執事の独白
月影を飲み下して眠りに落ちる神子を見られる人間は極限られている。
その筆頭は神子付の侍女達だが、神子は頻繁に侍女の目をすり抜けては城のあちこちを闊歩していた。神子の主であるアラン王子はもはや侍女たちが彼女を見失ったところで叱責すらしない。その身の内に莫大な月の力を持つ神子にとって転移は平生の事であり、何故かアラン王子が呼べば直ぐに傍に現れることから誰もが神子の気ままさに沈黙している。
神子の力により永久に咲き誇り続ける庭園はここ最近『常世』と呼ばれ始めていた。幻想的なその名に黄泉の国という意味も含まれていることに一体どれだけの人間が気付いているのだろうか。彼女の存在そのもののようだとルキアは思う。神の祝福を与える女神そのものの姿でありながら、あまりにも強大なその力に恐れを感じる。だがそれも己の弱い精神が見せる畏怖だとルキアは胸の内で感情を振り払った。
神子の好む酒を精製するために使う花──桃のように丸い形の八重花である『桃花』が見下ろすサイの上に少女が横たわっている。東塔前の庭の一角で、ルキアは眼鏡の端を指先で押し上げ微かに嘆息した。
見事な白銀の髪は随分伸びた。サイの上に広がった艶やかな髪から金色の粒子が煌めいている。長い睫、白い肌、赤い唇、華奢な体。彼女はこの城へ来た当初よりも確実に美しくなっていた。人々の信仰心と主の庇護欲を掻き立てるに相応しい彼女の姿形は、まるで彼女自身が計算して造り上げたのではないかと疑わしく思うほどに完璧だ。
万人に愛されるために創造された人形なのではないか――。ルキアは無意識に彼女の傍らに膝をつき、その頬を撫でた。長い睫が揺れ、とろりと漆黒の瞳がこちらを仰いだ。彼女の赤い唇に指先が引き寄せられる。ルキアは柔らかそうな唇に触れる寸前で我に返った。
「神子様……このようなところでお休みになってはいけません」
神子は億劫そうに上半身を起こし、夜空を見上げた。その瞳が月を映し込んだのだろう。彼女の体から金色の粒子が溢れだす。これは城の者だけが知る現象だった。神子の体に月の力が満ちた時、体に納めきれない力は零れ落ちる。
「……んー……」
まだ覚醒していない甘えた声だった。普段は主だけが聞いている声だろうと思うと、首筋に寒気を覚える。
ルキアは動揺を一欠けらも感じさせない声音で告げた。
「お休みになられるのでしたらお部屋へお願いいたします。夏とはいえ、ここで寝られますと兵も一晩中ここにいる必要がございますので」
アラン王子の私城では神子の傍に誰もいない場合、見つけた兵が一定の距離を取って彼女を警護する暗黙の了解があった。先程、ルキアが彼女の頬を撫でたところで兵が緊張したのだ。その気配に気づき、ルキアは我に返った。
神子は桃花の傍らとサイの草原の向こうにある露台付近で待機していた兵に視線を向け、おっとりと立ち上がった。
「お部屋へ戻られますか? 侍女はいかがされました」
「……今日はもういいと言ったの。アラン様は……?」
このところアラン王子の戻りは遅い。神子の降臨以降手を付けていなかったジ州の管理に動き始めたからというのが表向きの理由だったが、その実神子の力の分配について全州の情報を把握し直しているところだった。
アラン王子は政治的な話を彼女にしない。彼女が聞けば応える程度で、政に関わらせたくない様子だ。
ルキアがまだ戻らないと答えようとしたところで、背後から足音が聞こえた。神子は今はっきりと目覚めた。
「紗江、何をしている」
威厳ある声に振り返れば、官服を身にまとったアラン王子が襟首の留め具を外しながらこちらへ歩いて来るところだった。帰宅後すぐに庭園に来たところをみると、出迎えた兵にどこにいるのか確認したのだろう。城の警護兵達は常に神子の位置を報告し合っている。一度神子を奪われた経験がある以上、アラン王子率いる第三部隊の名に懸けて同じ轍は踏めない。
