雲上人
第十二区画の港から巨大な船がゆっくりと出発した。船の底に馬や車を搬入できる造りを導入したのはここ最近の事だとか。ジ州からノナ州までは陸路と海路を使って移動する。海は想像以上に広いようで、通常二、三日はかかる航路らしい。だがアランが用意した船は半日で到着する。どこの世界でも費用を支払った分時間を短縮できる仕組みである。
通路と言う通路および客室の出入り口を兵士が警備した状態の中、紗江は向かいに座るアランに尋ねてみた。
「ねえアラン様。甲板に出ても良いですか?」
豪華な長椅子と机、灯火が揃った部屋の中央で黙々と書類とにらめっこをしていた彼は、紗江を一睨みして俯いた。
「……駄目だ」
「こんなにたくさん兵士さんがいるのだから問題ないでしょう? どうせこの船一隻貸し切っているんだから……」
語尾はうんざりした口調になってしまっていた。王族というもののやることは大胆だ。千人は乗せられる船をたった二人の移動の為に差し押さえる。その上一体何人の警備兵を使っているのか。見たところ五、六十人はいそうだ。
彼は眉間に皺を寄せて書類に何かを書いている。残念ながら一体何の書類なのか紗江にはわからない。
「海の中に飛蛇がいる。たまに甲板にいる人間の肉を削いでいくから安全じゃない」
「……トビヘビ……」
恐ろしい生物がいるのだな。紗江は暗澹とした表情で俯いた。一緒に来てくれた侍女のアリアがそっと目の前に茶を出す。それを受けとって紗江は彼女の表情を窺った。彼女は微笑んでいる。けれども常よりも面白そうに笑んでいる。
紗江は半目で向かいの男を見やった。
「嘘でしょう。そんな生き物いないわ」
彼は視線も上げなかった。
「何故だ。俺が嘘をついていると言える証拠は何だ」
「無いけど、でも嘘だもん」
つい甘えた口調になる。紗江が自分に敬語を使うことを好んでいない彼はふっと笑ってこちらを見た。非常に甘い表情である。途端に恥辱心が襲い紗江は俯いた。
「そうだな。だがお前は俺が言ったことを鵜呑みにするしかない程度にはこの世界の事を知らない。だから俺はお前を最大限安全な場所に留め置こうとしている。これはお前にとって不都合な事か?」
王子様は思慮深い。そして相手に反論させない物言いも良くご存じだ。紗江に反論の余地が無いと見て取った彼は、再び書類に視線を落としたのだった。
「神子様、そう気落ちなさらないでください。こちらの部屋からも十分に景色を楽しめますわよ」
アリアが取り成すので紗江は窓からの景色に視線を移したが、内心では海の匂いを楽しみたいのだと文句を言った。
船がノナ州の港に到着後、地上に降り立った紗江は王族というものに愕然とする。船から降りるまで半時ほど待たされ、降りてみれば船着き場に掛けられた桟橋の目前に馬車が待機。地上を歩いたのはほんの数歩であった。
柔らかな綿と起毛地の布で内装した馬車の中は狭くもなく広くもないが、いつもアランが使っているそれよりもよほど豪勢だ。黒地に金の装飾をこれでもかと施したうえ、その装飾には宝石があしらわれている。
「どうしてこんなに豪華なのでしょう……」
内装部分にまで贅沢に宝石が使われている。恐らく特注だろうが馬車の中に用意された小さな机の上に書類を置いて仕事をしながらアランが応えた。
「視察団だからだ。王家の視察として移動する以上、常に民の目がある。民を安心させるためにも威光を見せる必要があるのだ。だから休みを取って来たかったのだが……」
「……王族は面倒くさいですねえ……」
「お前は王族どころかこの世の神だがな」
ちらとこちらを見た彼は、自覚は全くないようだがと嫌味を付け加える。紗江は知らぬ素振りで窓の外に視線を逸らした。
ノナ州の家はジ州の家よりも規模が小さい。理由を聞けば治められる税金によって補助金の金額が変わるからだそうだ。農業の町であるノト州の民はその基本的な収入が他州よりも劣る。整備された道の両脇に広がる田園風景は一見のどかで豊かな緑が茂っているようだった。だが目を凝らせば野菜はしなびていたり端々が枯れていたりした。
「お水が足りないのかしら」
