頬紅
裏口につけた馬車から、高価な紙で彩られた菓子箱が慌ただしく店の中へ運ばれていく。生菓子は鮮度を保つため、直ぐに冷蔵室へ運ぶ必要があった。共に帰ってきたシャグナは自室へ戻るでもなく、下男と下女達が無言で荷物を運ぶ様を眺めている。その中の一人として荷を運んでいたティナは、上がり框に佇む番頭と目が合ってしまった。明らかに苛立っている表情だったが、彼は何も言わず荷が運びつくされると背を向けた。
「酒はそろっているか!」
大きく声を上げて足音高く厨房へ消える。思わずほっと肩の力を抜くと、誰かが頭を軽く叩いた。見上げると一緒に荷を運んでくれた緑の目の男だった。
「呆けとらんで、旦那様に礼を言ってくるんじゃ。叱られんかったんは旦那様がおってくれたおかげじゃけえ」
ティナは目を見開く。鬱陶しいとさえ思っていたシャグナが、荷運びを見守っていた理由など想像さえしなかった。
男に背中を押されて改めて裏口前に目をやると、シャグナはこちらを見ていた。気まずさに頬が強張った。
「ちゃんとせんといかん」
ティナだけに聞こえるように低く促して、男はシャグナに頭を下げて馬車を動かしに出て行ってしまう。いつまでも裏口でうじうじしてもおれず、ティナはシャグナの前に駆け寄り大きく頭を下げた。
「あのっ今日はありがとうございました!」
首を傾げる衣擦れの音がする。シャグナはくつりと笑った。
「どういたしまして。……赤萄嵐への使いは問題なかったかい?」
赤萄嵐の名を聞くだけで恐ろしい記憶が蘇る。唇を撫でられた場面と屈辱感が一気に胸を駆け巡った。
「……はい、手紙は……読んでいらっしゃいました……」
「なにも無かったかな……」
何も無かった。少なくともあのジンキという男にとっては何事もない些末な一瞬でしかなかったはずだ。
ティナは唇をきつく噛みしめ、頷く。
シャグナは突然ティナの手を掴んだ。
「どうしたの……これ……。ジンキかい?」
珍しく眉を潜め狼狽さえしていそうな顔つきだった。
「えっ」
シャグナは右手の甲を見ている。擦り取った赤黒い血痕がまだそこに残っていた。見ようによっては大きく切ったようだった。
ティナは慌てて首を振った。
「いいえ! ジンキ様は何もされておりません。これは……ぶつかった人が怪我をしていたのか、大通りでついた汚れですので」
「怪我……?」
聞き返されてもティナには分からない。穏やかでない目つきのシャグナに肩を小さくする。
「えっと……私も良く見ていなくて。多分ぶつかった人の血かと思うのですが……直ぐに立ち去られたので……怪我をしていたのかどうかよく分からないのです」
「その人の顔を見た?」
ティナは質問の意図が分からず戸惑った。
「え……黒い布で頭と口を覆っていたので……よくは……確か目が黒かったような…」
「そう……」
シャグナは眉を潜めながら懐から出した高価な布で血を拭う。ティナは逃げ出したい衝動に駆られた。
「旦那様……っ布が汚れてしまいます!」
「これは汚れを取るために用意されている布だと思うけれど……」
手水で手を洗ったときなどに使う用の布だが、ティナにとっては高価すぎる代物だった。血を拭い取っては染みになってしまう。
「ああ……うん。本当に怪我はしていないのだね……」
血を全て拭い取って納得がいったようだ。シャグナは布を懐に収めていつもの表情に戻った。
「今日はすまなかったね。ジンキは癖が強いから……。それで、何をされたの?」
何も無かったと言ったはずだ。だが見上げたシャグナの顔は、何かあったに違いないという表情だった。
「いえ……あの」
シャグナは首を傾げじっと見下ろしている。同じ言葉を繰り返そうと口を開いたところで、シャグナは何故か顔を近づけてきた。甘いシャグナの匂いが迫り、目の置き場に困る。着物の合わせから覗く鎖骨も、首筋も、弧を描いた唇も濡れた漆黒の目も。どれもティナには見てはいけないもののように思えた。
「ジンキと秘密を作るような真似をしてきたの……?」
ティナは目を剥く。
「いいえっ」
「じゃあ…何があったか私に話せるね……。それとも……私を嫉妬に狂わせようとしているの……?」
唇から吐息までが見えるようで、ティナは両目をつぶった。真っ赤になった顔にも気づかず、胸元でぎゅっと両手を握りしめる。声は震えていた。
「みっ見た目が……っみすぼらしいと……、お叱りを受けただけです!」
「…………」
妙な間があった。そっと片目を開くと、まだ間近にシャグナの顔があり身が縮こまる。
彼はふっと笑った。
「この僕の使いに……文句をつけるだなんて……礼儀のなっていない男だねえ……」
「――」
ティナは短く息を吸った。そしてすとんと全てが腑に落ちた。
「……いいえ」
彼は使いに文句を付けたわけではなかった。シャグナが眉を上げる。ティナは唇を噛んだ。
「ジンキ様は……桜花蒼姫の顔に泥を塗るなと……おっしゃったのです」
彼にシャグナや桜花蒼姫に立てつこうという意思はなかった。彼が揶揄したのはティナという人間だ。何もわかっていないティナに己の立場を分かれと示唆した。直後は怒りに飲まれたが、今更馬鹿にされた理由が分かる。桜花蒼姫で働いているという矜持を持たない自分は、桜花蒼姫の名を名乗るに相応しくない。矜持を持たない己自身にさえ気づいていないお前は愚かだと、彼は言ったのだ。
「……申し訳ございません……旦那様」
シャグナに自分を見られるのも申し訳なく、俯く。
「そう……」
シャグナはすっと体を離した。それはティナとの一線を引いた瞬間に思え、ティナはとっさに顔を上げた。
「あのっ、これからは……っ」
彼はきょとりとティナを見つめている。――縋りついている。自分を見捨てないでと、この男に甘えようとしている。
ティナの頬は再びじわりと染まった。何に矜持を持てばよいのか、分からなくなりながらもティナは小さく言った。
「これからは……ジンキ様に相応しくないなどと言われないよう……もっと、桜花蒼姫に相応しい従業員の立ち居振る舞いを……心がけます」
くつりと声が漏れ聞こえる。
シャグナはいつもの何を考えているのか分からない薄笑いを浮かべていた。
「ジンキ様に、ね……」
細い指先が自分に伸びて来て、思わず一歩下がった。打たれるのかと思ったが、彼は伸ばした指先をティナの手前で止めた。
「お前は……」
「ひゃっ」
シャグナは一拍後、瞬きの速さでティナの腕を強引に掴み、引き寄せた。呼吸すら忘れたティナの耳元で彼は囁いた。
「今度、私の部屋においで……。今日の褒美をあげる……」
「……っ」
濃厚な香の匂いに包まれ、ティナの思考は停止した。真っ赤になって狼狽える様を満足げに見下ろしたシャグナは、ティナの頬を撫でて、するりと館の中へ入って行った。




