空白の付け
昼の休み時間を忘れ、山積みになった報告書の束を処理していたアランは、子細な輸出入の書類の脇に積まれていた軍部宛の書状に手を伸ばした。ジ州警護の筆頭官である以上、各駐留所からの報告に目を通さないわけにもいかない。普段はロティオに押し付けている内容確認だが、今日は朝から見かけない。
「あいつめ……考えとやらを実行するんじゃないだろうな……」
婚約式での啖呵は記憶に鮮明だ。ガイナ王国の第一王子であり、ジ州における上司であるアランに向かってロティオはこれ以上州城に降りてこないのであれば考えがあると言ってのけた。その先を聞くことさえ億劫で――むしろ恐ろしくもあったが――彼の声を遮った。
彼の考えはよく分かっているつもりだ。これ以上アランがジ州を放置するのであればロティオは己が辞職すると言うつもりだったのだ。
ジ州はロティオのおかげでつつがなく回っていると言っても過言ではない。王にロティオを州官長の座に推薦しようにも、推薦する前に彼の兄であり宰相であるフロキアを通さねばならず、いつもそこで難癖がついて上手くいかない。
フロキアは若干二十五歳であるロティオではまだ役不足だと考えている。たった一つ年上のアランが州官長をすることにはいささかの懸念も抱かぬくせにと、弟に甘い兄を忌々しく思うのも昨日今日の出来事ではない。
「何かおっしゃいましたか?」
しれっと州官長室に入って来た紫紺色の髪の男に、アランは内心安堵しながら興味のない素振りで書面に目を落とした。
「どこに行っていた。もう昼を回った頃合いだろう」
「……もう三時でございます。そのご様子では休憩も取っていらっしゃらないのではありませんか? 日ごろの行いの賜物でございますね」
「――ちっ」
全く持って喰えない男だ。ロティオは澄ました顔で自席へ向かう。
「席を外して申し訳ございません。本日は州官長の強いご指示により州城の調査官が全て出払っておりまして、私が直々に高等学院の講義を担当するという事態でございまして」
厭味ったらしい言い方は兄の上を行く。アランは眉間に皺を寄せて鼻を鳴らした。
「微細な数値のずれと高をくくって放置していた付けだ。放置しておいたところで己の懐は痛まぬと目をつむればこの国はすぐに腐る。俺はそういう屑を採用したつもりはなかった。お前も指摘していたのだろうが、結果が伴わなければないも同然だ。人心というものをもっと学ばねばならんのではないか」
「……」
ロティオは痛いところを突かれたという顔で、アランの斜め前にある席に沈む。
「……申し訳ございません……」
素直に落ち込む姿はフロキアとの血の繋がりを欠片も感じさせない。こういうところがまだ兄の懸念となっているのだろう。
アランは情けない顔を一睨みし、書類に目を落とした。
日常的に起きる軽犯罪の報告を確認している途中、アランは手をとめた。珍しく殺人の項目が上がっていた。詳細な報告の割に犯人像が全くつかめない内容だった。シタンで心臓を潰されて町民が死んだ。華道の見習いをしていた男に恨みを抱く人物は複数あるものの、殺害された場面を見ていた者がなく証拠も残っていない。凶器も見つかっておらず、傷跡から凶器の推定が出ていないのも異常だった。
書面を読むだけで何が解決するわけでもないと書類を繰って行っていたアランは、眉間に皺を寄せ低く声を上げた。
「……ああ?」
ロティオがこちらに視線を向けるが、反応を返す気分ではなかった。
二か月前にも人が死んでいる。場所は第八区画だ。更にはひと月前にもシタンで人が死んでいた。どれも内蔵が潰されている。
アランはロティオを睨みつけた。
「……お前、殺人の項目を何故放置した」
ロティオははっと背筋を伸ばし、首を振る。