「水もそうだがやはり大地の栄養が足りない」
「どんな土なのか見たいのですが」
「後でな」
目の前にその例がたくさん広がっている。後で見るということはノナ州の官吏が用意した畑を見るということだ。それでは実際と異なる可能性がある。
「ちょっと馬車を止めてくれたら見られるのに……」
「隊列を止めると民が集まる。危険だ」
小さな白い家の脇には井戸があった。どの家にもあるところを見るとさほど水に苦しんでいるわけではないのだろう。馬車の周りで黄色い声が上がっている。アランの顔を見た若い女の子たちが興奮しているようだ。
当の本人は全く気にしていない。きっと普段からこんな状況なのだ。赤い目と白銀の髪の美丈夫。普通にしていればため息が出るほどの造作だが、基本的に彼の眉間には皺が刻まれ不機嫌である。軍隊の人々は彼を恐れ敬っている印象があった。
馬車の周囲を歩く騎士たちは第三部隊だけではない。馬車の真横についている兵を覗き見る。白い短髪に切れ長の緑の瞳。妙に綺麗な顔の兵だった。同時に神経質そうでもある。いきなり扉を開けたら怒られそうだ。
「じゃあちょっと見てくるので、隊列はそのまま動かしておいてください」
扉を開けずに移動することにした。
「……は?」
アランが眉根を寄せて視線を上げた時には、神子の形は金色の粒子に成り代わっていた。
「こら、紗江!」
名を呼ばれると彼の場所が分かる。どうしてだろうか。もしかするとほかの人にも呼ばれれば気付けるのかもしれない。けれど紗江の名を呼べるのはアランただ一人だ。
必ず貴方の元へ戻りますと約束した。紗江はどこか愛おしい気持ちで彼の頬を撫でて消えた。
アランには金の粒子が一瞬己にまとい付いたようにしか見えていない。
太陽光が降り注ぎ、田畑の土は乾いて行く。王家の補助を受けて建てられた白壁の家の裏、一見豊かな実りを茂らせた菜園だが実った豆は小さく売り物にならない。さやも食べられるそれを菜園に植え付けたのは、豆が駄目でも自分たちで処理できるからだ。自分たちで処理することさえ惜しい手間をかけた野菜だが、売れずに腐らせるくらいなら食べた方がいい。
イルヤは乾き始めている畔の脇に生えた雑草を引き抜く。
「野菜は育たないのに雑草は生えるんだよなあ」
若干十歳の彼の声は高い。彼の声と同じ声が背丈ほどまで伸びた豆の向こう側から聞こえた。
「しかも根っこが長いよねえ。全然抜けない!」
妹のココは唸り声を上げながら草を抜いている。立ち上がって豆の向こうを覗くと、草を抜く反動で土の上に転げたところだった。
「わ!」
イルヤは声を上げて笑った。恨めし気にこちらを見上げる顔は同じ顔だ。明るい亜麻色の髪と緑色の瞳を持つ二人は双子だった。唯一の違いはココが真っ直ぐに伸びた綺麗な長髪なのに対し、イルヤは癖毛でうねった短い髪をしていた。
「あーあ。ティナ姉がいたらもっと上手に作れたのにね」
ココはぼやきながら空を見上げた。今年の野菜は上手く作れなかった。姉に教えてもらった通りに作ったつもりだったが、やはり出来は去年より悪く商品にならない。家族を養う余裕がなかった両親のために姉はジ州へ奉公へ出てしまった。仲介をした男が戻ってきたとき、何故か両親の顔色は悪かった。最近は普段通りに戻ってきているので、きっとイルヤ達と同じく寂しかったのだろう。
イルヤは収穫した豆が入った籠を持ち上げた。
「ココ、そろそろ雑技団の時間だよ。用意しなくちゃ」
ココは下唇を突き出す。
「えーまだ大丈夫でしょ。もうちょっとここにいたい」
二人は菜園だけでは成り立たない家計の為に雑技団に所属していた。夜の宴などに呼ばれ、武芸や踊りを見せる一団だ。仕事は夜からだが夕方前から練習の為に都近くの練習場へ向かわなければならなかった。
イルヤは苦笑する。
「ここにいたってどうせお会いできないって」
ココは明るく笑って立ち上がる。
「分からないじゃない! もしかしたら通り過ぎられるかもしれないわ! 運がよければお声を聞けるかもしれないのよ!」
ココは朝から興奮していた。ココだけではない。村一帯がそわそわと浮足立っている。