神子は愛らしい笑みを浮かべた。
「……何もしていません」
転寝していたと応えれば小言が飛んでくる。ルキアは無言でアラン王子の背後に控えた。神子の答えを疑わしく思った主が自分に視線を向けるが、気付かないふりをするに限る。痴話げんかに巻き込まれるのは御免だ。
「……月見か?」
「はい。今日は遅かったですねえ」
神子が話を振ると、アラン王子は眉根を寄せた。
「ああ……お前の、ノナ州の件だが……やはり視察という形にせざるを得ない。宰相は俺に休みをくれてやるのが嫌らしい」
神子は眉を上げた。ノナ州に出かけたいという神子の願いに合わせてアラン王子は一週間程度休みを取るつもりだと話していたが、やはり駄目だったようだ。
「宰相様は厳しいのですねえ」
「……まあ、厳しいというよりは……婚前旅行がどうのと煩い。黙らせるよりは従った方が楽だ」
「……婚前旅行……」
神子の表情がぼんやりしたものに戻る。
宰相はアラン王子が神子を競り落としたことが未だ気に入らないのだと噂に聞く。婚約披露宴に置いても直接神子に触れるという前代未聞のあけすけな行動で兵士たちの肝を冷やした。
「一緒に住んでいるのに……?」
神子は首を傾げる。同じ城に住んでいる二人に婚前旅行が良くないと言う道理は叶わないと言いたいのだろう。だが宰相は能吏であり、彼の洞察力は尋常でない。この二人は婚約式を終えてなお、大して深い関係ではなかった。互いに互いを大切にしている様子ではあるが、二人の関係は恋人同士のそれにも劣る状態だとルキアは思っている。
現に今アラン王子が彼女の頬に手を添えただけで彼女の表情が強張った。だがアラン王子は気にする様子も無く頬を撫で、顎をすくい上げる。
「そうだ。一緒に住んでいるのに、婚前旅行は駄目だそうだ。何故だと思う。ん?」
アラン王子が意地悪く笑み、顔を寄せる。神子は己の発言が彼の勘に障ったのだと気付いた様子だ。未だに触れることさえ緊張する彼女にアラン王子は時折苛立つ。
「や……あの……」
彼は溜息を吐いた。
「カサハも付けず、また庭で寝ていたのだろう……紗江」
神子のごまかしはアラン王子に通用していなかった。
「えっと……」
「いくら俺の城の者が皆信頼のおける人間ばかりだとはいえ、来客もある。お前は寝ているとき抱き上げられても起きないのが普通だ。俺の言いたいことが分かるか」
寝ている間に誰かに浚われたらどうするのだと尋ねられ、彼女は眉尻を下げる。
「紗江、お前はもう少し己を理解するべきだ」
アラン王子は指先に力を入れた。彼女がはっと目を見開いたが、アラン王子は神子が抵抗をする間も与えずその唇を塞いだ。ルキアは音もなくその場を下がる。
灯火が照らし出す庭園の暗い小道を歩き戻りながら思う。時折神子を見ていると我を失いそうになる。己のものにしてみたいと言う衝動が駆け抜ける。だが実際にしたいとは思っていない。彼女は己には過ぎた存在だった。対等に考えられるはずもない、神の一人だ。
それを堂々と己のものだと見せつけられるアラン王子は、真実民の頂点に君臨するべくして育て上げられた人間だった。
「見られていたな……」
ルキアは呟く。
アラン王子は自分が神子の頬に触れたところから見ていたに違いない。
臓腑に落ちる罪悪感を微塵も表情に映さず、アラン王子の身支度のための衣装を用意しに戻る。きっと彼は、自分のこのどうしようもない感情さえ気づいているに違いない。
視線を上げると、今夜も月が煌々と地上を照らしていた。
──恐ろしくも愛おしい、ガイナ王国の神子。