「放置などしておりません! 第七区画および第八区画の警備兵の増員と調査官の追加をいたしましたが、関連がつかめず警護対象の把握が……。町民に警戒を促そうにも第七区画と第八区画は夜が最も賑わうため、夜目の利かぬ内にまた殺され……目撃者も無く……。更には客層が客層のため自身へ降りかかる火の粉とは思わないようで、民自身の警戒心が一向に増さず……」
青ざめていく顔つきを見るに、悠長にしている事態ではないと理解したようだ。
「……軍部に捜査師団を作るよう申告をしろ……」
こめかみに血管を浮かせたアランを前に、ロティオは従順に頷くと早々に部屋を退室した。第一区画内にある軍支部へ申告書を提出しに出たのだろう。
「全く……」
頭脳明晰、完全な情報把握と機敏な対応においては他の追随を許さない人物であると言うのに軍関連の事項になると極端に判断力が落ちるという点もロティオの弱点だった。
ロティオと入れ替わるように扉が開く。同時に己が贈った香水の香りが漂い、アランの目元は柔らかくなった。カサハで隠れているが彼女の口元は弧を描いている。
「失礼します……アラン様」
「ああ……今日はどうだった」
目立たないように一般的な着物を身に付けていた彼女は、今はその上に白の衣を羽織っている。月の精霊がまとうべき朱金の刺繍を施した衣を厭う紗江であるが、州官長室に入るためには扉前の兵を黙らせる目印が必要だった。
紗江は機嫌よくアランの元へ歩いてくる。
「とても面白かったです。ガイナ王国はお花の形ですがその中央に海があるのですねえ。知りませんでした」
「今更そんな講義をしていたのか?」
高等学院という学校の存在を教えたのは執事のルキアだ。誰でも受講できると聞くなり自分も受けたいと言いだし、家庭教師を付けてやると言ったがどうにも一般人に混ざるという部分に重きを置いているらしく、仕方なく連れてきた次第だった。
紗江は頬をほんのりと染めて首を振る。
「いいえ。ロティオさんの授業は確か交易についてだったのだけど、ちっともわからなくて。壁に貼っている世界地図をずうっと見ていました。海の名前が星海だなんて見た目通りでとっても可愛い」
「……やはり家庭教師の方がいいと思うのだが」
講義を受けに来たがったくせに、内容を聞かないとは全く持って無意味だ。半目で窺うが、彼女は華奢な肩を竦める。
「家庭教師を付けていただいたら、お城から出られないじゃないですか」
「神子は普通頻繁に外を出歩かん」
「かごの鳥は扉が開いた途端、飛び去って二度と戻らないものですよ」
「……」
アランは眉間に皺を寄せ、書面に目を落とした。
どいつもこいつも己の手から逃げることを脅しに使う。物寂しく胸中で呟くと、紗江はアランの真横に来て首を傾げた。
「嘘ですよ。……私は必ずアラン様の元へ戻ります」
甘い声音に目を上げればカサハの隙間から漆黒の瞳が覗く。赤い唇に視線を移すと彼女の白い歯が覗いた。
「アラン様、今度ノナ州に連れて行ってください」
「うん?」
「農業の町だとお伺いしました」
「……」
視線を逸らせば、顔を覗き込み言葉を重ねる。
「勝手はしません」
カサハの隙間から垂れた銀糸の一束を指先で弄び、アランは己を見つめる漆黒の瞳を見返した。
「俺との約束を忘れてはならんぞ」
「はい」
「目の前に憐れな民があっても力を使ってはならん」
「はい」
「たとえそれが死を意味していてもだ」
「はい」
「お前の力はこの国に公平に分け与える必要があり、少しでも偏っていると判断されれば不和を生むもの」
「ええ」
「力を使うときは俺の許しを得ろ」
「はい」
「力を使いすぎてはならぬ」
「はい」
「危険だと判断すれば逃げろ」
「はい」
アランの口からは自然、ため息が漏れた。
「……俺の元から決して消えてくれるな」
「お傍におりますとも」
彼女はカサハの下で穏やかに笑っている。
掌中の珠は決して大人しくしてくれない。