今日はガイナ王国に降臨された神子様がノト州の視察においでになるのだそうだ。どこを通られるのかは機密事項だとして知らされていないが、ノナ州指折りの雑技団は夜の宴に呼ばれている。その一つである紅扇団にイルヤ達は所属しており、ノナ州の都――ハバイの高級宿に神子様がいらっしゃることは事実だった。宿の場所から想像される経路の一つにイルヤ達の家前の通りが入っているのだ。雑技団では花形でない以上お声を聞ける機会はない。だからココは通りを横切る時にお顔を見たいと――できればお声を聞きたいと思っていた。
夜の宴の方がよほどお声を聞ける機会があるのではないかとイルヤは思っているが、口を出せば喧しく喚くので肩を竦めるにとどめた。
ココは畑を横切り井戸の水で手を洗う。擦り切れた麻の着物の形を整えて車通りの方へ向かった。イルヤは家の裏口に視線を向ける。暗く沈んだ家の中に人はいない。両親とも都の商人の下働きに出ている。自分だけ用意を済ませてもココに恨まれるかと、イルヤはやる気のない足取りで通りへ向かった。
乾いた石畳みの上を時折車が通り過ぎる。道の脇で車を窺っているのはココだけでなかった。疎らに港から来る車を眺めている村人たちを見ていたイルヤの耳元でココは奇声を上げた。
「来た! 来たよ! ほら!」
「え?」
通りのはるか先に目を凝らすと、王家の旗が見えた。そして黒い甲冑を身に付けた騎馬兵が足並みをそろえて向かってくる様に、ぎくりとした。甲冑を着た兵士はあまり見た覚えがなかった。街中を警邏している兵達は皮の胸当てを使っている。甲冑は実戦を想定した姿であり、彼らの腰には当然剣が下がっていた。暴徒の切り捨てを許された兵の姿に、喜び勇んで身を乗り出すココの腕をつかんだ。
「ココ。大人しくして。危害の恐れがあると判断されたら処罰されるんだから!」
「もうー神子様の前で斬るわけないじゃない! イルヤは慎重すぎだよ」
「お願いだから言うこと聞いて」
強く言うと、ココはイルヤと同じ仕草で肩を竦めた。
黒い馬車の正面に輝く王家の紋章は金と赤の宝石を使っている。その石が光を反射したとき、馬車の窓が目の前を横切った。小さな窓から見えたのは白銀の髪に高い鼻筋、威厳ある眼差しを正面に向けたガイナ王国王子の横顔だった。
「ひゃあ、殿下だ!」
ココが興奮して声を上げる。馬車脇を並走していた騎馬兵がこちらに視線を向けた。慌ててココの口を押さえると、兜の下で兵は微かに笑ったようだった。
「格好いい……」
何故かココは兵士を見て頬を染めている。節操がない。
やはりと言おうか、馬車は止まるはずもなく目の前を通り過ぎて行った。後尾の隊列が通り過ぎていくとココは大きく深呼吸をした。
「本当に王家の紋章って宝石を使っているのね。殿下も騎馬兵の人もすごく格好いいなあ……。どうにかしてお近づきになれないかなあ……」
イルヤは呆れて籠を抱え直した。
「ココはまだ十歳なんだよ。もうちょっと色香のある女の人にならないと無理だと思うな」
ココは頬を膨らませる。
「なによ。イルヤだって同じじゃない!」
「僕はココみたいな途方もない夢を抱いていないの。ほら、もういいでしょ。支度しよう」
「そうだね」
ココを促して家に向かおうとした時、目の端で何かが煌めいた。白い布が揺れた気がして視線を向けたイルヤは、ぽかんと口を開けた。白いカサハと上等な白い薄布で作られた着物を身に付けた人が井戸と畑の間に立っていた。その人は豆の畔脇にしゃがみ込み首を傾げる。
「お客さん?」
「……」
来客の予定などない。イルヤはココを黙らせてその人の傍へ寄って行った。ふわりと甘い香りが漂ってくる。直ぐに女の子だと分かった。自分よりも少し年上、姉と同い年くらいだろう。彼女はイルヤに気付くと顔を上げて口元に弧を描いた。
「……こんにちは。ここは貴方の畑?」
「はい……そうですけど」
あなたは誰ですかと尋ねようとしたが、イルヤは躊躇う。白い着物の刺繍は朱金。その着物を着た女の子が目の前にしゃがみ込んでいる。土の上に頓着なくしゃがみこんだ彼女の着物の丈は長く、裾に泥がついた。上等な衣が汚れても気にもならないような人間が目の前にいる。
