しており、唇にも紅が引かれていた。目を凝らせば髪は偽物であることに気付く。己の記憶にあるかつての神子と似通った姿をした男に何故か不快感がわいた。
「貴様、なんだその格好は。精霊の黒髪を真似るなど不敬ではないか」
男は肩を竦め、色香ある笑い方をした。
「今宵は神子様の神話を模した舞踊を取り入れております……。事前に演目のご了承を頂いているはずですが……問題でしょうか?」
「……そうか」
ビゼーは腕を離した。彼は小首を傾げて媚びた笑みをこちらに向けると、頭を下げて舞台の方へ移動する。神子のものとは似ても似つかない淫靡な香りが鼻先を撫でた。
「神子様はもっと無垢な感じですけどね……」
先程の男に見とれた表情でありながら、己の内心と同じ言葉を吐いたソラを睨みつけ、ビゼーは足音高く宴席へ戻った。
神子はアラン殿下に何事か話しかけられ、首を傾げる。ずれたカサハの隙間から零れた髪は白銀。
もう漆黒へ戻ることのない彼女の髪を見ると、痛ましいと感じる。その全身を血染めにした過去を彼女は微塵も見せない。己の目で見たわけでもないビゼーですら、彼女の経験は残酷に過ぎると思う。同時にゾルテ王女への断罪は冷酷であるとも。
彼女は億劫そうに首を回し、戻ってきたビゼーとソラに目を向けた。漆黒の瞳は穏やかに二人を映し込み、幸福そうに微笑む。
――どこまでが彼女の演技なのだろうか。
己が抱いた疑問に、ビゼーは虚を突かれた。
傍若無人、自由奔放な振る舞い。甘い笑みと無垢な言動で周囲を翻弄し、虜にしていく彼女のその全ては、決して全てが真実の姿というわけではないのではないか。
「……闇だ」
ぽつりと、ビゼーは呟いた。
漆黒の甘い笑み。アラン殿下の指先が彼女の髪をすくい上げ、彼女の瞳から己の姿が消えた。ほっと胸を撫で下ろしたのは紛れもない自分自身。
衣の重さを嘆く程度のか弱い少女に見つめられただけで恐怖に凍りつくなど、騎士の風上にも置けぬ。
ビゼーは厳めしい顔つきで彼女の背後に立った。眼差しを周囲へ配る。
宴の始まりを知らせる笛の音色が会場中に響き渡った。
――彼女の中に深い闇があるなどと――想像してはならない。