――聞きたくない、というのが正直な気持ちだった。
彼女は脇に抱えた籠に目を向けてあら、と呟く。
「それは収穫できたもの?」
「はい……」
「見てもいい?」
「はあ……」
ココは怪訝そうに彼女を見ているが、イルヤは既に緊張していた。立ち上がると彼女はイルヤよりも少し背が高い程度だった。腕が震えている。両手で差し出した籠から豆を一つ摘まみあげ、彼女はふうんと呟く。
「やっぱり育ちは悪いのね……」
「今年はティナ姉……お姉ちゃんがいなかったから、上手に作れなかったの。去年はもう少しいい豆を作れたんだけど」
人見知りをしないココが近所話の勢いで応え、イルヤの背中に嫌な汗が流れた。ノナ州の農業が上手くいかない事は常識だ。それを尋ねている時点でこの人は雲の上にいる人だと、どうして気づかない。
彼女はココの不躾な言葉使いを気にするでもなく話を続けた。
「どうしてお姉ちゃんはいないの?」
ココは下唇を尖らせる。
「生活が苦しくてお姉ちゃんはジ州に奉公にでちゃったの。確か……とっても背の高いお店で働けるようになったとかお母さんが言っていたわ」
「そうなの……」
ココは唐突にカサハの中を覗き込んだ。イルヤが慌てて腕を引き寄せたが、ココは目を輝かせた。
「あなた神子様?」
「ココ!」
これ以上異常な事態を引き起こしたくない一心でココを叱るが、彼女はおっとりと笑った。
「ココちゃんというのね」
「うん、こっちはイルヤ」
ココとイルヤを交互に見た彼女は嬉しそうにいう。
「双子なのね? あなた達、とても綺麗な顔をしている」
ココの頬が一気に紅潮した。容姿において秀でているという利点があるからこそ、二人は雑技団での職を得られたのだ。ココは自分の容姿を褒められると有頂天になる。
「ありがとうございます!」
ココは身を乗り出した。
「私たち今、雑技団で演舞をしているんです! 紅扇団というの。きっと今夜の宴で踊るので、神子様見てくださいますか?」
彼女の赤い口元が綻んだ。
「ええ……殿下が許して下さるのなら」
――本物の神子だ。
イルヤの全身から血の気が引いた。神子はガイナ王国第一王子のものだ。
震える腕から籠が落ちる。通り過ぎたはずの車の音が石畳を揺るがしてこちらへ向かって来ていた。
「もう、何してるの? イルヤってばドジだなあ」
ココが籠を拾い上げる。イルヤの目の前には先程通り過ぎたはずの馬車があった。
「あら……どうしてばれちゃったのかしら」
おっとりと頬に手を添えた神子と、漆黒の甲冑を身に付けた一団は相容れない雰囲気だ。剣を帯びた騎士が一人馬から降りてこちらへ向かってくる。
「神子様、お戻りください」
騎士の声は落ち着いていたが、傍にいたイルヤとココに向けられた眼差しは鋭かった。
「お前達、動くな。神子様に触れてはならぬ」
ココの背中がびくりと跳ねた。イルヤは既に身動きを忘れた状態だ。
騎士の鋭い眼光に委縮した二人の前で、神子は穏やかに笑う。彼女は騎士の視線を遮って立った。
「ごめんなさい、お邪魔しちゃったわ。今夜の演舞……楽しみにしていますね。ココちゃんにイルヤ君」
またねと手のひらを振ると、彼女は騎士に庇われるように馬車へ向かった。漆黒の馬車の扉が開く。絵や写真でしか見たことのないアラン王子がちらとこちらを見て、神子を馬車に引き入れた。
「勝手をしないと言ったのではなかったか?」
機嫌を損ねたアランの顔は怖い。
隊列を止められないのなら自分一人で見てこようと思って馬車から転移したのだが、駄目だったようだ。土の状態と野菜の育ち具合を見られた紗江は割と満足している。紗江はおっとりと首を傾げた。
「アラン様がお呼びになればすぐに戻るのに」
小さな双子が怯えてしまって可哀想だった。
アランの眉間に深い皺が刻まれた。
「呼んでも戻らなかったから迎えに戻ったんだ……」
「まあ……お話に夢中で聞こえませんでした」
「嘘をつくな」
「アラン様も嘘をつかれますでしょう?」
にっこりと笑ってやれば、彼は忌々しげにこちらを見返すしかできなかった。




